010.帰郷
その翌日。
まだ、日も十分に昇っておらず薄暗い時間に、私達は立っていた。
私は王宮の私のために与えられた離宮近くに寄せられた馬車の前にいるのだ。
この馬車を引くのは、例の豪速馬である。
「マリア、持ち物の移送の手順のほうはどうなの?」
私が声をかけたマリアとは、乳母の娘で、今は私の侍女をしてくれている人のことである。キャラメル色の髪と目にソバカスがあって、私より少し年上の愛嬌のある女性だ。
「はい。姫様と私はこの豪速馬で先に御領地に移動します」
その次に、彼女は私の耳元に口を寄せてそっと告げる。
「そして、すぐあとを追うように、豪速馬にひかせた荷馬車で、王宮やご当主様の王都のお屋敷にある貴重品を運ぶ手順にしております。荷造りも万全ですから、あとは乗せるだけですわ」
そう報告されて、私はにっこりと微笑んだ。
「マリア! あなたはなんて有能なの!」
私は小声で賞賛しながらマリアに抱きついた。
この状況だ。
万が一、と言うこともある。
国王陛下とお父様は大げんかの真っ最中らしいし、万が一決裂なんてなった場合、あてがわれた離宮や屋敷を空にしておかないと、私財を押収されるような状況になる可能性だってある。それを、きちんと見極めてくれていたらしい。
「姫様、いつまでも抱きついておられたら馬車に乗れませんよ」
口では窘めつつも、くすくすと笑いながら私の絡めた腕をほどくマリア。
「ええ、そうね。じゃあ、一緒に懐かしい故郷へ帰りましょう」
「はい、姫様」
そうして、彼女の手を借りて馬車の中に入る。私の後からマリアが馬車に乗り、私の向かいに座る。
「姫様、握りひもをしっかり握ってください」
そう言って、マリアが私に馬車の中の四隅に天井から吊り下げられたしっかりとしたひもを指し示された。
勿論我が家が用意した馬車だから、衝撃はなるべく抑えるべくして作られた良いものだ。それでも豪速馬は足が早いから、衝撃は免れないし、万が一急停止なんてした時のことを考えて、そのひもを握っていないと危ないのだ。
「ありがとう、そうするわ」
私とマリアはそれぞれ握りひもを両手でしっかりと握った。
すると、「せい!」と御者のむち打つ声が聞こえて、馬の鳴く声が聞こえるのと同時に、がくん、と体を背もたれにたたきつけられるほどの衝撃を感じた。
そして、ものすごい速さで、私達は王宮をあとにしたのだった。
国土は広いといっても、そこはお父様が特に優れた豪速馬を用意してくれたらしい。三日ほど大きな都市で内密に宿の予約が取られており、そこで休みながら四日目には、窓を開ければ懐かしい我が領地が見えてきたのだった。
「マリア! アネスタよ!」
十二歳で招聘されて、それ以降帰郷を許されず、四年ぶりに見る懐かしい我が故郷。
進む北部は豊かな森と平原に恵まれ、南東部を見れば砂漠が広がり、地平線が永遠かと思うほど続いている。
空は真っ青に澄んだ青空。これからの私の明るい未来を象徴しているかのようだ。
そうして、その中央部には山に囲まれた石造りの灰色の城が建っているのがようやく見えてきた。懐かしの我が家だ。「早く、早く」と心が急くのを感じる。
「早く帰りたいわ。お父様達のお顔も見たい」
そう。それすら四年間もの間許されなかったのだから。
そんな私を見て、マリアが微笑んだ。
「姫様、領に入ったとはいってもまだ道のりはございます。お口をつぐんでおかないと、いざというときに危ないですよ」
確かにこの速度での移動。急停止でもされたら舌を噛みかねない。
私は肩を竦めて笑うと、きゅっと口をつぐんだ。
そして、今頃空っぽになった離宮と王都の館を見て、王家の人達は大騒ぎをしていることだろう。
なにせ、婚約破棄されたとはいえ王太子の花嫁候補がいるはずの離宮はからっぽになっているわ、辺境伯の王都の館もからっぽ。
自分達――正確には王太子殿下がだけれども、彼らが引き起こしたやらかしのおかげで、まさかこの速度で逃げられるとは思っていなかったに違いない。
(リルルの優秀さのおかげだわ)
私は心の中で彼女に感謝する。彼女のあの能力がなければ、これほど早く私とお父様の間で、私と家のその後の対応を決められなかっただろう。
私の馬車の後方を走る荷馬車に乗せられているはずの彼女に、私は目をつむって感謝の気持ちを送るのだった。
やがて、豪速馬の速度がだんだん落ちてくる。そして止まった。
「お帰りなさいませ」
開けられた馬車の扉の向こうから声をかけられる。
一斉に光が入ってきてまぶしく、私はまぶたの上に手をかざして両目を細めた。そして、少しずつ光に目を慣らし、はっきりと外が見えるようになると、そこにあったのは懐かしの実家の玄関扉だった。
声をかけてくれた騎士に手を借りながら馬車から降りる。
そして、一斉に声をかけられた。
「「「お帰りなさいませ、エリス姫様!」」」
玄関から左右に分かれてずらりと並んだ使用人達が、私の帰宅を出迎えてくれたのだった。