不死の病
数百年の昔、西の地に、広大な森があった。
針葉樹が密に生い茂るその森は一年中葉を落とさず、全貌を人に見せることは決してない。昼間でさえ鬱蒼として立ち入る者を阻む様子から、人々はその地を『黒の森』と呼び、人ならざるものが棲んでいると噂して恐れていた。
春半ばの宵の口。既に暗がりに落ちた黒の森の中を、ひとつの影が進んでいく。
細身ながらも背丈の高い、青年であった。目深に被った黒頭巾からは闇にも鮮やかな金の髪がちらちらと覗いている。擦り切れた外套の裾を引きずる姿は不気味なもので、夜をさまよう亡霊のようでもあったが、歩くたび残雪の上にはしっかりと足跡が残る。彼は木の実や茸の入った籠を右手に下げ、左手に持つ燭台で足元を照らしながら、森の奥へと向かっていた。
ふと足元に気配を感じ、立ち止まる。
何かがいる。視線を落とし、目を凝らす。なにやら小さな生き物がぼろきれにくるまり、木の根元にうずくまっていた。見慣れない姿に、青年は眉をひそめる。籠と燭台を雪の上へ下ろし、おそるおそる腰を曲げて両手を伸ばす。抱き上げるとそれは弱弱しく震えた。薄い毛に覆われた頭部は柔らかく、滑らかな皮膚は冷えきっていたが、体の芯にはまだわずかな温もりを感じる。ゆっくりと開いた瞼の奥、黒々と濡れた瞳を見て、ようやく気付いた。
それは人間の子どもだった。
*
「ヘクセル、ヘクセル!」
少女の可愛らしい囀りが館に響く。青年は重い瞼を持ち上げた。眠気を覚まそうと深く息を吸うと、慣れ親しんだ古い紙と薬草の匂いが鼻腔に満ちる。部屋は薄暗い。森の奥深くに建つこの館ではたとえ朝であろうと明かりが必要だ。
「ヘクセルったら!」
焦れたように、高い声が再び彼を呼ぶ。直後、木製の扉を叩く硬い音がして、丸めた紙や書物、薬草が散乱した部屋に少女が勢いよく飛び込んできた。手に持つ燭台の灯りで、部屋が明るく照らされる。
「おはよう、ベーレ」
欠伸を殺して呻くと、少女は無邪気な笑みを見せる。
「おはよう。あさごはんだよ」
森に捨てられていた赤ん坊を拾って数年が経った。恐らく口減らしだったのだろう、飢えて死にかけていた彼女を青年は衝動的に連れ帰り、食事を与え、その黒い瞳に似た果実の名で呼んで育てた。滅多に他者と触れ合うことのない彼にとって赤ん坊は非常に興味深い対象であった。勝手が分からず、何度か死なせかけたこともあったが、今や彼女はひとりで食事の用意ができるほど大きくなった。
「ヘクセル、ほら、起きてってば」
ベーレは燭台を小机に置き、散らばった紙を一枚一枚拾いながら、急かすように寝台へ近寄ってくる。呼ばれるべき名を持たない青年は、少女に「ヘクセル〈薬師〉」と呼ばせていた。
「分かったよ」
苦笑して、乱れた金髪を手櫛で整えながら上体を起こす。昼も夜もなく自由に寝起きしていた頃からは想像もつかない事態になった。規則正しく起きて、食事をして、などという習慣は全く教えていないのに、この娘は一体どこから学んできたのだろう。
「これ、お薬の研究なの? なんて書いてあるの?」
拾い上げた紙に記された夥しい文字に目を凝らしながら、ベーレがたずねた。
「知りたいのかい」
彼女には文字を教えていない。ただ薬を作っていることだけは教えていた。ベーレはからかわれていると思ったのか不服そうに顔をしかめる。
「あたりまえでしょ」
「なぜ」
「ヘクセルのお手伝い、できるようになりたいもの。わたしがんばるから教えてよ、ね?」
ベーレは懸命に頼み込む。何も知らず、なんの恐れもなく自分を慕ってくれる彼女をとても稀有で愛しいものに感じ、青年は無意識に微笑んだ。
「それじゃ、君が大きくなったら……手伝ってもらおうかな」
*
その日、薬草園へ出ると、一畝ぶんの薬草が全て枯れていた。
陽当たりのいい森のはずれに作った小さな薬草園。貴重な薬草を絶やさないようにとベーレが提案し、ヘクセルと二人でこしらえたものだった。苦労を重ねて、今では調合に使う殆どの薬草をまかなえるまでになっていたというのに。茶色く変色し、力なく土に横たわる薬草を見て、ベーレは呆然と立ち尽くす。肥料をやりすぎたのだろうか。それとも雨に任せて水をやらなかったのが原因か。
