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祝宴

 明くる朝、私は俊熙の出仕前の支度を手伝った。

 宦官服ではなく、昨日支給された青色の官服を纏う。

 青く長い(ほう)を着たその姿は、いつもの見慣れた俊熙と違い、新鮮だった。


「凄く似合ってるわよ、俊熙」

「ありがとうございます。……私はまだ慣れません」


 私は彼の前に膝をつき、腰帯に瑪瑙(めのう)の玉環を下げてあげた。

 かつて十四歳だった私が、華王国の王宮を去る俊熙にあげた玉環だ。

 丁寧に帯に結びつけていると、俊熙の手が伸びてきて、私の髪を撫でる。


「お願いがございます。これからは私の帯飾りを、毎日詩月様が結んで下さいませんか?」


 勿論よ、と笑いながら見上げると、俊熙が頭を下げて私のこめかみにそっと唇を押し当てた。

 それだけで私の頭の奥がぼうっと霞みだす。

 なんとか立ち上がると、俊熙と見つめ合う。


「なるべく早めに帰って参ります」

「ねぇ俊熙、……また私も宮城で働けるかしら?」

「働きたいのですか?」

「勿論よ」

「また女官として働き出せば、この邸に一緒に住めないではありませんか」

「……それは、困るわね」


 小さく笑うと俊熙は私の手を取った。

 指と指を絡ませると、私の反応を窺いながら続ける。


「――できることなら、私は詩月様をこの邸に閉じ込めてしまいたいくらいです」


 そう言うと俊熙は手を引き寄せ、絡ませた私の指にそっと口付けた。

 唇が触れられた中指から痺れにも似た快感が走る。

 私を閉じ込めなくても、私の心は完全に俊熙に囚われていると思う。


「それでは行って参ります」


 そう宣言するなり、俊熙は両腕を広げて私を抱きしめた。互いの身体がぎゅっとくっつき、胸の中が満足感で溢れ、高揚する。

 俊熙は更に腕に力を入れ、私をかき抱くと髪に顔をうずめた。

 そうしてそのまま、離れない。

 笑いを含んだ声で口を開く。


「遅刻しちゃうよ、俊熙」

「詩月様と離れたくありません。どうしたらよろしいでしょう」

「美味しい夕食を作って待っているから、頑張って行ってきて。得意料理ができたの」

「この二月ほどで、急に腕を上げられたのですね。どんな料理ですか?」 

「肉団子の汁物よ。二回も作ったんだから!」

「なるほど。あまり期待しないでおきます」


 何ですって、と文句を言おうとすると、笑いながらもやっと俊熙が私から手を離す。


「――それでは、行ってきます」

「うん。行ってらっしゃい」


 私はそうして俊熙を見送った。








 夏が近づき、蒸し暑い日が続いた頃。

 黄貴妃が皇子を生んだ。

 皇子の誕生を皇帝は大変喜び、貴妃は皇后に冊立されることになった。


 宮城では盛大な祝いの宴が一月に(わた)り何度も開かれ、その締めくくりとなる最終日は、皇帝のそば近くに仕える者達のみによる内輪の集まりとなっていた。

 宴は外廷にある慶華殿という、大きな殿舎で開かれた。

 俊熙も皇帝から招待されていたのだが、ありがたいことに私も呼ばれていた。ついでに招待してもらっただけだとしても、嬉しい。


 しばらく宮城を離れていた私は、場違いなのではないかと気を揉んでしまう。

 気後れしながらも俊熙に説得されつつ、邸から宮城に向かうと、意外にも宮城は懐かしい感じすらして、居心地が良かった。

 その日招かれていたのは、皇帝と親しい官吏や宦官だけでない。

 中には女官たちもおり、久々の再会に私たちはお喋りに花を咲かせた。


