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おうまさんごっこ

「どうか私の上にお乗りください」

「今日もやるの?」

「リンファス様は『おうまさんごっこ』がお好きでしょう?」

「……あなたに跨っていたことなら謝るわ」

「何を謝られることがありますか。今も昔も私にとってあなたの馬になれることは誇りなのです」

「わかった」


 ため息を吐きつつも、床に手をつく彼に跨る。


 おうまさんごっことは隠語ではなく、馬の真似をして四つん這いになった人間が人を乗せて進んでいく、いわば子どもの遊びの一つである。それを目の前の男、ジュードは成人をとっくに過ぎたリンファスと一緒にやろうと要求する。


 子どもの頃に二人でやっていたおうまさんごっこを再現しようというのだ。

 馬役はジュードで、リンファスは彼の上に乗って、手でペシペシと彼を叩きながら進めと指示を出す役。かつて使用人の子どもだった彼を無理矢理自分の馬にして、走れ走れとペシペシ叩いていた数ヶ月はリンファスにとって黒歴史だ。


 けれどジュードにとってはそうではなかったらしい。


 リンファスの馬であることを誇りに思っているらしい彼は、毎晩主人を背中に乗せて走りたがる。夜会にもリンファスの馬として参加したいらしく、綱や鞍まで用意していた。


「事が落ち着いたらこれを付けて参加しましょう!」と目を輝かせる彼を全力で阻止し、それらは全てリンファスのベッド下に隠してある。


 まだしばらく夜会に出席する予定はないが、それまでなんとか守り抜くつもりだ。


 その他にもいろいろある彼からの要望を躱し、時には妥協した結果が、寝室でのおうまさんごっこ。リンファスが絶対に人に見られたくないと伝えたために、寝室は当初の三倍の大きさになり、ベッドと一人分のチェアセットだけが部屋の隅にちょこんと残った状態となった。


 この砕けた口調は『主人が馬相手に敬語で話すなんてとんでもない!』と彼が一切譲歩してくれなかったから。妥協せざるを得なかった。


 変態趣味ーーそう切り捨てるのは簡単だが、ジュードのこの思考を作り上げたのは他でもないリンファスである。


 それに、彼が救ってくれなければリンファスは今頃、もっと劣悪な環境に投げ込まれていたことだろう。



「ああ、そうだ。今日のご報告なのですが、航路をまた一つ確保いたしました。以前より進めておりましたカジピール国との国交もスムーズに進むかと」

「そう……えらいわね」


 リンファスの元婚約者はカジピール国との貿易に最も力を入れていた。

 だが海の向こうの彼の国に行くためには時間もお金もかかる。航路を確保出来れば……との呟きを何度も耳にしてきた。


 それをジュードは半年と経たずに確保しただけではなく、大国との国交も結んでしまった。


 リンファスを馬鹿にした元婚約者の家を追い詰めたい父と結託したとはいえ、早すぎる。


 そう、自称リンファスの愛馬はとても優秀なのだ。……優秀すぎるほど。


 リンファスに頭を撫でられて恍惚とした表情を浮かべるジュードだが、二年前まではリンファスの元に戻って来るつもりはなかったのだという。


 全てはジュードが復讐のために仕組んだことではないかと疑いもしたが、彼はまっすぐとリンファスを見つめた。


『私は馬です。あなたの馬としてプライドを持っています。愛する主人の幸せを壊すなんてそんなことするはずがありません』


 今でもその言葉の全てを信じたつもりはない。おうまさんごっこにも抵抗はある。それでもあの時、ジュードから差し伸べられた手を拒む選択肢はなかった。



 一年と少し前まで、リンファスは他の男と結婚する予定だった。幼少期から婚約者として側にいた相手である。リンファスが十八になった年に結婚する予定だったが、相手の都合で結婚は三年ほど後ろ倒しになった。結婚適齢期は過ぎてしまったが、仕事の都合なので仕方ないと納得して待ち続けた。


 そしてようやく去年、婚姻を結べることになった。

 やっと彼の妻になれる。恋愛感情はなかったが、社交界の中で自分だけが取り残されていることに対しての焦りはあった。だがそれもすぐになくなる。日取りが決まった時、心底ホッとした。