こみあげる悲しみと情けなさが涙になって溢れそうなのを、唇を噛んでどうにか堪える。もう感情のままに泣くような子どもではない。とにかく早く、ヘクセルに知らせなければ。
「ヘクセル」
館の奥、螺旋状の階段を上り、いつも通り閉じこもっている彼に部屋の外から声をかけた。
「どうしたの」
木製の扉越しに、くぐもった返答がある。
「今、薬草園に行ってきたの。それで」
喉の奥に詰まった言葉をどうにか吐き出す。「……わたし、薬草を枯らしちゃった」
ごめんなさい、と呟くより早く扉が開く。
ベーレはびくっと顔を上げたが、館の主は穏やかな表情をしていた。思えば長い間傍にいて、彼が怒ったところなど今まで見たことがないのだ。そのことに気づき、ますます泣きそうになる。
「おいで」
招かれるまま部屋へ入る。中はいつにも増して荒れていた。机の上、床、寝台にさえ山と積まれた書物には、また見慣れないものが増え……いや、それよりも乱雑に丸められた紙の方が増えている。ある程度文字は読めるようになり、手伝いを任されるようにもなったが、未だにヘクセルが何の薬を作ろうとしているのかベーレは知らされていない。
「ベーレ。薬草が枯れるのはなぜだと思う」
ヘクセルは寝台の上の本をどかしてベーレに腰かけるよう促し、静かにたずねた。
「それは、わたしがうまく世話をできなくて――」
「いや」
ヘクセルは首を振り、床に膝を突いてベーレの顔を覗き込む。「君を責めているわけじゃない。決して枯れない薬草というのは果たしてあるんだろうか」
「それは……ない、と思う」
「どうして?」
怒濤の質問にベーレは気圧されながら、どうにか言葉を紡ぐ。
「生きているものは、必ず死んでしまうから」
ヘクセルが満足げに頷く。
「そう。死ぬのは、命あるもののさだめだ」
「……」
「いつまでも枯れないものなどない。あるとすればそれは、生きてなどいないものだよ。薬草が枯れたのは、自然のままに、なるべくしてなったことなんだ」
だからどうか気にしないで。
励ましてくれているはずの彼の顔は、しかしどこか翳っていた。
「ヘクセル」
ベーレは思わずその名を零す。視線を上げた彼と目が合う。記憶にある限り、何も変わらないその顔。その姿。美しいままの金の髪に、皺ひとつないままの白い肌。
「あなたは、もしかして」
それ以上は何も言えなかった。
ヘクセルは黙ったまま、そっと微笑んだ。
*
私と結婚して、と。
思い切って告げてみると、案の定ヘクセルはスープを吹き出し、咽せながら目を丸くする。
「もうそんな年になるのか……」
小さな食卓に向かい合って座る朝。彼の役に立ちたくて食事を作るようになってから、もう二十年以上が経っただろうか。
「そうみたいよ。早いものでしょ」
ベーレは黒パンを切り分けながら得意げに胸を張る。容姿の上では彼と釣り合う年齢になったという自信があった。
「市場でいつも会うおじさんがね、いい人はいるのかい、紹介してあげようかって」
「そうか」
ヘクセルは遠くを見るような目をして笑う。些細な表情一つさえ、記憶の中の昔の彼と全く変わらない。
「でも私、誰とも知れない人よりあなたと結ばれたい。……駄目?」
少しは喜んでくれるのではないかと期待したが、ヘクセルは柔らかな笑みを浮かべたまま首を振る。
「勿体ないお誘いだけれど、それはできないよ」
「どうして?」
「僕と君では……同じ時を生きられないから」
分からない。彼はいつも難しいことばかり言う。ベーレはナイフを置き、席を立って、ヘクセルの目の前に立つ。
「今こうして、一緒にいるのに?」
挑むように問うと、ヘクセルも器を置き、きちんとベーレに向き合って手を取ってくれる。そういう真摯なところが、優しいところがとても好きだ。決して自棄でも、冗談でもない。彼と結ばれることができるなら幸せだと思っているのに。
「今はこうしていられても、いずれ、僕は君に置いていかれてしまうから」
