崩壊前夜
俊熙が私のもとを去ってから、六年の歳月が流れた。
私は二十歳となり、華王国の王宮の状況も色々と変わった。
弟である国王は、妃を迎えて子も誕生し、彼の周りは賑やかになった。
一方で、長年続いてきた黒龍国との武力衝突はより頻発するようになり、不穏な空気が王宮内にも漂うようになった。
国王は政治には本腰を入れようとはせず、そこから逃避するように運河を開鑿したり、妻子のために大庭園を造園したり、贅沢のための大規模な支出を繰り返した。
当然ながら財政状況は悪化し、その結果税が上がると民の暮らしも厳しくなっていった。これに乗じて各地で小さな反乱や蜂起が起こり、州刺史たちはこの鎮圧に追われた。
最も大きな反乱は、華王国の北部で起きた。こともあろうに、この首謀者は貴族出身の魏子豪という男だった。
そこそこの名家の出で、子豪とは私も子どもの頃に遊んだことがあった。ちょっとヤンチャだけれど、実直すぎるほどに素直な子だった。子豪は貧者に優しかった為、彼のもとに自発的に下る者たちも多かった。
反乱は間もなく鎮圧されたが、数ヶ月後に肝心の子豪が脱獄してしまう、という実に後味の悪い結末を迎えていた。
華王国はまさに、内憂外患といった状況に追い込まれていた。
次第に国王も浪費ばかりしていられなくなった。
財政が厳しくなりつつある有様は、王宮深くにいてもついに感じるほどになり、刻々とゆとりが失われていった。
毎年王宮ではどこかの宮が建て直されていたが、昨年から修復計画は保留となっている。
端の宮も雨漏りが酷くなった為、私はもう少し外廷よりの宮に居を移した。
私が住む新しい宮は以前のような、塀に囲まれて自由に歩き回れる庭はなく、逆に四霊を祀る廟が隣接しており、時折そこを宮中の人々が訪れるのであまり外に出られなくなった。
そのかわり、廟を訪れる人々を宮の中から観察するのが密かな楽しみになった。
廟は小さなもので、弧を描く瑠璃瓦の乗る屋根の四隅に、神聖な四瑞獣の麒麟と鳳凰、亀、竜をかたどった素焼きの像が鎮座していた。
瑞獣は普段は神聖な森や山脈に住んでいるのだという。国を治める者が名君の時のみ、王宮の廟に姿を現わす、半ば伝説の存在だった。
千年近く前に初めてこの大陸を一つの国に治めた王は、「統一王」と呼ばれた。
統一王はあらゆる動物をも配下に治め、その長である四瑞獣をも従えていたという。
統一王の傍には、いつも彼に服従する麒麟や鳳凰、亀と竜がいたらしい。
その後、統一王国はいくつもの国々に分裂し、現在に至る。
四瑞獣は神仙山脈でのみ目撃される伝説の生き物となったが、今でもその国を治める者が傑物である時のみ、四瑞獣は神仙山脈からやってきて、王宮の四霊廟に住みつくのだという。
私の先祖である初代の華国王の時代も、飛竜と麒麟がやってきて、廟に住み着いたと言い伝えられている。
だが国王が代替わりすると、まず麒麟が離れた。
そして三代目になると、飛竜が廟から姿を消した。
国王は嘆き悲しみ、せめて飛竜だけでも戻ってきて欲しい、と春帝国との国境地帯にある神仙山脈に幾度も捜索隊を派遣したが、ついには見つからなかった。
「竜ってどのくらい大きいのかしら?」
子どもの頃、私がそういうと兄は苦笑したものだった。
「詩月、まだ四瑞獣の伝説を信じてるの? あれは子ども向けのお伽話みたいなものだよ」
「そんなことないわ。だって、統一王はいつも侍らせていたし、昔は四霊廟に住んでいたというでしょ」
そういうと兄は肩をすくめた。
「そんなこと、あり得ないと思うな。だって、亀は足が遅いんだよ。王や他の瑞獣についてこれないだろう?」
「きっと、いつも亀は統一王の肩に乗っていたのよ」
「肩に亀は乗らないよ」
くすくすと笑う兄に、私はいつも必死に反論した。
「瑞獣は本当にいるのよ! この前女官の友達の友達が、神仙山脈のそばの空を、麒麟が飛んでいるのを見たと言うもの」
「友達の友達、ねぇ……」
兄は瑞獣などいないと思っていた。
四霊廟にまだ訪問者がいない早朝に、こっそり中に入るのが私は好きだった。
廟内には四霊の為に美しい調度品が揃えられていた。紫檀の椅子は深みのある独特の照りがあり、その背もたれには繊細な螺鈿細工が施されている。四霊を模した玻璃の像が乗る香炉は、絶えず香が焚かれている。
天井裏の四霊の絵画も美しく、毎日眺めても決して見飽きなかった。
初秋を迎え、王宮に植えられた紅葉の葉が色付き始めた。
王宮は整備されすぎていて、自然の緑が殆どない。その代わり、少ない木々の季節ごとの変化をつぶさに観察し、大切にする。
落ち葉が風に煽られ、私のいる宮の前に溜まる。なぜか宮の階段下にやたら集まるので、鈴玉は「ここは風の吹き溜まりなのか」と文句を言いながら掃き掃除をしていた。
私は宮廷楽士から手ほどきを受けている、二胡の練習をしていた。
秋の空気は、音がより伸びよく、美しく聴こえる。日増しに少しずつ冷えていくこの時期に、二胡を奏でるのが私は好きだ。
