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約束

 


 私たち一行は、草原の真ん中で夜を迎えた。

 川での事故で多少時間は要したものの、その後の旅は概ね順調に進み、明日には揚州に至れそうだった。

 日が完全に沈む前に、皆総出で天幕を張り、食事の支度を行う。

 どうやら誰かが釣りに成功したらしく、夕食には魚の煮付けもついていた。

 白米に豆の汁物、それに飴色に輝く照りの良い煮付け。

 夕食はなかなか箸が進む献立だった。

 満足して完食し、器を返すと鈴玉も数時間ぶりの笑顔を見せてくれた。


「湯を持って参りますね。明日は揚州の高官達と合流しますので、身奇麗にしなくては」


 往路でも揚州の刺史(ちょうかん)と州尉を始めとする高官達が、私を見送ってくれた。彼等もまさかすぐにまた私を出迎えるとは想像もしていなかっただろう。

 今頃きっと、私に何て声を掛けるべきか、頭を悩ませている。


 鈴玉が私の湯浴みの支度をしにいなくなってしまうと、私も天幕の外に出た。

 辺りには篝火が灯されてはいたが、日没を迎えてかなり暗かった。

 夜になり、気温が下がったらしく、少し涼しい風も吹いている。

 それを心地よく感じながら、夕涼みを兼ねて散歩をしていると、どこからか香ばしい香りが漂ってきた。

 出所を探して視線を彷徨わせると、数人の下働きの男達が焚き火を囲んで輪になり、座っている。その火の周りに、豪快に串刺しになった魚が並べられていた。

 どうやら焚き火で串焼きの魚を作っているらしい。実は釣りの達人が兵士の中にいたのだろう。

 鼻孔をくすぐる良い香りに釣られ、そちらへ歩いていく。


「詩月様、また貴女はフラフラと」


 背後から名を呼ばれ、振り向くとそこには俊熙がいた。魚を刺した串を手にしている。


「それ、食べられるの?」


 グニョグニョと身体を交互に折って尾から頭まで串に刺さった、少し焦げた魚を凝視する。

 そんな風に一匹丸ごと焼かれた魚を、私は初めて見た。


「勿論、食べますよ。詩月様には煮付けが出されたようでしたけど。私たちは焼くだけです」


 簡易な調理法なのだろうけれど、とても美味しそうだ。

 余程物欲しそうに見てしまったのか、俊熙はサッと串を前から横に引き、私から遠ざけた。


「差し上げませんよ。私のです」

「わ、分かってるわよ。そんなつもりじゃないわ!」

「そうでしたか。安堵致しました。――今にもかぶり付かれそうなご様子であらせられたので」

 

(なんですって――!)


 悔しくて言い返せない。

 俊熙はいつも言葉遣いは丁寧なくせに、子どもの頃からの付き合いのせいか、たまに失礼なことを平然と言うのだ。


「散歩していただけよ。気にせず食べて頂戴」


 踵を返して歩き出すと、俊熙は離れずついてきた。


「あまり遠くに行かないでください。危ないですよ」


 野営地の端は篝火も少なく、暗い。

 ふと天を仰ぎ見ると、そこには壮観な星空が広がっていた。

 普段見上げる夜空は高い塀に囲まれ、これほど雄大には見えない。

 見渡せば玻璃屑を散りばめたような、星輝く夜空が地平線までを覆い尽くし、その広大さにちっぽけな私など吸い込まれてしまいそうだ。


「見て、俊熙。凄く綺麗ね」


 空を見上げながら後ろ歩きしていると、何かに躓き、よろけてしまう。

 それを俊熙が片手で押さえてくれる。


「失礼致しました」

「いいえ、ありがとう」


 肩を支えてくれた彼の手は、まるで無礼を働いて後ろめたいかのように、すぐに離される。

 私はその後しばらくの間、うっとりと星空を見上げていたが、気づけば俊熙は全く空を見ていなかった。

 彼は串焼きの魚を食べ始めていた。


「すみませんね。星より魚で。腹が減っておりまして」


 齧られた魚から、ふわりと美味しそうな香りが漂う。思わず生唾を飲み込む。

 私の卑しい嚥下音が聞こえたのか、俊熙の咀嚼が止まる。

 彼は魚から顔を離すと、苦笑しつつ言った。


「一口、差し上げましょうか?」

「あら、いいの?」


 提案したくせに、俊熙は私の返事に固まった。

 それに構わず私は手を伸ばし、串を持つ俊熙の手の上に手を重ね、魚を引き寄せる。

 顔の前に持ってきた食べかけの魚に対し、遠慮気味に小さく口を開く。


「詩月様……」


 俊熙が制止しようとするのを流し、噛り付いた。

 ほんの少しだけ頂くと、皮はパリパリと歯応えがして、身は柔らかで大変美味しい。

 ――でも、味付けがない。

 塩があれば、と思われたが下働きの俊熙にまでは、いき渡らなかったのだろう。


「美味しいわね! 初めて食べたけど」


 味を褒めたが、俊熙は無言でどこか惚けたように魚を見つめている。

 まさか大事な魚を一口取られしまって、怒っているのだろうか?