 両家で結婚式に招待する人達をリストアップし、招待状だって配り終えていた。

 けれど結婚式を二週間後に控えた日、男の浮気が発覚した。


 招待状を送ったとある家から届いた手紙を開くまでリンファスも両親も、彼が真面目で誠実な男性であることを疑いすらしなかった。


 だが手紙の差出人は王家とも繋がりのある家、結婚前にこんなでまかせを吹き込んでくるとは考えづらい。


 リンファスと父は手紙を手に、彼の家へと向かった。真偽を確かめるためだ。

 突然の訪問に本人は留守だったが、彼の両親に手紙を見せることとなった。けれど二人揃ってどこからこんな噂が流れたのか見当もつかないと首を振った。


 後日、彼の口からただの噂だと聞ければそれで良かった。


 だが最悪の事態が起きた。リンファス達が彼の家を訪れた翌日、見知らぬ女が家に押しかけてきたのだ。


 彼の恋人だと告げるその女性を屋敷に招くつもりはなく、メルビン家の使用人は彼女に引き取るように告げた。だがその女性は屋敷を後にするどころか、大声を上げ始めた。


「私と彼は愛し合っている! 子どもだっているんだから! 結婚なんて許さない」

 彼女はリンファスが二階のカーテンの隙間から覗いていたことに気づいていたようだ。バッチリとこちらを向いて、胸に抱いた赤子を掲げてみせた。


 さすがに二階から赤子の詳しい特徴までは掴めない。ただ、髪の色が彼と同じであることだけは分かった。

 使用人は騒ぐ女性をなんとか敷地の外へと追い出し、メルビン子爵へと報告に向かった。

 女性の身元を割り出すのにさほど時間はかからなかった。


 あの日送られてきた手紙には浮気相手の名前が書かれていたからである。

 彼女の名前だけ別の便箋に記してあったため、こちらは相手の家には見せていない。見せればもみ消されることがわかっていた。男の両親は本当に心当たりがない様子だったのでなおのこと。女の訪問を告げるよりも前に確証を得ておく必要があった。


 結果、手紙に書かれていた女性こそがメルビン家を訪れた女性だったことが判明した。


 メルビン子爵は今度は相手の名前まで記して手紙を出した。

 これが本当ならば婚約破棄どころでは済まさないぞと脅しまで入れて。



 するとその日のうちに彼らはメルビン家を訪れた。さすがに彼も恋人が結婚する予定の相手の家に押しかけるとは思っていなかったのだろう。応接間に通すや否や、床に額を擦り付けて謝罪の言葉を繰り返した。


 弁解の言葉も混じっていたが、頭が真っ白になったリンファスに許す・許さないという選択肢はなかった。



 ただ悪夢なら早く覚めてくれないかと願い続けた。



 だが現実は残酷だ。あの赤子は彼の子どもだったと認めたことで、父は怒りを露わにし、結婚の予定は打ち消し。その流れで婚約破棄に伴う損害賠償の話が始まった。


 相手は伯爵家。家格だけ見れば相手が上だが、メルビン家は相手が行なっている事業に多額の援助をしている。もちろん男とリンファスが結婚することを前提としたものだ。結婚が先延ばしになったのもこの事業が理由である。


 相手の都合で結婚を延期させておきながら、その間に他の女性と体の関係を持ち、子を孕ませたなんて笑い話にもならない。



 話し合いの末、相手の事業のほぼ全てがメルビン家に譲られることとなった。

 援助をしていた金額や結婚を先延ばしにしたことでリンファスの婚期が終わってしまったこと、なにより結婚を取りやめたのが式の五日前であったことが理由とされた。


 残ったものは全て赤字を抱えた事業で、相手の家が没落するのも時間の問題だろう。


「当然の報いだ。むしろ手緩いくらいだ」

 父は目元をヒクつかせながら、リンファスの次なる相手を探してくれたが、結婚式の直前で話を取り消した話は社交界中に広まっている。


 舞い込む話はどれもメルビン家の金目当てか、ロクでもない男ばかり。


 半年が経っても次の相手が決まることはなく、リンファスは好奇の目から逃げるために屋敷に閉じこもることとなった。




 そしてつい5ヶ月ほど前に転機が訪れた。

 リンファスに婚姻を申し込む手紙の中にとある公爵家の名前があったのだ。


 それがジュードが当主を引き継いだカーリル公爵家だった。父は「このチャンスを逃してなるものか!」と急いで準備をし、一週間後には相手と会うことに決まった。


 父は知っていたそうだが、リンファスはこれから会う相手が昔、虐めていた相手だとは知らず、会って『あなたの馬がお迎えに参りました』と言われるまで全く気づかなかった。いや、言われても脳内で処理が終わるまで時間がかかったほどだ。


 現実逃避をしたかったわけではない。

 それほどジュードは昔のイメージとかけ離れていたのだ。


 記憶に残っていたジュードの金髪はいつも薄汚れていて、お風呂に入れたら水が茶色く濁ったほど。絡まった髪はブラッシングするのにも一苦労だし、身体だってガリガリでリンファスの餌やり以外にもご飯を食べているのか心配になったほどだった。


 そんな彼に、リンファスはよく手のかかる馬だわとプンプン怒りながら散々なことを言っていた。今思うと最悪である。


 それでもあの頃のリンファスにとってジュードは大切な自分のおうまさんで、彼が家を去ると分かった時には大泣きして目を腫らした。


 ジュードにも当り散らしたような気はする。だがなんと言ったかまでは覚えてはいない。

 それでも父から「彼はいっぱいご飯が食べられる家にいくのだよ」と言われて、鼻をすすりながら涙を止めたことだけはよく覚えている。



 数年後にすっかり黒歴史になって、そのさらに十数年後に本人と再会することなんて夢にも思わずに。



「上手くやったあなたの愛馬にご褒美を頂けませんか?」

「何が欲しいの?」

「湖畔での散歩の許可を!」

「それはダメ。でもそうね、明日はブラッシングをして、週末にはキャロットクッキーを焼いてあげる」

「ありがとうございます。私はとても幸せな馬です」


 自分がどんな態度を取るべきなのかは未だ定まっていない。

 だが今のところ、彼がリンファスに要求してくるのはおうまさんごっこに関するものだけ。それも本気で嫌だと言えば無理を押し通すことはない。悲しそうな表情をしたり、いじけて見せたりはするけれど撫でてやればすぐに機嫌を直してしまう。


