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清雅国をあとに

 私たち一行は当初、清雅国までの往路分の食料しか用意していなかった。

 その為、華王国への帰国に際し、清雅国の温情で新たに水や食料等の物資を分けてもらってから私たちは出発した。

 華王国に向けて戻り始めた翌日。

 国境近くの川を私たちが渡り始めた時。

 車窓から水面を見ながらも、特に不安は抱かなかった。

 往路も同じように、この川を馬車で渡ったからだ。

 チャプチャプという涼しげな水音が下から聞こえ、同時に川底を車輪が擦る振動が身体に伝わる。

 川を中ほどまで渡った時。

 突然水の音が激しさを増し、ゴリゴリと車輪が川底を擦っていく音が続く。


「なに、何でしょう?」


 鈴玉(リンユー)が、俄かに顔をひきつらせる。

 その直後、ふわりと身体が傾くような感覚に襲われた。馬車が浮いたのだ、とすぐに直感する。

 窓の外を見れば、小さな箱が川に押し流され、慌てふためく兵士達の姿が飛び込んできた。


「水嵩が増したぞ! 急いで渡りきれ!」


 兵士達が叫ぶ声が聞こえる。

 車体横に駆けつけた匡義(カンイー)が馬車の屋根に手を掛け、鬼気迫る形相で力を込めている。彼はその怪力で傾きを治そうとしていた。


「鈴玉、こっちに移動して!」


 匡義を助ける為、彼の方に鈴玉と動き、車内の重量感を変える。

 ガチャン、と車輪が川底に再度ぶつかる音がした。なんとか傾きがなおると、馬車はすぐに前進を始める。


「急げ! 早く渡れ!」


 一列に並んでいた隊列はバラバラになり、皆なんとか川岸へ乗り上げた。

 だが後ろを見れば、数台の荷馬車がひっくり返っている。荷台に積まれていたたくさんの箱が水面を浮き沈みしながら、白い泡飛沫と共に押し流され、消えていく。

 急いで馬車を降りると、匡義がすぐに私の前に駆けつける。


詩月(シーユェ)様。いくつかの荷は失いましたが、幸い大切なお衣装や宝石達は、無事です」


 衣装こそどうでもいいのに、と思いながらも身体を張って守ってくれた匡義に礼を言う。

 問題は荷物だけではなかった。

 兵士たちはずぶ濡れだったし、馬車も何台かは車輪を損傷していた。

 ここで私たちは当初の計画を変更し、少し早めの昼食を取りながら、一旦休憩兼修理に入ることにした。

 何事も予定通りにはいかないものだ。



 川岸には急遽、休憩のために天幕が張られた。

 真綿入りの敷物を広げ、中で鈴玉と寛ぐ。

 狭い車内に押し込められ、悪路を進んだせいで全身が凝り固まっている。

 旅行用の小さな(つくえ)を出し、そこに寄りかかると溜め息しか出ない。


「長い道のりですね。――一体、何の為の往復だったのか……」


 鈴玉が珍しく愚痴を漏らす。

 両手を上げて鈴玉が伸びをすると、こちらにまで彼女の関節が鳴る音が聞こえる。

 そうして二人で寛いでいると、外から兵士達の声がした。


「近隣の村を探してこい」

「食糧がかなり流されたんだ。米は無事だから、王女様に召し上がって頂く干し肉や果物を、米と交換してくるんだ」

「この辺りじゃ、辺鄙な村しかないぞ。肉なんてそうそう貰えないだろう」

「だから米は奮発しろ。どうせ明日には国境をこえて、揚州に入れる。俺たちは一日くらい食べれなくても大丈夫だろ?」


 鈴玉の方を見ると、彼女は何食わぬ顔で私の為に茶を準備している。


「大丈夫なのかしら?」


 心配になって鈴玉に尋ねると、彼女はほんの少しだけ首を傾けた。


「川を渡る前に田畑を見ましたから、村もすぐ見つかりますよ。案ずることはありません」

「でも……」


 兵士たちにとってみれば、この職務内容を冷静に分析すると、外交上全く役に立たなかった王女を、隣国までわざわざ運んだ挙句、また逆のことをさせられているだけだ。


「でも……用無しの王女なんかに食い扶持を奪われたら、腹が立たないかしら」

「そんなこと、考えるはずありません。だいたい、用無しとはなんです? こちらには何の落ち度もないのに」


 その時、鈴玉のお腹が音を立てた。

 恥ずかしそうに咳払いをしてから、茶器に茶葉を入れる。


「お茶でお腹を紛らわしましょう、詩月様」


 そう、馬車に乗っていただけの私すら、お腹が空いている。動き続けている兵士たちは、尚更だろう。

 揚州に着く前に、端の宮の王女などどうでも良くなって、馬車ごと置いていかれたりしたら、どうしよう。

 そう考えるといても立っても居られなくなった。

 私の食事を豪華にする為に、兵士達に回されるべき米が、なくなってしまうなんて、馬鹿馬鹿しすぎる。

 立ち上がると鈴玉が目を丸くした。