二胡の首部分に左手をかけ、腿とお腹にすっぽりと収まるように構える。
弦は上下に二本張られ、弓の毛をその間に通す形で二胡と対になっている。
触り慣れた楽器は、手に馴染む。
弓を水平に動かしながら、左手は弦を押さえる。物心ついた頃から練習している甲斐あって、目を閉じていても、一応的確な音程を紡ぎ出せる。
奏でる曲は「白草原」だ。
華王国の東部に横たわる、荒涼とした草原を歌う曲だ。私自身は白草原に行ったことはない。それでもこの曲を聴くと、広漠な草原に吹き渡る風の匂いや、さやさやと揺れる草の音を感じられる気がした。
「白草原」は華王家の王女に伝わる門外不出の曲で、楽譜が存在しない。その代わり幼少の頃から年月をかけて覚えさせられ、重要な国儀で演奏させられる。
大変な難曲な上に大層長い曲で、二胡が不得手な王女は数分も演奏できない。
私は端の宮に置かれて以来、あまりに暇過ぎて完璧に習得してしまったのだ。
使い慣れた二胡は、私の手に馴染み、弓を動かし始めるとまるで私の手の一部のように動く。
そうして曲を奏でていると、鈴玉が枯葉を髪につけたまま、中に戻ってきた。
「鈴玉、枯葉が絡まってるわよ」
「えっ、やだ本当に……」
鈴玉は髪に絡まる葉を払い、咳払いをしてから再び口を開いた。
「詩月様、宮の前に右将軍さまがいらしてます」
右将軍の匡義は北への遠征から帰って来たばかりのはず。どうしたのだろう。
二胡を置いて身だしなみを整えると、宮の外に出る。 私が階段を下りると、向かいの四霊廟の前に立っていた匡義がこちらに気づき、振り返る。
彼は珍しく甲冑を身につけていた。
武人とは言え、王宮内でそんな格好をするのは、滅多にない。
匡義はそのいかつい顔を綻ばせ、微笑んだ。
「詩月様の二胡は、いつ聴いても素晴らしい。おまけにきょうは名曲白草原が拝聴できるとは」
「ありがとう。私、この曲好きなの」
「遠征前に聴くことができてこの匡義、幸せです」
「遠征にいくの? 帰ってきたばかりなのに」
私が純粋に驚くと、匡義は悲しげな表情になった。
「次は相当大規模なものになります。北との争いに、決着をつけてやりますので」
「いつも国の為に、感謝しています。……ご武運をお祈りしているわ」
「今回は私の長男と次男も兵士として同行しますので、息子達にもこの匡義の活躍ぶりを見せつけて参ります」
「頼もしいわね。戻ったらまた顔を見せてね」
匡義は豪快に笑った後で、急に真剣な顔になった。彼は少し声をひそめて言った。
「詩月様。万一の際は、……」
言葉を切ると、匡義はそれきり黙ってしまった。
「どうしたの?」
「いえ。失礼致しました。――またお会いしましょう」
なにかを振り切るように首を左右に振ると、匡義はまた人懐こい笑顔を見せ、私に別れを告げた。
匡義は何を言いかけたのだろう。
戦は長引いていたが、王宮の人々は昨日と同じ明日が来ることを微塵も疑わなかったに違いない。
数々の歴史がそうだったように、不穏な足音はどの国にもやってくる。
歴史が変わろうとするその空気や流れは、常にどこかで醸成されているのだ。
王宮の絢爛な世界の中心にいる国王である弟は、己の地位とそれを支える長い歴史や栄華の上に胡座をかき、何も気づかなかったのだ。
異変が起き始めたのは、匡義が遠征に出かけてから一カ月を過ぎた頃だった。
王族の女達は機織りを任されるのだが、材料となる糸が届かなくなった。
国王の妃はこれを純粋に「仕事が減った」と喜んでいたというから、心配でならない。
宮の外壁が埃だらけになり、石造りの白い回廊が、くすんでいる。
――王宮の身分低い労働者たちが、逃亡を始めていた。
そしてそれが呼び込むように、姿をくらます者が日増しに増え、次第に食事の時間が不規則になっていった。
御膳房で働く者達も、数が減っていったのだ。
逃亡は突発的に起こるので、予防とその人員補給が難しくなっていった。
ある晩、ついに暮鼓が途絶えた。
翌朝の暁鼓も鳴らされることはなかった。
打ち鳴らす当番の者は逃げ、もはや代わりの者すらいなかったのだろう。
目に見えて王宮が閑散としだしていた。
侍女仲間から話をあれこれと聞いてきた鈴玉は、怖がった。
「黒龍国と対峙した我が国の遠征軍が、負け戦を重ねたそうです。退却を繰り返しているうちに、たくさんの兵士たちが軍から脱走してしまったとか」
どこまでが事実なのか不明だったが、楽観視はできなそうだった。
事態は好転の兆しを見せなかった。
華王国の北の州に位置する重要な砦が陥落したとの情報が使者よりもたらされ、それはあっという間に王宮の女たちにも届いた。
次いで黒龍国軍は破竹の勢いで雪崩れ込み、北部二州が敵の手に落ちた。
その報せが女官長によりもたらされると、かなりの数の女官や侍女達が姿をくらました。
脱走は下位の者から始まり、ついに上へと達したのだ。