 そう言えば、俊熙の許可を待たなかった。


「やだ、ごめん。怒っちゃったの?」


 俊熙は魚から私の口元に視線を移し、いいえ、とだけ言った。まだどこか思い詰めた表情をしている。

 昼間は右将軍の匡義に「兵士たちにたくさん食べさせてあげて」など宣ったくせに、それと矛盾する食い意地の張った行為をしてしまった。

 なんて恥ずかしい。


「貴方のだったのに、ごめんなさい。あの、私、飴なら持ってるわ」


 私が帯から下げているのは、翡翠の玉環だけではない。

 油紙に包んだ棒飴を、小さな巾着に入れて持ち歩いているのだ。

 飴を急いで手で割り、俊熙に差し出す。

 俊熙の大好物は干果物(ドライフルーツ)だったが、今は残念ながら持ち合わせがない。


「詩月様……」

「干果物じゃなくて、ごめんね」


 俊熙はどこか困ったかのように首を左右に振った。

 その形の整った眉を僅かにひそめ、いつもは輝くように美しい瞳が、少し曇って私に向けられている。

 私は嫌われたくない一心で、言い募った。


「お詫びにあげるから、許して頂戴」

「いりません」


 飴を持つ手が、微かに震える。


「ごめんなさい」

「王女様が、そんなに謝らないで下さい。私の立場がなくなります」

「あ、ごめんなさい……。あっ、また謝っちゃったわ。ごめん」

「詩月様が本当にご所望なら、こんな魚一匹くらい、私は全部差し上げますよ」


 その言い方は穏やかだったが、どこか険があった。


「でも詩月様は、一口試してみたかっただけでしょう?」

「ええ。そうね……」


 少しの沈黙の後、俊熙は独り言のように呟いた。


「私が詩月様に差し上げられるものなど、これくらいしかありませんから」


 そう言うと俊熙は私から目を逸らした。

 その漆黒の瞳が、いつも以上に翳ってみえる。

 一口貰ったことを怒っているのではないみたいだ。彼は何か別のことに立腹している。

 でも、何に?


「そんなことないわ。俊熙、私は貴方からいつも色々貰ってる」


 俊熙は無言で魚を食べ始めた。

 ちゃんと聞いて欲しいのに。


「ねえ、俊熙。――いつも傍にいてくれて、ありがとう」


 俊熙は眉根を盛大に寄せた。

 不機嫌になったようにしか見えない。

 心を込めて言ったつもりなのに。

 失望しつつ、言い足す。


「あの、気持ち悪いこと言っちゃったかしら……」

「なぜそんなことを仰るのです? そもそも詩月様は清雅国のジジイに嫁ごうとされていたのに」

「だって、それは……」


 憮然とする俊熙の顔を見つめていると、胸がじりじりと焦げていくような気がした。


(断れなかったんだもの。私だって、本当は――)


「ねぇ、俊熙」

「なんでございましょうか」


 二の句をつげない私を不審に思ったのか、俊熙が訝しげな眼差しを私に向ける。

 黒く力強い目に妖しく揺らめく篝火の炎が映り、綺麗だった。

 それに押し出されるように、私は胸の内を明かした。


「私ね、本当は清雅国の国王が身罷られて、ホッとしてる」


 安堵のあまり、つい本音を言ってしまった。

 俊熙は一瞬、微かに眉を跳ねあげ、驚いた様子だった。だがすぐにいつもの平静な表情に戻った。


「当然ですよ、そんなの」

「ジジ…、お爺さんになんて、嫁ぎたくなかった」

「知ってましたよ、そんなの」

「覚悟して出たつもりなのに、情けないわね」

「詩月様には何の非もありません」


 そう言うと、俊熙は食べ終わった串を、草っ原に放った。串は音もなく落ち、繁る雑草に埋もれる。


「天幕に戻りましょう。鈴玉様が多分今頃、貴女を探し回っていますよ」


 私たちはゆっくりと元来た道を戻り始めた。

 天幕が近づくと私は呟いた。


「私、この先も返品王女って呼ばれるのかしら。もうこの先、誰も妻にと望んでくれないかも知れないわね」


 そのうち在庫王女と呼ばれるのだろうか。

 すると俊熙は言った。


「万一、詩月様の貰い手がいなければ、私が結婚して差し上げますよ」

「本当?」


 満面の笑みで振り向くと、俊熙はなぜか泣きそうな顔をしていた。

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