 慶華殿の左右の壁に沿って小卓が並べられ、決められた席次につく。

 意図的なのか、役職に関係なく席はバラバラだったが、私の席は幸いにも麗質(リージィ)の隣だった。


 麗質と互いの近況について話していると、やがて人々の話し声が急にやみ、皆が慶華殿の入り口を見つめる。

 一同の視線の先には、皇帝がいた。

 皇帝が宦官たちに先導されて中に入ってくる。

 その少し後ろには、なんと黄貴妃――いや、皇后もいた。

 皇后が後宮を出るのは、極めて珍しい。

 皇帝は胸元に龍の刺繍が施された、黄色の袍を纏い、(つぶら)な黒い瞳を招待客たちに向けながら、皇后と共に奥の席へと進んだ。

 誰の号令があったわけでもなく、皆が一斉に皇帝たちに身体を向け、膝をついて両手を組む。


「皇帝陛下、万歳、万々歳! 皇后陛下、千歳、千々歳!」


 声を揃えて頭を下げる。

 皇帝は腰を下ろすと口を開いた。


「皆、顔をあげよ。今宵は日頃世話になっているそなた達を労う為の宴でもある。一夜限りの無礼講にして、心ゆくまで飲んでくれ」


 皆が手に酒を持ち、高く掲げてから一気に飲み干す。

 酒が空になると、手の中の青い瑠璃杯は、紙のように薄く、軽い。春帝国の食器の質の高さに改めて感動を覚える。


 皇帝が軽やかに手を数回打ち鳴らすと、入り口から楽の音が聴こえてきて、踊り子たちが後に続いた。

 雲のようにひらひらと舞う披帛(ショール)を靡かせ、水色の衣装に身を包んだ美女たちが、部屋の中央で踊る。

 しばらくその舞を見た後で、私は目の前に並ぶ料理に意識を集中した。

 何せ最近自炊をしていたので、ろくなものを食べていない。


「――これ、何でしょう? 凄くおかしな食感…」


 煮付けの中の黒く柔らかい食材を箸でつついていると、麗質が片眉を跳ね上げた。


「あら、華王国では食べないの? 海鼠(ナマコ)よ」

「なまこ?」


 春帝国の人は、何でも食べるようだ。

 輪切りにされたその物体は少し不気味で、食指が動かない。

 中心部は白っぽく半透明で、外周が黒い。

 おまけに表面に凸凹がある。

 色も形もどうかと思うが、何よりぶよぶよと妙に柔らかなこの歯応えが嫌だ。


「あまり味はしないんですね。というより、歯触りがなんとも…」

「ちょっと、海鼠なんか気にしている場合じゃないわよ?」


 麗質が手を伸ばして私の肘をつつく。


「見なさい、あの踊り子。さっきから目線はずっと元宦官の蔡 俊熙殿のところよ?」


 俊熙の名を呼ばれ、海鼠から視線を上げると、彼のすぐそばに踊り子がいた。

 群舞のように踊る十人ほどの女性達は薄い水色の衣装を着ていて、その真ん中で主役のように踊る女性がいた。

 彼女一人だけが純白の襦裙を着ており、目立った。

 髪には真紅の花の(かんざし)が挿しており、腕や手首に巻き付けられた華奢な金細工の装飾品が、動きに合わせてシャラシャラと涼やかな音を立て、美しい。

 彼女は明らかに俊熙を見つめていた。


「大変ねぇ。男だと分かった途端、狙う女が増えたのよ」


 そう麗質が言った先から、年端もいかない若い女官が猛烈な勢いで俊熙の前に駆けつけ、酒を彼の杯に注ぐ。

 あまりに勢いよく注いだので溢れてしまい、小卓の上が濡れる。するとすかさず別の女官たちがわらわらとやってきて、俊熙の小卓の上を拭く。

 何やら彼女たちはそのまま俊熙に話しかけ、そこだけ局地的に人口密度が上がってしまっている。

 麗質が目線だけは俊熙に向けたまま、私の方に少し近寄り、小さな声で話してくる。


「ねぇ、ずっと聞きたかったんだけど、珠蘭は従兄弟じゃなかったのよね? 本当は二人は……いい仲ってことよね?」