「詩月様? 今お茶が……えっ、どちらに!?」


 鈴玉が止めるのも聞かず、私は天幕の外に飛び出した。

 辺りを見渡すと、二人の兵士達が馬に乗るところだった。急いでそちらに向かう。


「待って。お待ちなさい!」


 今しも隊を離れようとする二人の兵士たちに、声を掛ける。

 二人は私の姿を見るなり、血相を変えて馬を止め、まるで落馬しそうな勢いで地面に降りた。


「詩月様、いかがなさいました?」


 どこからか匡義も駆けつけ、少し遅れて俊熙もやってくる。

 私は匡義に向き直った。


「食糧を貰いに行くの?」

「はい。昼食が遅くなり、申し訳ございません。今しばらくお待ちを」

「その必要はないわ。私はどうせ馬車に揺られているだけよ。たいして食べなくても平気よ。だから、皆で残ったお米と煮豆を食べましょう」


 匡義は慌てふためいて反論してきた。


「とんでもない。王女様にそのようなお食事をお出しするわけには……」

「非常事態に豪華な食事なんて期待していないわ」

「明日には揚州に入ります。刺史(ちょうかん)が我々を迎える準備をしているはずですので、今日一日のご辛抱です」


 私だけたらふく食べて、お腹の虫が鳴る兵士たちに馬車の護衛をさせるわけにはいかない。

 でもその言い方だと、匡義には通用しないようだ。


「ねぇ、右将軍。揚州の刺史の前で、兵士達のお腹が鳴る音を聞かれたりしたら、私が恥ずかしいわ。それに、空腹の兵士たちに守ってもらうのは、不安なの」


 軽く笑ってみせると、匡義はしばらく返事に困ったようだった。だがやがて苦笑を浮かべると、そのツルツルの頭を掻きながらも渋々買い物を諦めてくれた。


 食事が用意されるまでの間を、天幕の中で待つのはかなり辛かった。

 華王国の王都に比べると、この辺りは蒸し暑く、天幕の中には風も通らない。

 あまりの暑さに耐え切れず、衣服についている装飾玉や余計な帯を外し、濡らした手巾を首筋に当てる。


「ああ、だめ。中にいたら干からびちゃう」


 汗だくになりながら、ついに天幕を飛び出す。

 外は兵士達や雑用係の人足達が忙しく動き回っている。

 洗濯物の束を桶に入れた籠を抱えた俊熙が私に気づき、こちらへやってくる。


「中でお待ち下さい。誰かとぶつかりますよ」

「暑くて堪らないの。肌に纏わりつくような暑さね」

「この辺りは盆地ですので、風の吹き溜まりなんです。一年を通して湿度が高いんですよ」


 涼を求めて、暑苦しい長い(スカート)を両手でつかみ、バタバタと揺する。

 すると急に手首を俊熙に掴まれた。

 驚いて顔を上げると、彼はどこか怒ったような険しい顔をしている。


「ここは壁に囲まれた宮の庭ではありませんよ。衆目がございます」


 はしたないと注意をされている。

 恥ずかしくなって、慌てて身だしなみを整える。


「桶に冷たい水を入れてお持ちしますので、中にいらして下さい」


 そう言うなり俊熙は川に走っていった。



 天幕の中で待っていると、俊熙が両手で大きな桶を抱えてやってきた。

 重そうな桶には、水がいっぱいに溜められている。

 どうやら川で汲んできてくれたらしい。

 俊熙は天幕の中の小さな椅子を引き摺ってくると、桶の前に置いた。


「足をつけると涼しいですよ」

「足湯ならぬ、足水ね!」


 すぐに椅子に座ると早速(くつ)と足袋を脱ぎ始める。バラバラになった沓を揃える間すら惜しく、爪先から足を桶に突っ込む。


「冷たい!!」


 キン、とした冷たさが足全体に押し寄せ、膝近くまですぐに涼しくなる。

 窮屈だった沓から出て、足の指が広げられる解放感も堪らない。

 礼を言いながら俊熙を見ると、彼は私が脱ぎ散らかした沓を揃えて椅子の横に置いてくれた。


「俊熙も入れる? すっごく涼むわよ」

「――さっき洗濯の時に十分川に浸かりましたので、結構です」

「そう?」


 あまりの気持ちよさに足を桶の中で動かす。

 爪先を上に上げて水から足を上げた次の瞬間、水飛沫が飛び散り、桶の前に膝をついていた俊熙にかかった。


「ごめん!」


 慌てて謝ると俊熙は笑った。

 手の甲で濡れた顔を拭いながら。


「――こうしていると、詩月様に初めてお会いした日を思い出します」

「たしか……兄が水時計の水を私にかけようとした日だわ」


 俊熙と私は視線を通わせ、くすりと笑った。

 俊熙と私が出会ったのは私が七歳の時だ。

 まだその頃は国王である父も健在で、兄である慎王子は次の国王に一番近い王子として、皆から慕われていた。

 ある夏の暑い日、私は兄と水時計で水遊びをしていた。

 水時計は四段式の大きな石甕から成る。勾配のついた角段から一定の水量が下段の甕に流入していき、最下段に溜まった水の高さで時刻を読む設備だ。