 その上、ジュードはリンファスのためにこれでもかというほど多くのものを与えてくれる。ジュードにとってはどれも主人を飾り付けるためのものかもしれないが、少なくとも前の婚約者にはその気遣いすらなかった。


 変な趣味嗜好を持ち合わせている男との結婚は思い描いていた夫婦像とはまるで違うが、愛されている自覚はある。おそらくこの上なく大事にされている。


 たとえ子作りさえも望まれず、女として認識されているのか怪しくとも。


 トコトコと軽快に歩く男に跨りながら、金色の髪に手を伸ばす。昔みたいに絡まったりせず、するりと指の隙間に落ちて行った。


「シャンプーもしてあげなきゃダメかしら」

 もう水が茶色く濁ることもなければ、リンファスがシャンプーをしてやる必要もない。もっといえばブラッシングだってメイドの方がずっと上手いに決まっている。それでも自然と言葉が口から溢れていた。

「是非!」

 そしてジュードが反射的に返した言葉で週末の予定にお風呂が加わった。


 リンファスが役に立てることはおうまさんごっこに関するものだけ。それでも、ほんの少しでも役に立ちたいと思ったのだ。



 ◇ ◇ ◇



「どう? 痒いところはある?」

 頭の上でモコモコと泡だてられる。

 爪を立てないように気をつけた優しい手つきで髪が洗われていく。彼女に洗ってもらうのは子どもの時以来だ。


「気持ちいいです……」

「そう。お湯で流すから目を閉じて」

 またリンファスの元に帰って来られるなんて夢のようだ。


 実は彼女と出会った直後に死んでいて、その先からずっと天国で暮らしているのだと言われても信じてしまうことだろう。


 リンファスに出会うまでのジュードの人生は悲惨の一言では表せないものだった。

 母曰く、ジュードの父親は上位貴族の令息で、当時母が働いていたお屋敷の跡取りだったそうだ。給料もかなり良かったようだが、妊娠が発覚した時点で仕事をクビにされた。それでも実際子どもが産まれれば認知するか買い取ってくれるだろうと産んだまでは良かったものの、相手にすらされなかったのだという。


「あんたみたいなゴミ、産むんじゃなかった」

 毎日殴られ、食事を抜かれる日もしばしば。いつ死んでもおかしくはなかったが、母はジュードを殺そうとはしなかった。ごく稀にやってくる機嫌が良い日に決まって溢す言葉が母にとっての希望だったのだろう。


「あの種無し男が死んだら跡取りがいなくなる。そうしたらきっとあんたも役に立つ時が来るわ」


 その頃のジュードには母の言葉の意味がわからなかった。理解する必要もなかった。

 ただ機嫌が悪くなりませんようにと祈るように部屋の隅で身体を丸め、母が寝た後に残飯を漁って生きることに精一杯だった。



 リンファスと出会ったのはジュードが六歳の時。

 メルビン家の使用人として採用された母が仕事の一部、ゴミ処理をジュードに押し付けたことがキッカケだった。


 男と会う予定があるからと仕事を押し付けられることは過去にも何度かあった。断ればいつもよりもひどい暴力を振るわれる。それを理解していたジュードはこくんと首を縦に振り、母に告げられたゴミの分別と処理を行っていた。


 そこをメルビン子爵に見つかったのだ。


 自分の母がここで使用人をしていること。

 母の体調が悪くなったので自分が引き継いだこと。


 必死にそれらしい嘘を並べた。

 何かをくすねることなく、まじめに仕事をしていたこともあり、条件付きでその場を見逃してもらうことに成功した。


 条件はジュードもここで働くこと。仕事はゴミ処理。


「さほど給料は出せないが、子どもの駄賃稼ぎには良い仕事だろう?」

 ニッと笑った子爵の提案を拒むことはできなかった。帰ってきた母には「なんてことをしてくれたんだい! あたしがサボったってバレたじゃないか!」と散々蹴られたが、最終的には今までよりも多く金が入ることに納得して眠りについてくれた。



 早速、翌日から仕事に入った。

 頬に冷たい風が吹き付けるようになった頃には随分と仕事にも慣れた。スピードが上がったジュードは仕事が増やされた。日当も増えたが、かといってジュードの食事が増えるわけではない。母が男と酒に使う金額が増えるだけ。むしろ仕事が増えた分、日に日に疲労がたまっていく。


 昼は周りの目があるから食べさせてもらえるが、一日一食で足りるはずがない。空腹で気持ち悪い。ぐらりと視界が揺れ、大きな音を立てて床に倒れこんだ。


「大丈夫?」

 意識が途切れる直前、ジュードの顔を覗き込んだのは幼い少女ーー彼女こそがメルビン子爵令嬢・リンファスだった。


 ジュードが栄養失調で倒れたことで、子爵は母を呼び出した。金は十分与えているはずなのにどうなっているのかと問いただしたらしい。そして母は『息子は馬みたいによく食べるんです。食べても食べても足りなくて……』と適当な嘘を吐いた。