「そ、そう思いたいけど……」

「違うの?」


 宦官であることをやめ、官吏として宮城で勤め始めて以来、俊熙は忙しい。

 宮城に泊まり込むことも多い。

 (やしき)にはただ、寝に帰ってきているようなものなのだ。

 そう説明すると麗質は私の目をじっと見つめて言った。


「そんな悠長に構えていると、宮城に侍る美女たちに掠め取られるわよ?」


 答えに詰まっていると、私と麗質の間に男が割り込んで腰を下ろした。


「皇帝陛下!」


 私と麗質はほぼ同時に驚きの声を上げた。

 慌てて手を組み、その場で低頭する。


「陛下。皇子様のご誕生、誠におめでとうございます。心よりお慶び申し上げます」

「無事、母子ともに健康なのは皆のお陰だ」


 そう言うと皇帝は咳払いをしてから、上半身を私の方へ傾けた。

 立て膝にした上に杯を持った右手を乗せ、その大きく彫りの深い瞳で私を意味ありげに見つめてくる。


「ところで――俊熙が男に戻ってから、三ヶ月が経つぞ。そなたと俊熙は何をもたもたしているのだ?」

「もたもた、とは…」

「いつ夫婦になるつもりだ?」


 単刀直入な質問に、顔が熱くなる。


「わ、分かりません……。いかんせん、俊熙の仕事が最近ずっと忙しくて、帰宅もまばらなのです」


 しまった。

 宮城の頂点にいる皇帝に、俊熙の労働環境の文句を言ったみたいになってしまった。

 だが、皇帝は意に介した様子もなく、ふんと鼻を鳴らした。


「たしかに宮城勤めの官吏は多忙だが。余が思うに、それは言い訳だな。――何となく分かるぞ。俊熙は長年おあずけをくらい過ぎて、一歩踏み出す機会を完全に見失っているのだろうな」

「はぁぁ…」

「実は余も板挟みなのだ。このところ、可愛い姪っ子から俊熙を紹介してくれと頼まれている」


 皇帝はちらりと奥の席を見つめる。

 皇帝の座っていた席の少し手前に、先ほどの純白の衣装の踊り子がいた。もしやあの子が皇帝の姪……?

 侍女らしき女たちに挟まれ、酒を飲むでもなくじっと斜めの方を――俊熙を見ている。すこし切なげなその瞳が、いじらしい。


「妻は最大の女避けになるぞ? それに俊熙にも、はやく幸せになって欲しいのだ」


 するとそれまで皇帝の話を妙に神妙な顔つきで聞いていた麗質が、大きく頷く。


「仰る通りですわ、陛下。珠蘭、今夜決着をつけちゃいなさい!」

「……と言いますと」

「二人の将来をどうするか、はっきりさせるのよ!」


 そう言うなり麗質は私の杯に酒を注ぎ足し、勝手に手にとり、私に押し付ける。


「もっと飲みなさい! お酒を入れて、もっと大胆な行動にでてみないと」


 そうだそうだ、と皇帝が相槌を打つ。

 その妙なノリに押され、私は酒をあおぎ、豪快に飲み干した。






「……一体、何杯飲まれたのです?」 

「そうなの、お酒に呑まれちゃったの。ははは」


 俊熙に真面目な顔で尋ねられ、おかしくなって私は笑い出してしまった。

 俊熙は釣られて笑ってはくれず、対照的に眉をひそめてから首を左右に振った。


「早く帰りましょう」

「お仕事はいいの? 宴がお開きになってから、殿舎に戻って一仕事またするって言ってたよね?」

「諦めます。私も一緒に邸に帰ります」

「えー、そう? なんでー?」

「貴女が酔っ払ってらっしゃるからですよ!」


 そんなに酔ってないのに、と思いつつも足がふらつく。

 慶華殿を出て、門まで真っ直ぐに伸びる花崗岩の石畳を歩きながら、後ろを振り返る。まだ中で盛り上がっているのか、煌々とあかりが殿舎から漏れ、時折わっと言う笑い声が聞こえてくる。