 水時計自体は中書省の役人が毎日管理する大切な仕事道具であったが、幼い私たちはその認識が全くなかった。

 兄と水を掛け合い、笑い転げていた。

 そこへ侍女頭に連れられた少年が通りかかったのだ。

 簡素な白い薄衣を纏っている、貧相な身なりの少年だったが、容貌だけは天女のように綺麗だった。

 それが、初めて王宮に足を踏み入れた俊熙だった。

 俊熙は初仕事で緊張していたらしい。左右の手と足を同時に出して歩いていた。

 ガチガチに固まって歩いていた俊熙は、不幸にも出勤一日目にして、水時計の水を大量に頭から浴びることになる。

 兄がふざけて掻き出した水を、私がひょいと避けたが為に。


「あの時、詩月様が懸命に袖と披帛(ショール)を駆使して私の身体を拭こうとなさったことを、今でも昨日のことのように覚えています」

「そうそう。俊熙が髪から水を垂らしながら、大きな目を物凄く見開いて、私を見ていたわ」


 懐かしくなり、足の甲の上で揺れる水面を見つめながら、当時に想いを馳せる。

 兄と遊んでいた日々は、今やとても遠く感じる。


「――お兄様も、きっと私を心配なさってるわね。王都に帰ったら手紙をまた書かなくちゃ」


 俊熙はそうですね、と呟くと私の足を水から上げ、手巾で水滴を拭ってくれた。







 食事は匡義の宣言通りの献立だった。

 多少大袈裟に言っていたに違いない、と期待してみたが、昼食は本当にまさかの「米と大豆のみ」であった。

 広い天幕の中で、白米と極めて薄味の味付けをしただけの煮豆を食べるのは、心も体も侘しい。

 その上鈴玉も仕事で忙しく、天幕に一人になってしまった。

 白米の上に煮豆を掛けると、器を持って私は外に出た。

 外では焚き火がたかれ、その周りに地面に垂直に刺された棒があり、そこに洗濯物が干されていた。俊熙がその前に腰を下ろし、ご飯をかきこんでいる。

 どうやら火の番をしながら、食事しているようだ。

 私が隣にすわると、彼はさっと振り向き、私の手の中の丼を見てからその整った顔を曇らせた。


「天幕の中でお食事なされませ」

「さっき言ったでしょ。暑いのよ。ここで食べてもいい?」

「私などと食事の席を共にされて、宜しいのですか?」

「宜しいんじゃないのー? ここは王宮じゃないもの。少しくらい自由にしていいでしょう」


 隊列の隅の方では、兵士たちが馬車の修理をしている。あちこちに作られた焚き火のそばでは、兵士たちや女官たちが食事をしている。

 なんだかそれは、とても非日常的だった。


「ねぇ、俊熙。私たち結局、清雅国の王都にすら入らなかったわね」

「事情が事情ですから、仕方ありません」


 俊熙は空になった器を地面に置くと、私の顔を見た。その漆黒の瞳が、いつもより鋭いように思えるのは気のせいだろうか。


「詩月様は、彼の地の皇帝に嫁げなくて残念に思われていらっしゃるのですか?」

「そうね。だって、王女として役割を果たせなかった訳だし。――冷冷宮にいるお兄様を、国王陛下が虐めないといいのだけれど……」


 最後の方は声が震えた。

 国王である私の異母弟は、私を毛嫌いしていた。

 私がヘマをやらかすと、年若い国王は腹いせに兄を罰するのだ。

 半年前も、似たようなことがあった。

 私は国王に命じられていた絹織物を、期日までに仕上げられなかったのだ。徹夜で織り続けたけれど、間に合わなかった。

 国王は私の宮の機織り機を蹴り上げ、言った。酷く醜く歪んだ顔で。


「連帯責任で、冷冷宮の慎兄上の食事は、今日一日抜きだな!」


 思いだすと食事が進まなくなる。

 豆の上に視線を落としたまま黙っていると、俊熙が口を開いた。


「陛下は、慎王子がかつて陛下を呪殺しようとしたという濡れ衣を、事実だと信じていらっしゃる」

「そうね、だからこそその妹の私を許せないのよね。でも、お兄様は無実よ! 弟を国王にと推す者たちに、はめられたのよ」


 だが、その証拠もない。

 事実、兄の部屋の床下からは弟を呪う呪具が見つかり、懇意にしていた僧侶は「慎王子に頼まれ、勇王子を呪殺しようとした」と証言したのだ。

 その僧侶も、投獄中に謎の服毒死をしてしまったけれど。


「慎王子様が本当は無罪だと、私は信じておりますよ」

「ありがとう」

「だから、美味くなくてもお召し上がり下さい。食事はどんな時でもとらなくてはいけませんよ」

「うん。分かった……」


 私は煮豆をゆっくりと咀嚼しながら、ぱちぱちと爆ぜる焚き火の炎を眺めた。








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