009.この世界の錬金術②
「失礼します」
私は小声で挨拶をして入館をする。
「まあ、エリス様」
司書の女性が会釈をして返してくる。赤毛の髪の毛をぴっちりと後ろでまとめてネットでまとめている、いかにも働く女性、といった感じだ。
私からすると、社交に明け暮れるだけの令嬢よりは、はるかに気安く接することができる数少ない相手だった。
「いつも勉強熱心でらっしゃいますね。今日はどんなご用でいらっしゃったのですか?」
私は王妃教育を受けていた頃から、予習、復習のためにと図書館に通っていたので、そんな彼女ともすっかり顔なじみだ。
「先日の成人式で私、錬金術師に決まったのよ」
「まあ、そうなのですね。素晴らしいご職業ですわ」
――あら? 彼女はあの噂もしらない?
しかも、技師系職業も卑下したりはしていないのかしら?
あの日以来、王宮内ではなかった対応だったので、興味を持って聞いてみた。
「あなたは私が錬金術師に決まったおかげで婚約破棄されたってことを知らないの? そして、私がこの手を汚して働く技師に決まったってことに、なんとも思わないの?」
私は彼女に対して首を捻って見せた。
「……では逆にお聞きしましょう。エリス様は、一日中薄暗い図書館で本の管理をしている司書の私を、つまらない職業の女だと思われますか?」
あっ! と思って、彼女の問いに、私は慌てて首を横に振って返した。
「一日誠実、実直に働くあなたが、……私はとても好きだわ」
「ありがとうございます。……私は子供の頃から本が好きでした。だから、この職に決まったときは、神様が私の望みを聞き届けてくださったのだとまで思ったのですよ」
「そう。それなら良かったわ。……実はね、噂をする余所はおいといても、私もそう思っているところなの。割と錬金術師は私の天職なんじゃないかって」
私と彼女は顔を近づけて、小さくクスリと微笑んだ。
そうして、まるで密かな同士のような関係を新たに見つけて、私は彼女の案内で錬金術に関する本が置いてある書架まで歩いて行った。
「さて、まずは初級本よね。どれを読もう……って、え?」
触れない距離で背表紙を指さしなぞっていたら、ある著者名のところで手が止まってしまった。
「……パラケルスス」
パラケルススとは、元の世界でも実在したと言われる高名な『治験』を初めて本格的に導入したと言われる医師ともいわれる錬金術師でもある。その名前が、この世界にそのままあったことに驚いた。
まさか、パラケルススが異世界転移してきたわけでもあるまい。
世界は平行世界のようになっていて、違う世界に違う誰かが存在するのだろうか?
「まあいいわ。これも何かの縁。これから読んでみようかしら」
私はその一冊の本を手に取って、閲覧席に腰を下ろした。
薄暗い図書館の中で、閲覧席には一つ一つ魔導式のランプが、必要なときに点せるようにおいてあって、私はそれに触れて、明かりをつけた。
表紙を開き、パラパラとページを最初からめくっていく。
――あっちの錬金術……『科学』とは少し違うのね。
パラケルススが書いた本と言うことで、あちらの錬金術と似たような内容が書いてあると思って読み進めていたら、意表を突かれた。
めくっていくうちに、錬金術というものが、前の世界とこちらの世界とで違うことがだんだんわかってくる。
基本は一緒なのだ。
ある有効性のないものを、有効なものに変えるとか。
ある種の素材同士を混ぜて、薬のような有用なものに変化させるとか。
けれど、こちらの世界では、そこでところどころ『魔力』というもので『変成』することが必要らしい。というか、正確には『変成』することで、本来組成を変化させるのに必要だったエネルギーを、『魔力』で与えることができるらしいのだ。
要は、前世の世界では『エネルギー保存の法則』なんかがあって、化学変化を起こすにはそれなりのエネルギー、熱や、光といったものが必要だったんだけど、そういうものが、『魔力』で代替できるらしい。
「ずいぶん便利ね」
思わず小声で漏らした感想はそれだ。
だって、例えば最初に作るものとして載っていた『ポーション』。
これも、前の世界であれば素材と素材の必要な成分を抽出したものをあれこれと化学反応させたり、分離したりしながら作るものだった。
なのに、こちらの世界では、抽出した成分同士を、魔力を使って『変成』してしまえば、すぐにできてしまうらしい。
ずいぶんお手軽なのかしら?
それに、まず基本の『水』については、意識して水魔法を使えれば、綺麗な混ざりモノのない水、純水を得られるらしい。
というわけで、水魔法を使える私は純水を簡単に手に入れられる可能性が高い。
まあでも、ここについては私が水魔法を使えるから恵まれているってだけね。
とはいっても、『分離』という錬金術師特有の魔法……こういったものをまとめて『錬金魔法』というらしいけれど、それがあれば、やはり蒸留器で何度も蒸留することなく純水が得られるようだ。そして、そういった魔法はいくつかあるらしい。
「でもちょっと待って」
お手軽だなんて考えていた自分に待ったをかける。
だって、『錬金魔法』が使えるようにならなければ、この世界で錬金術をまともにできないということではないだろうか?
それに気がついたのだ。
「新しい魔法の練習が必要みたいね」
ぱたんと読んでいた本を閉じて私は肩を竦めた。
そして、本を元の場所に戻してから入り口へと向かい、司書の女性に挨拶をしてからその場をあとにしたのだった。