 もちろん子爵にそんな嘘が通じるはずがない。ただ母にとって幸いだったのは、その場にリンファス少女がいたことだ。


「あの子はおうまさんなの?」

「え?」

「わたし、ちょうど自分のおうまさんが欲しかったの!」


 子爵の乗馬姿を見て自分の馬に憧れを持っていたらしいリンファスは目を覚ましたジュードの手を握って、こう言い放った。


「わたしのおうまさんになって!」

 その日、ジュードはリンファスの馬になったのだ。令嬢の遊び相手として朝から夜まで働けるように、子爵家の屋根裏部屋で暮らすことが決まった。



 リンファスに合わせての生活になるので労働時間は決まっていないが、時間や働きに応じてボーナスが出る。ジュードが屋敷に残ることを納得させる代わりに基本給は全て母に送られるが、ボーナス分は母には内緒でジュードに渡すと言ってくれた。家賃は取られず、朝昼晩の食事付き。風呂も一番最後なら使っても良い。


 一人の子どもを雇うには好条件すぎる条件を並べ、子爵はジュードを屋敷に迎えた。


 リンファスは念願の馬が手に入ったことを心の底から喜び、真っ先にジュードを風呂に入れた。服を脱がされて何かと思えば「綺麗にして、ブラッシングするの!」と宣言した。


 周りの使用人達は慌てていたが、ジュードは幼女の手が届くように風呂のタイルの上に小さく丸まってみせた。するとリンファスは上機嫌でわしゃわしゃと泡を立てていく。


 普段、使用人に洗ってもらっている彼女にとって、自分でお湯を溜めるのも一苦労だったらしい。桶に溜めたお湯を頭の上からざぶんとかけて、流れたお湯が茶色なことにもひどく驚いていた。


「これはいっぱい泡が必要だわ!」

「髪も絡まってて解けない」

「うーむずかしい」

「お湯! お湯!」


 悪戦苦闘しながらも使用人の手は借りず、小さな手でモコモコと泡を作っていく。ジュードはただただ彼女に身を任せた。


 頭を洗い終わった時点で疲労困憊な彼女だったが、身体も洗うと言い出し、それはさすがに遠慮させていただいた。


 代わりに先にブラッシングの用意をしておいて欲しいと告げれば、彼女はびしょ濡れの状態でとたとたと風呂場を後にした。残された使用人から石けんとボディタオルを受け取り、バスタオルと替えの服の場所も教えてもらった。一人になった風呂場で残った泡を流しながら、耐えていた涙がこぼれた。


「あったかい……」

 スンスンと鼻をすすり、身体をゆっくりと洗う。泡が白くなるまで何回も何回も。


 肌は擦りすぎて少し赤くなってしまったが、これから無垢な少女に触れるのだ。今後も定期的に入ろうと心に誓った。その後、ブラッシングをしてもらい、疲れた彼女をベッドに寝かせて初日の馬生活は終わりを告げた。



 それから馬車馬のような過酷な労働生活がはじまるーーなんてことはなく、羽根のように軽いリンファスを乗せてパッカパッカと部屋を歩いた。するときゃっきゃと声を上げて喜ぶのである。


 時には『おうまさんのおやつ』と言って、ニンジン菓子を食べさせてもらったり、定期的に風呂に入れようとしたり。ブラッシングなんて十日を過ぎたあたりで毎朝の日課になった。それからおうさまさんの寝床で寝たいと言い出した彼女が枕を持って屋根裏部屋に押しかけたり。


 本当にいろんなことがあった。

 そんな彼女を見て、子爵夫婦は頬を緩め、ジュードのことをとても大切に扱ってくれた。他の使用人達も同じだった。


 特に調理長は顔を合わせるたびに「メシは美味いか?」「菓子の方も栄養考えてるからちゃんと食えよ」とジュードの背中を叩いた。彼の手は大きくて、少し身体がぐらついたが、腕の細い母からの暴力とはまるで違う。心配してくれる人のそれだった。


 ジュードが大切にされている姿が気に入らなかったのだろう。母からの恨めしそうな視線を感じることはあったが、リンファスがジュードの母を怖がったことで顔を合わせることも減った。


「君を母親から引き離したいと考えている」

 子爵から提案された時は心底驚いたが、これから先もずっとメルビン家に仕えて欲しいことや今までよりも多く給料を渡すことなど、子爵はこれからのことをゆっくりと分かりやすく伝えてくれた。


 彼は母の虐待を見抜いていたのだ。それでもよその家に深く介入するつもりはなかったようだ。ジュードが倒れたときだって本当は厄介払いをするつもりで、リンファスが気に入らなければ見捨てていただろうと。隠すことなく打ち明けてくれた。


 その上で、母親から離れてリンファスのために残って欲しいと。


 ジュードがコクリと頷けば、翌日には母がメルビン屋敷を去った。


「せいぜい上手くやりなさいよ」

 上機嫌な母の姿に、この人が子爵に話を持ちかけたのだと悟った。はじめこそ恨めしく思っていたが、徐々にこれは金になると悟ったのだろう。今はまだメルビン家が母子揃って雇ってくれているが、クビになれば今入っている金はなくなる。ならば今のうちに金をもらって、お荷物も押し付けてしまおうと。