 慶華殿の階段を下りたところに、純白の襦裙の女が佇んでいることに気がつく。あの舞を踊っていた、例の皇帝の姪だ。

 何やらこちらを見ている。


「俊熙は、言ったよね。――私とずっと一緒にいるって」


 立ち止まった私の腕を掴み、引っ張るようにして再び歩き出しながら俊熙は頷いた。


「ええ。申しました」

「あのさ……」

「はい。なんでしょう?」

「私、そばにいるだけじゃ、嫌なの」


 歩き出していた俊熙がぴたりと立ち止まる。

 漆黒の目を瞬き、その後でゆっくりと振り向いて私に向ける。


「と、仰いますと」

「それは、分かるでしょ…」


 もじもじと動き、頭をかく。

 酒の力を借りても、これ以上は恥ずかしい。

 酔いのせいか腕が上手く動かせず、髪に挿した歩揺(ほよう)に手が当たり、金色の歩揺が抜け、地面に落ちる。

 カシャン、という涼やかな金属音が夜の宮城に響く。

 私が膝を折る前に、俊熙が素早く屈み、歩揺を拾い上げる。

 小さな水晶がぶら下がる細い鎖が、絡まり合ってしまっている。


「これくらい大丈夫よ。後でなおせるわ。私、少し前までこの宮城の尚服局にいたんだから」


 私がそういうと、俊熙は小さく笑いながら手を伸ばし、私の髪に歩揺を挿しなおしてくれた。

 ちらりと視線を動かして確認すると、皇帝の姪はまだ殿舎の入り口から、こちらを見ている。

 私は頭から離れていく俊熙の手首をさっと掴んだ。

 意図がわからず、俊熙が目をすこし見開く。


 ――私ったら、性格が悪いかもしれない。


 でも、ここで引き下がりたくない。

 背伸びをして爪先立ちになり、俊熙に抱きつく。


「詩月様?」

「ねぇ、俊熙。私、これ以上待ちたくないの」


 声が震える。

 俊熙は薄く笑った。


「詩月様。待つ、とは何を?」


 身体を少し離して見上げると、俊熙の口角が上がり、私を挑発的に見下ろしている。月夜の下の長い睫毛がどこか、妖艶だ。

 これは、どう考えても察しているくせに、わざと私に言わせようとしている。


「分かるでしょ! お互い大人なんだから」

「恥ずかしがらずに仰って下さい」

「……私と結婚してくれないの?」


 すると俊熙が私の頰に手をそっと当てた。

 そのまま俊熙の綺麗な顔が迫り、彼は自分の額を私の額にこつんとぶつける。

 あまりの近さに、目を伏せる。


「ち、近いよ……。み、見られているかもしれないから、」 


 というより、見られているのだ。

 これはいくらなんでも、羞恥心に耐えられない。

 だが俊熙はやめてくれなかった。


「散々煽っておきながら、何を」


 そのまま俊熙が顔の角度を変え、唇を唇に優しく押しつけてくる。

 唇を一旦離すと、俊熙が私を覗き込む。


「詩月様。――貴女が、欲しい」


 なんて返事をすれば良い?

 俊熙の熱い視線に、意識が遠のく。

 沸騰寸前の頭でうろたえている間も、切れ長の瞳は僅かも逸らされることなく、私を見つめている。

 返事を待っているのだ。

 なんとか息を吸い、呟く。


「あげる。だから、俊熙も私だけの俊熙でいて」


 俊熙は一瞬、微かに目を見開いた。その直後、再び私に熱烈に唇を押し当て始める。

 私は思わず首を捻り、もがく。


「待って……。か、帰ってからにして……!」


 俊熙はようやく私を解放すると、滲むような笑みを披露した。


「そうですね。帰りましょう」


 そうして私の片手をとり、歩き出す。


 ――なんだか、帰るのが怖くなってきた……。




次話が最終話となります。

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