王宮とともに、捨てられる
本日二話目の投稿です。
ご注意下さい。
その明くる朝のことだった。
まだ日が昇らない早朝、私の寝室の扉が激しく叩かれた。
驚いて飛び起きる。
扉が乱雑に更に数回叩かれた後、部屋に現れたのは女官長だった。
いつもは滅多に私に話し掛けることなどないのに、どうしたことか。微睡みの中にいた私の意識は瞬時に冴え、嫌な予感にどくどくと動悸が激しくなっていく。
女官長は早朝の訪問を詫びた後、硬い表情で言った。
「近衛右将軍のご子息、義明殿がいらしています。すぐにお召し替えを」
北に行っていたはずの、義明が戻ってきた?
何かあったに違いない。
宮から出ると、義明が階段の下で膝をついていた。
「いつ戻ったの?」
「父に命じられまして、小隊を率いて戻って参りました。詩月様、私が護衛致しますので、今すぐ西州にある離宮にお逃げください。間もなく黒龍国軍が王都に侵攻を開始します」
急に全身が震えだす。
恐怖に叫びたくなる衝動を、どうにか押さえる。
「そ、そんな……。だってそれなら匡義は――右将軍はどうしているの?」
「父は、討たれました。敵の毒矢が首に刺さり、即死でした」
絶句するほかない。
戦ではなんと簡単に人が死ぬのだろう。
そしてそんなに大切な人の死を、簡潔なまでに呆気なく伝えなければならない残酷さに、打ちひしがれる。
「匡義が戦死だなんて、信じられない……。あんなに強い彼が」
「これは父の最期の頼みなのです。詩月様をお逃がしします」
「で、でも、国王陛下は?」
義明と女官長は顔を見合わせた。
彼らがその厳しい表情から、重い口を開きかけた時、鈴玉の叫び声が響いた。
「詩月様! 大変です! 国王陛下が……」
鈴玉が宮の角を滑りそうになりながら曲がり、こちらへ駆けてきた。
その後を引き取るように、女官長が話し出した。
「私どもは、陛下に置いていかれたのです」
「どういうこと!?」
直感的に事態を察し、全身の鳥肌が立つ。
女官長は声を時折震わせながら、説明を始めた。
昨晩、皆が寝静まった後、厩舎からこっそりとたくさんの馬が連れ出された。
人目を憚りながらも、物資が荷馬車に積み込まれた。
そうして暗闇に紛れ、普段は使用されていない王宮の通用口が解錠され、そこから国王や妃、一部の王女達、そして重臣や侍女たちが王宮を後にしたのだという。
彼らは皆で一路、東へ向かったらしい。
事は秘密裏に行われ、女官長も多くの官吏たちも、何も知らされていなかった。
私と同じく、連れて行って貰えなかった王女も数人居るらしい。
要するに、私達は見捨てられたのである。
(あの大福野郎、やってくれたわね!!)
あまりの悔しさから、しばらく言葉を失う。
義明は厳しい表情で言った。
「陛下達は湖東州にある離宮にいかれたものと思われます。お妃様のご出身地ですので、湖東州のもの達ならば絶対に味方になるでしょうから」
「ここに残ったら、どうなるの?」
「王族の男は皆殺しでしょう。王女様がたは……死んだ方がましだと思われる状況に置かれるかもしれません」
ぞくり、と思わず震えあがる。
代わりに女官長が口を開く。
「急ぎお支度願います」
女官長に言われるや否や、私はすぐに他の王女達がいる宮に向かった。
早朝にもかかわらず、王宮内は騒然としていた。
裳が捲り上がるのも気にせず、廊下を走り回る女官達。
下ろしただけの髪を振り回し、両手に大量の荷を抱え、どこかへ駆けていく侍女達。
馬のいななきが聞こえ、そちらに視線を移せば、騎乗した王女の一人が、侍女と一緒に今しも王宮を出て行く所だった。
一瞬私と目が合った気がするが、私の存在を意に介することなく、王女は遠ざかって行った。
国王不在に気がついた内廷は、混乱の渦中にあった。
だが外廷はどうだろう?