 母はいつ死ぬかも分からない男の死を待つのを辞めたのだ。


 新しい男と良い関係になれたのかもしれないし、もうメルビン家にいる理由もなくなったのかもしれない。理由なんて分からないし、深く考える必要性もない。ただ上機嫌な女を冷めた心で見送った。


 見えなくなるまでずっと見つめ続けたのは愛情なんかではなく、我が主人が怖がる存在が戻って来やしないか不安だったからだ。


 ようやく身体から緊張が抜けていった頃にはすでに四半刻が経っていた。リンファスを待たせてしまったと急いで踵を返せば、彼女はニンジンクッキーを手に、玄関で待っていた。


「おうまさん、おやつの時間よ」

 その姿に、ジュードはリンファスに忠誠を誓ったのだ。


 毎日が本当に幸せだった。

 彼女の馬として一生添い遂げることができたならーー心の底からそう願った。




 だがたった数ヶ月で思いもよらないことが起きた。


「カーリル公爵家が君を引き取りたいそうだ」

「私は、リンファス様の馬です。公爵家となんてなんの関わりも……」


 そう口にしてハッとした。

 おんぼろの家で暮らしていた時のことを思い出し、ようやく理解した。母が種無し男と呼んでいた相手が死んだのだ。母の読み通り、跡継ぎがいなくなった公爵家はジュードを迎えようとした。


 母という目印をなくしたジュードの居場所をどうやって探り当てたのかまでは分からない。だがここで拒めばリンファスや子爵に迷惑がかかることだけは理解した。


「たった数ヶ月だが君を見てきた。君は本当に賢い少年だ。学ぶ機会さえあればぐんぐん育つ。娘には悪いが、私は大きな可能性の芽を摘み取りたくはない」

「…………お世話になりました」

「君がどこに行っても娘の愛馬であることは変わらない。元気に育っておくれ」



 公爵家に返事を出してからはめまぐるしい日々が過ぎた。ジュードが他の家に行くと聞いたリンファスはずっと目を腫らして涙を流していた。けれど馬にはその涙を拭ってやることもできなかった。パカラパカラと言いながら部屋をぐるぐる回るだけ。


 きっと悲しい顔を見てお別れになるのだろう。


 ずっと笑顔ばかり見てきたのに、最後の最後で主人を泣かせてしまうことが悲しくて、何度も『私はここに残ります』と言いそうになったことか。



 けれど最終日のリンファスはジュードの予想とは違った。目は腫らしているけれど、涙は止まって、手にはバスケットが握られている。中にはオレンジ色のお菓子がぎっしりと詰まっている。どれも今まで彼女からもらったおうまさんの餌ばかり。


「他所に行ってもジュードは私のおうまさんだから。いっぱい食べて大きくならないとゆるさないんだから!」


 離れていても過ごした時間は変わらない。

 ニンジン菓子ばかりのバスケットを抱きながら「あなたの馬になれて私は幸せです」と号泣するジュードに公爵はギョッとした顔をしつつも、深く追求することはなかった。


 それからの生活でも、カーリル公爵は本当によくしてくれた。


 ジュードがカーリル公爵家ではなく、メルビン子爵家の役に立とうといろいろ動こうとも文句を言ってくることはなかった。


 代わりに「もっと効率よくできるだろう。もっと考えろ。お前は馬鹿か」「ここは詰めが甘すぎる。攻められたらすぐ落ちるぞ。私に聞けばすぐわかるようなことを確認もせずにミスするなど阿呆のすることだ」と口を出してくることはあった。


 口は悪いがどれも正論かつ的確で、暴力を振るわれることもなければ指摘の時以外での暴言もない。ジュードの母のことを憎んでいるようだったが、ジュードのことは嫌ってはいない。


 むしろたまに酒を飲むといつも「お前はあれに似なくて本当に良かった。馬だ何だとよく分からんことは言うが、勉強熱心でよく働く。倒れない程度に調整できるようになれば良い男になるぞ」と褒めてくれたほどだ。


 初めて酔った公爵を見てからしばらくして、カーリル公爵の息子の死因が過労だと知った。そしてジュードを引き取った理由は跡取り問題を解消するためなんかではなく、ただただジュードが公爵の息子の血を引いていたからだということも。


 公爵は過去に息子にすり寄ってきた女が複数いたことは知っていても、孫がいることをつい最近まで知らなかったのだ。彼の息子は子が残せぬ体質だったのだ。だからまさか孫がいるなんて、以前見つけた息子によく似た少年が自分の孫だなんて想像もしていなかったと。


 公爵が孫がいると知ったのは息子が死の直前、一人だけ子どもができていたことを明かしたから。跡継ぎに残しておけば良かったとの言葉を残して去ったのだと言う。そして以前見かけた子どもが息子によく似ていたことを思い出し、調べあげたと。