「私のせい?」
「違うよ」
ヘクセルは優しく即答した。彼は嘘をつかない。それはよく知っている。
「君のその体……時の流れの中を生きて、熟して、衰えることのできる体は、とても美しい。誇るべきものだよ」
けれどもやはり、難しいことばかり言うのだ。
美しさなんて、とベーレは思う。時を重ねても少しも変わらない彼の容姿の方がよほど、と。しかしそれを口にすれば断固として否定されると分かっていた。優しい反面、彼はどこまでも頑固なのだ。
「もし君が、誰かと結ばれて、子どもを産んで……そういう幸せが欲しいなら、今からでも遅くない、ここを出て人間の村で暮らせるよう、僕がどうにかするよ。君はこんなところに隠れている必要なんてないんだから」
そうじゃない。
誰かとじゃない。あなたとがいい。これからのことなんてどうでもいいから、一瞬でいいから、あなたに愛してほしい。
それはわがままなのだと痛いほど分かった。ヘクセルの心遣いに、ベーレは笑って首を振った。
「どこにも行きたくない。これからも薬を作る手伝いをしたい。あなたとずっと一緒にいたい。……ここに、置いてください」
ヘクセルは驚いたようにベーレを見つめ、やがて嬉しそうに、本当に嬉しそうに、泣き顔のような笑顔を浮かべた。
「ありがとう」
彼のそんな表情を見るのは初めてだった。
*
「ベーレ?」
温かい紅茶を淹れてベーレの部屋を訪れると、燭台一つが照らす暗闇の中で彼女は背中を丸め、机に突っ伏したまま眠っていた。またか、と青年は眉を下げる。このところ彼女は無理をしてばかりだ。
「ベーレ、起きて。こんなところで寝たら風邪をひいてしまうよ」
肩を軽く揺すると、彼女は低く呻いて顔を上げた。はずみで手から落ちたペンが転がり、紙にインクの軌跡を描いて机から落ちる。
「研究熱心なのはありがたいけれど……」
そこまで言って、紙に目をやった青年は目を瞠る。紙面に書かれた内容は、彼が求めていたものとはまるで違った。それは、
「ヘクセル?」
ベーレはようやくはっきりと目を覚まし、一瞬で状況を理解したらしかった。くっきりと隈のできた目が眠気を払うように瞬かれ、疲労と時が皺となって刻まれた手がすぐさま紙を覆い隠す。
「違うの、これは」
「どういうつもりだ」
青年は初めて、彼女に対し怒りを覚えていた。
「ヘクセル、話を聞いて――」
彼は耳を貸さず、激昂に任せてベーレから紙を奪い取り、引き裂いた。何度も何度も、文字が読めなくなるまで破ったあと、彼女の肩を強く摑む。
「ベーレ! 言ったはずだ、これは禁忌で、恐ろしい呪いで、得られるのは生きているのか死んでいるのかも分からない……醜くて、おぞましい肉体だけだと!」
「分かってる」
「だったらどうして」
問い詰めかけて青年は我に返る。ベーレは涙を流していた。泣きながら、真っ直ぐに彼を見つめていた。
「日に日に、怖くなるの」
「……」
「体がうまく動かなくなってきて、顔だってもう、あなたより小さい頃があったなんて信じられないくらい」
他人が見れば、ベーレと青年は姉弟どころか、母と息子ではないかとさえ思われるだろう。それほどまでに、二人が出会ってから、長い年月が経っていた。
「だからといって」
「怖いの」
「死ぬことが――」
「違う」
ベーレは見たこともないほどの滂沱の涙を流し、青年の腕に縋る。
「あなたのための薬を作りたくてずっと頑張ってきたけれど……間に合わないかもしれないって、私の力じゃ無理かもしれないって、だからこうしないと、こうしなきゃ、」
――どうしたって私、あなたを独りにしてしまうの。
青年は言葉を失った。
美しさを、若さを、衰えない肉体を手に入れるためでなく。ただただ自分の孤独を思って、彼女は。
「どうしたらいい? これ以外にどうしたらいいの?」
泣き崩れる彼女を青年は両腕で抱きしめるように支えた。そうすることしかできなかった。
「怒鳴ってすまなかった」
宥めるようにベーレの背をさする。随分やせ細って、固く骨張ってしまった背中だった。