私は外廷に向かった。
いくつもの宮を通り過ぎ、国王が毎朝の政務を行なっている興和殿という建物を目指す。
隣を歩く義明に尋ねる。
「官吏たちは今朝も、興和殿の前にもう集まっているの?」
「分かりかねます。真っ直ぐに詩月様のもとに向かいましたので」
国王は毎朝、興和殿に姿を現し、家臣たちは朝の挨拶をする為に興和殿の建物前の広場に整列していた。
まさか官吏達は、何も知らずに今朝も登城したのだろうか。
「詩月様、どちらへ? どうか脱出のお支度を始めて下さい」
訝しげにそう尋ねてくる義明にはこたえず、興和殿に裏口から入ると、そのまま中を通り抜ける。
一際天井が高い作りをしており、入り口に向かい合うようにして、奥に木の玉座がある。
玉座の後ろには、四瑞獣を描いた屏風が立てられている。
今は無人の玉座を見上げ、そのまま興和殿の正面入り口を見る。外の様子が視界に入るや、私はあっ、と声をあげた。
外には、国王はまだかまだかと、官吏達がいつも通り律儀に広場に並び、待ちぼうけていたのだ。
その一人一人の顔を目にした時、身体がぶるりと震えた。
じわじわと頭に血がのぼる。
弟はなんと多くの家臣たちを裏切ったのだろう。忠誠を誓う家臣たちを、弟は軽んじたのだ。
弟は保身の為に、長年ついてきてくれた者の多くを切り捨てた。
私は勢いそのまま、興和殿の外に出た。
外に控えていた官吏達が、さざなみが起きたように、膝をついていく。流れるような仕草であったが、一様に困惑の表情を浮かべている。
私が登場するとは思ってもいなかっただろうから、当然か。
彼らが待つ国王は、ここで待っていても来ることはない。
端の宮の王女である私の顔など、知らない者達も多い。興和殿から堂々と登場した、という事実のみが彼らの注目を私に集めていた。
息を大きく吸い込むと、彼らの顔をよく見る。そうしてなるべく大きな声を出した。
「国王は先ほど、湖東州に向かわれました」
どよめきが起こる。
「皆、立ちなさい。ここで主人を待つ必要はありません。各々やるべきことを最優先しなさい」
私は階を下り、ようやく立ち上がった彼等の前に立った。
「宝物殿と食糧庫、それに全ての門の鍵を集めて、王宮正門前に掛けておきなさい。万一ここまで敵が来たら、無血開城できるように」
私は一番近くにいた中年の官吏に焦点を当て、命じた。この人物がどういう役職についているのか、皆目分からないがいちいち聞いてる暇はない。
「人足を集めて、今すぐ街中の暁鼓を鳴らしなさい。民を起こし、少しでも備える時間を与えるのです」
「承知致しました!」
短く返答すると、彼は一度膝を折ってからすぐに踵を返し、駆け去っていく。
それを見た若い官吏が、両手を胸の前で組み、私の前まで進みでる。
「おそれながら申し上げます。翠蘭様、貴女様も…」
「私、詩月王女よ」
どうも別の王女と間違われたようだ。
端の宮の王女よ、と名乗る方が説明として親切だったかもしれない。
官吏は気まずげに激しく瞬きをしてから、続けた。
「申し訳ございません。――し、詩月様もどうか湖東州へ避難をなさって下さい。王族が残るのは大変危険です」
敵国が狙うのは王族と上級官吏だ。
どの国の歴史を振り返っても、それは女性だからといって容赦されず、特に直系王族は赤子に至るまで犠牲になるものだ。
だからこそ、私はその前にやることがある。
――兄を、助けなければ。
「詩月様、今度はどちらへ? もういい加減、出発のお支度を……」
興和殿を後にし、端の宮に向かうと義明は私をせき立てた。
「大事な荷物が、端の宮の蔵にあるのよ」
端の宮の周囲はこの混沌とした状況にもかかわらず、相変わらず静寂に包まれていた。
蔵に飛び込むと、私は一番奥まで進む。
埃の舞う空気に咳き込みながら、あちこち塗料の禿げた木製の箪笥の前に膝をつき、引き出しを開ける。
そこには兄から今まで貰った手紙の束が仕舞われていた。
それらをいくつか厳選し、紐で縛ると布の鞄に仕舞う。
「詩月様、そんなものより宝石類をお持ち出しなさいませ!」
「慎お兄様の手紙なの。置いていけない。――ねぇ、義明。王宮を出たら、北にある冷冷宮にも立ち寄ってくれる?」
「立ち寄ります。ですので、どうかお急ぎを」
義明が私を急き立てる。
鈴玉と合流すると、彼女は恐ろしく重い肌着を私に着せた。
二枚仕立ての織物生地の間に、私の亡き母が残した金銀宝石達や、清雅国に向かう前に与えられた高価な簪や歩揺が隙間なく縫い付けられていたのだ。
母の宝石類はほとんど私が受け継いだのだ。兄が「欲しい」と言ったのは、紅宝石の指輪だけだった。兄は母が恋しくなると、いつもその紅い石を指先で撫でていた。
私は鈴玉と義明、そして彼の部下である兵士たちと一緒に、馬に乗り王宮の外へ出た。
まず目指したのは、冷冷宮だった。