 ジュードにとって言葉を交わしたこともなければ顔すら知らぬ、とても父とは言えぬ相手だが、公爵にとっては大事な息子で、ジュードは彼が残した大切な子どもだったのだ。


 そしてジュードを母親から取り上げてくれたメルビン子爵にはとても感謝しているようだった。


 ジュードは日に日に多くの知識を取り入れ、祖父にしごかれ、一人前に近づいていく。



 十歳の誕生日に来た子爵からの手紙で、つい最近、リンファスに婚約者ができたと告げられた。だからジュードも自分の道を進めば良いと。


 彼なりの心遣いのつもりだったのだろう。

 だがジュードはリンファスの馬であることを誇りに思っている。メルビン家にいたのはわずか数ヶ月だったが、彼女のことを忘れたことなど一度もない。


 たとえ側で仕えることは許されずとも、自分の他に彼女を守る男ができたとしても、ジュードの主人はリンファスである。いつか彼女が困った時に手を貸すことができればそれでいい。


 リンファスの馬として恥ずかしくないように己を磨き、そして彼女がより幸せになれるように国の手伝いをすることにした。


 カーリル公爵家は過去に何度も宰相を輩出した家系で、公爵も政治に携わっている。ジュードがそこに加わることは容易だった。むしろ公爵は喜んでジュードを城に連れて行った。



 いつか彼女の花嫁姿を遠目から見られればとそればかりを考えてがむしゃらに働いた。

 だが公爵の言う通り、ジュードは『詰めが甘すぎる』と思い知らされた。



「よりによってなぜこの時期に!」

 三年遅れでようやく決まった結婚式。招待状は多くの家に配られ、彼女は祝福されるはずだった。


 それを邪魔した家があった。

 よりにもよってカーリル家と古くから親しくしている家の一つである。ジュードがメルビン子爵家を大切に思っていることを知りながらこの仕打ち、舐めているとしか言いようがない。はらわたが煮えくりかえりそうになる。


 報告書を握りつぶすジュードとは正反対に、公爵はとても落ち着いて情報を分析していく。


「止めるならこの時期が最適だったからだろうな。メルビン子爵家はともかく、相手の伯爵家はこの数年で反感を買いすぎた。功を急ぎすぎた結果だな」

「私が周りの動きをもっと把握していれば……」

「握り潰せたと? だが潰したところで、メルビン子爵令嬢の幸せにつながると本気で思っているのか?」

「……隠し通す方法だってあった」


 ジュードはもう何年も前から伯爵家の令息に恋人がいることを知っていたのだ。さすがに子どもまでいるとは思わなかったが、知っていて放置していたことには変わりない。


 今まで隠し通せたのならば、この先も隠し続けることが可能だと思った。ならば二人の関係にヒビを入れる必要はないと、判断したのだ。


 けれどこれで台無しだ。

 子どももいると分かれば、伯爵が結婚を許すはずがない。相手を潰すしか道はなくなった。



 だがそうなったら相手を待って婚期を逃したリンファスはどうなるのか。

 結婚式まで予定していたともなれば醜聞どころでは済まされない。彼女はこの先ずっと好奇の目に晒されることになる。


 我が主人がたかだか伯爵家を一つ潰すための犠牲にされたなんて、許せるはずがない。唇に歯を立てながら、リークした家をどうしてやろうかと思考する。


「落ち着け、ジュード。あの家は悪くない」

「ですが!」

「情報を持ち込んだのは伯爵令息の恋人だ。結婚自体を潰したかったんだろう。この報告を見る限り、女は他の家にも行っているはず。この家が伝えなかったとしても、いつかどこかでバラされていたことだ。むしろ遅くなった方がタチが悪い。これが、最善だ」


 これが最善というのなら、ジュードが見ていた未来はなんだったのか。所詮、馬では主人を守りきれないとでも言うつもりか。舌打ちしたい気持ちをぐっとこらえる。


「最善は常に動くものです」

「気に入らないなら、お前が彼女にとっての最善を作れば良い」

「私が?」

「このまま行けば数ヶ月とせずにお前は宰相補佐に就く。そうなれば結婚話を断り続けることは難しいだろう」

「何が言いたいのかわかりません」

「リンファス=メルビンと結婚しろ。メルビン家は家格こそ低いが信用できる。今回の慰謝料として金もたんまり手に入れることだろうしな」

「リンファス様を利用しろと?」


 公爵だろうと、メルビン家の敵に立つなら容赦はしない。未熟者と呼ばれようと、死ぬまで馬としてのプライドを捨てるつもりはない。キッと睨みつける。だがジュードより何倍も生きている老人は飄々としてみせる。


「あちら側にとっても悪い話ではないだろうよ。まぁその前にお前が宰相補佐になるのが先だがな」

「……私と結婚してもリンファス様が幸せになる未来が見えません」

「幸せにできる自信がない、の間違いだろ。馬だろうが人間だろうが、やる気がない奴はそこらへんでくたばるだけだ。他人の幸せを願う権利すらない」


 何が最善か考えとけよと言い残し、公爵は部屋を去った。


 それからすぐ、リンファスの婚約破棄が決まった。

 ジュードは宰相から出された試験をクリアし、無事に宰相補佐に収まった。



 この数ヶ月の間に決まるだろうと思ったリンファスの次の婚約者はなかなか決まらない。金を持っていると知ったハエが群がり、選定に時間がかかっているからだ。


「早くしなくていいのか」

「メルビン家が食い散らかされるぞ」

 どうするべきか考えあぐねている間、公爵は散々ジュードを煽りに煽る。


 年々衰えるどころかなぜか健康になっていく公爵の狙いは、金でも権力でも、跡取りですらなく、ひ孫である。


 この口が悪い爺はただただひ孫が見たいという欲望だけで、リンファスと結婚しろと急かすのである。使用人に聞いたところ、どうやら友人の一人にひ孫が出来たらしく、相当自慢されたのだという。