「もうずっと分かってたことだよ。僕も、君も、それを承知で一緒に過ごしたんだ」
ベーレは嗚咽を漏らし、青年の肩に額を預ける。
「昔言っただろう。時の流れの中で生きて、熟して、衰えていく君の体は美しいものだ。それを手放してほしくない。最後まで誇っていてほしい」
そんなものいらない、いらないと彼女が呻く声が耳を打つ。それでも青年は、自分の考えをただひたすら彼女に伝えることしかできない。決して分かり合うことのできない溝が二人の間にあって、けれどその溝の底で、彼らはどこまでも深く繋がっていた。
*
「怖い?」
ベーレが囁くようにたずねる。
孤独への恐怖はなかった。ただ寂しさと、ほんのわずかな羨望。彼は静かに首を振る。
「君は?」
訊き返すと彼女は微笑んだ。
「私は怖いよ」
死ぬことも、あなたを遺していくことも。そう続けた彼女はしかし、どこか清々しい顔をしていた。
「でも、自然なことなんだ。そうだよね?」
遠い昔に、彼女に伝えた言葉だ。覚えている。青年は頷いて、染みの浮いた棒切れのようなべーレの手をとった。ベーレは微かな吐息をついて、瞼を閉じる。
「独りにして、ごめんね」
「充分一緒にいてもらったよ」
「薬も、結局作ってあげられなくて」
「何百年かけても作れていないんだから、そう都合よくはいかないね」
努めて軽やかな口調で言う。まるでこれからも、二人の日々が続いていくかのように。
ベーレが部屋を見回す。書物も、筆記具も、地獄のように散らかっていたのが嘘のように整えられ、静けさを湛えて彼女を見守っていた。
「ねえ」
彼女は不意にしわがれ声を発した。「私、分かったことがあるの」
青年は頷き、静かに耳を傾ける。
「ヘクセルと、わたし、同じ時を生きられないって言ってたけど……そんなことなかったのよ」
私を拾った時のこと、覚えてる? 彼女は唐突にそうたずねた。
「覚えているさ」
闇の中で、得体の知れない生き物を拾い上げたあの不思議な感覚。
「私が、子どもだったときのことは?」
順を追ってたずねていくつもりなのかと青年は苦笑する。信用されているのかいないのか。聞かれなくとも、彼女と交わした言葉も過ごした日々も、決して忘れられないものだ。
「覚えている。今までのこと、全て」
「ほら」
ベーレは悪戯が成功したときのように得意げに微笑んだ。
「思い出がたくさんある。あなたの体は変わらなくても、心は私と同じ時を過ごしてた。わたしがいなかった頃のあなたには、もう戻らない。一緒に年をとって、一緒に生きてたの」
青年は目を瞠る。それは彼には考えもつかなかった、ひとつの答えだった。
「そうだね」
彼は握りしめた華奢な手に額を押しつけるように俯き、声を絞り出す。
「君が僕を生かしてくれた。忘れないよ」
ベーレは頷き、微笑んで瞼を閉じる。ほのかに伝わる温もりが二人をひとつに重ねて、
やがて彼女は動かなくなった。
青年は顔を上げた。闇の中で昼も夜もなく生きていた自分に、確かな時間をくれた一人の女性を、美しく老いたその姿を見つめる。白髪混じりの髪を撫で、冷たくなった皺だらけの頬にそっと口づけをする。
そうして彼は立ち上がった。
*
麦が金色に実る、陽の眩しい季節だった。
痛む腰をさすりながら伸びをした農夫はおや、と眉を上げる。黒の森の方角から、小柄な老女を抱いた青年が歩いてくるのだ。
「あんた、まさか黒の森を抜けてきたのかい? まあ、よくも無事で」
そう声をかけると、どこか明るい場所に彼女を埋めてあげたくてと、青年は穏やかな口調で述べた。
「ああ、その人亡くなってんのかい」
農夫は青年が抱いている老女に目をやる。安らかな顔で、眠っているようなので全く分からなかった。亡骸だと知って少し不気味に思ったが、青年があまりに美しく、物腰が丁寧なので、逃げ出そうという気にはならない。
「墓地に案内してもいいが。その人、あんたのお婆さんなのかい?」
いいえ、と彼は首を振り、愛おしそうに、あたたかなまなざしで老女を見つめた。
「彼女は、僕の伴侶です」
数年ぶりの投稿です。
何が起きるでもない穏やかな物語です。