 孫の成長を途中からしか見ていない公爵は羨ましかったのだろうと涙ながらに語られた。

 そこで心が温まるどころか、もしやリンファスの婚約破棄騒動を仕組んだのはひ孫を欲しがった老人なのではなかろうかと一瞬頭によぎったのは仕方のないことだろう。


 元より十分過ぎるくらい持っている金・地位・権力に加えて跡継ぎまで手に入れた公爵が自らの力だけでは手に入れられないのはひ孫だけなのだから。


 そう思いつきはするものの、目の前でひ孫ひ孫と浮かれる老人を憎むことはできなかった。


「……分かりました。結婚します」

「やっと折れたか! 昨日新たにしたためた手紙をすぐに送ろう!」

「ですが!」

「なんだ?」

「子どもは授かるものです。私一人の意思ではどうすることもできません。そのことをお忘れにならないでください」

「お前は本当にバカだな」

「なっ!」

「ひ孫なんてお前の結婚のついでだ。出来るに越したことはないが、お前が孤独に死ななきゃそれでいい」


 宣言通り、公爵はすぐにメルビン子爵家へと手紙を送った。手紙になんと記したのかは分からないが、メルビン家からの返事もこれまたすぐにやってきた。



「喜んでお受けいたします」

 子爵の真意までは読めないが、よく分からない相手に嫁がせるくらいならジュードとの結婚がマシだと思ったのだろう。


 話はトントン拍子に進み、二ヶ月後には夫婦となった。


 結婚式は挙げていない。

 このタイミングでリンファスを観衆に晒すことはしたくなかったのだ。結婚が決まってからは子爵が喜々としてリンファス宛の招待状に断りを入れてくれたので、二人揃って社交界に顔を出すこともない。こちらはジュードが宰相補佐になったばかりで忙しいというのも理由の一つとして挙げている。



 だが公爵に散々しごかれたジュードにとって宰相補佐の仕事はさほど忙しいものではない。慣れればサクサクと終わらせられるようなものだ。


 それでも彼女が待つ家に帰る時間が遅くなるのは掃除に手間取っていたから。


 子爵とて借金程度で終わらせるほど優しくはない。二人で協力して逃げ道を塞ぎ、そこに国益があると見た宰相や陛下までもがゴミ処理に加担した。


 その後の継続的な利益も取ったため、予定よりも規模は大きくなってしまったが、航路を確保したことで全て片付いた。



 逃げ道なんて残さずに、吸い上げたものは全てリンファスの幸せを彩る糧にする。


 主人に幸福をもたらすことこそ馬の仕事なのだから。



「はい、終わり。セットはうまく出来なかったけど」

「ありがとうございます」

 昔のように流し残しはなく、びしょ濡れの髪をタオルで拭いてブラッシングもしてくれた。ふわふわのタオルに包まれながら、ゴミ処理の疲れを癒す。


 これだけで十分働いた甲斐があったと言える。

 だがこれはあくまでご褒美。次を得るためにはまた何か功績をあげる必要がある。


 それもリンファスに認めてもらえるような、一等すごいものを、だ。


 彼女は欲しいものを教えてくれないので、いろいろと運んできてはいるものの、好みは未だ掴めていない。ただネグリジェだけは複数用意した中から決まって同じものを選ぶのでそれがお気に入りなのだろうということは分かった。


 昔と同じ、青のリボンがついたシンプルで動きやすいもの。あの頃はジュードの瞳と同じだと自慢してくれたが、今となってはそんな意味などないのだろう。そう理解していても嬉しいことには変わりない。


 ついつい他のアイテムにも青のものが増えてしまっている。

 実際、今日のリンファスのリボンは青で、ドレスの差し色としても青が使われている。

 小さな幸せを見つけて頬を緩ませていると、彼女はジュードをじいっと見つめた。


「ねぇ、本当に他にしてほしいことはないの?」

「他に、ですか?」

「もちろん外でのお散歩以外で、よ?」

「リンファス様に幸せになってほしいです」

「私は今の平穏な毎日に満足しているわ。そうじゃなくて……あなたの幸せはなに?」

「死ぬまであなたの馬であり続けることです」

「おうまさん以外にないの?」

「あなたの馬であることが私の誇りで、私の生きがいです」


 今、この瞬間がジュードにとっての幸せである。この先何があろうとも、この時間が幸せだったことは変わらない。変わる可能性があるのは未来だけなのだから。


 ジュードとしては至極真面目に答えたつもりだったのだが、リンファスはお気に召さなかったらしい。顔を歪めて、うーんと考え込んでしまった。


「例えば。例えばなんだけど、子どもが欲しいとかそういう欲もないの?」

「恋人がいるんですか⁉︎」


 リンファスが愛した男と作った子どもが欲しいかと言われればイエスだ。代わりに育てろと言われれば喜んで引き受けよう。だが取り上げたいとは思わない。彼女の幸せを壊すつもりなどないのだ。


「もしやすでに妊娠して⁉︎ それとも今から子作りの予定が?」

「なんでそうなるのよ! 私が不倫している前提で話を進めないで。あなたとの子どもに決まっているでしょ!」

「リンファス様と、私の子ども?」


 想像もしていなかったわけではない。

 公爵にひ孫ひ孫連呼されたこともあり、結婚当初はいつかその話し合いもしたいと思っていた。だが馬としてリンファスの元に戻り、背中に乗ってもらったことで考えが変わった。


 羽根のように軽い我が主人を危険に晒すことなどあっていいのだろうか、と。

 行為自体は痛みを最小限に抑えるなり、努力はできる。だが問題はその先、目的の対象にある。


 正直、ジュードは『子ども』という存在にいい思い出がない。


 自分は父からは捨てられ、母からは憎まれて育った。リンファスの婚約破棄の決定打となったのも子どもという存在である。どうしても不幸せの象徴のように思えてしまう。


 もしも互いに愛情を向けるもの同士の間に生まれれば、幼少期のリンファスのような純粋無垢な存在になり得るのだろう。だがジュードとリンファスはそうではない。


 主人と馬。

 ジュードが一方的に尽くさせてもらっているだけ。


 そんな中で生まれればきっと子どもは不幸せになるし、リンファスを傷つけることになる。ジュードが勝手に作って育てるだけならいいが、愛すべき主人をそんな危ないものに近づけたくはなかった。



「幸せ云々は置いておくにしても、公爵家の跡取りとかあるでしょ……」

 我が主人はなんと責任感の強い方なのだろうか。


 婚約破棄からまだ一年と経っておらず、未だ傷心中でもおかしくはないというのに、馬のことまで気を使ってくださる。


 だが心配は不要だ。跡継ぎを作る当てならいくつか思い当たる。

 あの一件さえなければジュードは結婚というものをするつもりがなかったので、その辺りは公爵がいろいろと用意してくれていたし、ジュード自身も考えてはいたのだ。結婚したところで決行できなくなるようなものではない。


「必要になった時に用意すればいいので、リンファス様がお気になさるようなものではありませんよ」

「なんで私以外と子どもを作ること前提なのよ! あなたこそ他に相手がいて、私を隠れ蓑に使っているんじゃないの? 別にそのことを責めるつもりはないけど、話してくれたっていいじゃない……」

「まさか! 私がリンファス様を裏切るはずがない」

「なら妻である私以外の誰と子どもを作ろうというの!」

「リンファス様は妻である前に主人なので」

「なら私以外と子どもなんて作らないで!」

「承知いたしました」

「……妙にあっさりしているわね」

「優秀な孤児を見繕いましょう」


 宰相補佐として孤児院や教会に出入りする機会は多い。その中で将来優秀そうな子どもを何人か選び、教育していけばいいだろう。一番優秀な子どもを公爵家の跡取りにするのはもちろん、ジュードが家を離れている間にリンファスを守る役目を担う子どもも欲しい。


 賢い子どもと武術に優れていそうな子ども、それから話術に長けている子ども……と考えていくと最低でも五人は同時に育てていく必要がありそうだ。全員文官や騎士相当に育てるとなるとやや手はかかりそうだが、リンファスのためならそれも苦ではない。


「早速名簿をもらって……」

「私と子どもを作りなさいよ!」

 どんな思考回路をしてるの! とたいそうお怒りのリンファスに、自分が何かしらの失態を犯していることを悟った。だが何が悪かったのか。


『公爵家の跡取りが欲しくないのか』という問いに対しては『必要があればこちらで用意する』という回答をした。現在彼女には恋人はおらず、当然ながらジュードにもいない。彼女以外の人物との子作りは認めないが、孤児を引き取るという選択肢もない。ならばそもそも子作りという行為そのものをしなければいいのではないかと思ったが、それ自体はしたい……と、そこまで考えてハッとした。



「っ! 申し訳ありませんでした」

「そうよ、分かればいいの」

「リンファス様も立派なレディ。おうまさんごっこのやり方も変わりますよね。ああ、至らぬこの駄馬をお許しください」


 リンファス様は子どもが欲しいのではなく、子作りがしたいのだ。ああ、なぜ今まで気づかなかったのだろう。回転の遅い頭をトントンと叩きながら「申し訳ありません。今晩にでも決行いたしましょう!」と拳を固める。


「何か勘違いをされている気がするんだけど……」

「私はリンファス様の馬です。経験はありませんが、必ずやリンファス様をご満足させてみせます!」


 それからジュードは毎晩リンファスとおうまさんごっこを興じ、昼間は彼女に褒めてもらうためにあくせく働いた。


 リンファスは馬を褒めて伸ばすタイプのようで、上手にできたら手放しで褒めてくれる。


 寝室では特に。


 だからジュードは今日も今日とて馬車馬のように働く。


 主人に相応しい馬であり続けるために。

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