兄の残像
皇帝の足元には、真珠が散らばっていた。
しがみついた私が、力を入れ過ぎて繊細な鎖が切れ、纏めていた真珠が床に落ちたのだ。
軽やかな音を立てて真珠が弾み、転がるのを私も皇帝も、二人とも気にも留めなかった。
それどころかいまや皇帝が頭にかぶる冠すら、斜めに傾き、外れかけている。
私が激しく皇帝の身体を揺すっているからだ。
「なぜ俊熙にそんな選択を……!」
怒りをこらえ切れなかった。
目の前で答案を破られた瞬間に、俊熙が断たれた官吏としての栄光の道を、今すぐ返してやりたかった。
「余のせいではあるな。だが、全てはそなたの為だった」
皇帝の一言に、私の膝は崩れ落ちた。
その場に倒れそうになるのを、皇帝がなんとか支えてくれる。
「俊熙は余にとっても、唯一無二の友人だ」
皇帝は右手で私を抱き起こし、左手で私の顔を自分の方に向けた。
彼は少し掠れた声で言った。
「余と俊熙の最後の約束を守らせてくれ。余は俊熙にそなたの幸せを、約束したのだ。――帝都にとどまり俊熙が築いたものを守ってやってくれ」
皇帝は俊熙はあの家を、私と過ごす為に買ったのだと言った。
――肝心の俊熙自身がそこにいないのに。
「この帝都に、いてくれるな?」
もはや懇願に近かった。
「勿論、俊熙の帰りを待ちます。きっと彼を捜索隊が見つけてくれるでしょうから」
「だがもし……、もし見つけられなかったら……?」
ずっとこの国にいる?
――それは、あり得ない。
「国に帰ります」
あまりにも唐突に国を捨ててきたのだ。
無事なのか分からない人が、たくさんいる。
私は残してきた大切な人の安否を、知りたかった。そもそも俊熙がいたから、ここにいられたのだ。確かめずにはいられない。……まだ、全てを失ったわけではないと。
目を閉じれば彼らの顔が次々と浮かぶ。
侍女の鈴玉、将軍の匡義、私を王宮から助け出してくれた義明。――そして、慎お兄様は……?
それから一月の間、私は待った。
女官をやめ、帝都の俊熙の自宅を守りながら。
だが家の主人はついに帰宅しなかった。
待っても俊熙は戻らない。日ごとに、胸の中の大切な部分を削り取られていくような痛みに苦しめられた。
最初の一週間で行方不明者の大半が発見された。
三週目になると、捜索はほぼ空振りとなった。
捜索隊が総力を挙げ、皇帝の右腕であり、劉氏討伐の際に禁軍を守った宦官を見つけようとしたにもかかわらず。
ただ待つのは辛かった。
望みはやがて萎んでいき、残された微かな希望すら消えると、一転して疑問へと変わった。
――なぜ見つからないのだろう?
帰らぬ相手を待ち、一人きりで過ごすうち、自分が世の中から置いていかれた気分になった。
一月が経過した朝、俊熙の家の前に豪勢な馬車が何台も連なってやってきた。
慌てて迎えに出ると、それは皇帝と女官たちだった。
「今朝旅立つと聞いている。――本当に華王国に戻るのか?」
馬車から降りるなり、皇帝は門の前で私にそう尋ねた。
「予定通り、春帝国を発ちます。私は兄を探しに行かなければなりません」
俊熙は戻るなと言った。けれど、兄は今や私のたった一人の肉親だ。無事を確認しないわけには、いかない。兄は私に残された最後の希望だった。皇帝は残念そうに溜め息をはき、何やら紙の束を私に差し出した。
「陛下、これは?」
「過所だ。そなたにそれを渡しに来たのだ」
過所とは、身分や旅行証明書みたいなものだ。
役所で発給されるもので、州を超える範囲の移動に適する。
「そなたは華王国からここまで来た時、関所を通らず密かに入国した。だが、一人ではその険しく危ない道を通ることはできまい」
皇帝の心遣いに感謝し、書類を手に膝を軽く折り、礼を言う。
「女の一人旅は危険が多い。それに各地がまだ荒れているだろう。護衛も連れて行け」
すると皇帝の隣に控えていた二人の若い男が、私の前に進み出て、膝を折った。
「お供致します」
二人とも旅支度のつもりなのか、軽装を纏ってはいるが帯剣しており、身のこなしがきびきびとしている。
武人なのだろう。
反論しようと皇帝を見ると、彼は私が口を開く前に言った。
「護衛をつけぬなら、出国を許さぬ」
「陛下。分かりました。――ありがたく、同行をお願いします」
皇帝はようやく頰を緩め、頷いた。
春帝国から華王国への道は、俊熙と通った道のりとは全くちがっていた。
過所があったので船や馬車など、移動のしやすい手段を使えた。国境は山を越えるのだが、あの時ほどの過酷さはなかった。
国境の山を越えると、私は神仙山脈に向かった。
俊熙と華王国を出た時に、捨てていった宝石たちを取り戻したかった。
皇帝が私につけてくれた護衛の二人は、神聖な森には入りたがらず、かなりの及び腰でついてきた。
私が脱いで行った肌着は、なかなか見つからなかった。
諦めて森を出ようかと思った頃、丸まり、枯葉に半ば埋もれた布が視界に入った。
急いで枯葉を払い、両手で持ち上げる。
ずっしりとした重量のあるそれは、かなり薄汚れていたが間違いなく私が脱いでいった肌着だった。
胸に抱きしめるように持つと、しばし立ち尽くす。
この森でこの肌着を脱がされた時、私は俊熙と一緒にいた。でも今は、いない。
それがとても、辛い。
華王国の西部は子豪率いる新華王国が支配下に置いていた。
通りのあちこちに新華王国の兵士が闊歩し、戦禍のあとだからか、通る街によっては荒んでいた。
市場は閑散として物が少なく、放棄された畑には雑草が高く伸びている。
ごろつきのような輩達もそこかしこをウロつき、護衛をつけてくれた皇帝に感謝せずにはいられなかった。
かつての華王国の王都に戻り、王宮の建物を見た時、胸が締め付けられるように痛んだ。
門の前には新華王国の兵士がたち、王宮の屋根と屋根の間には、黄色地に白色の糸で四瑞獣の刺繍が施された、新華王国の旗が掲げられていた。
私が生まれて育った王宮はもう、他所の国のものだった。
落ち込みながら北に進む。
「珠蘭様、どちらへ行かれるのですか?」
護衛が尋ねてくる。
北に行くほどに王都は侘しい建物が多くなるので、不思議に思ったのだろう。
「北にあった離宮、冷冷宮にいくのよ」
空き地が増え、倒壊した家屋も散見される。
城郭で囲まれた王都の、北端の物寂しい区画にやってくると、その先に冷冷宮があった。
蜘蛛の巣だらけの、八角形の建物。
扉は閉じられていたが、その下に太く大きな南京錠が転がっている。もしや施錠はされていないのかもしれない。
そう期待して扉を片手で押すと、蝶番が軋む音と共に扉が開く。
護衛と一緒に中に入ると、私はあっと驚いた。
玄関から続く廊下の奥に、中年の女性が胡座をかいて座り、何やら丼を啜っている。
「なんだい、なんか用かい?」
女が顔を上げる。
よく見ると女が啜っているのは、粥だった。
「あの、貴方はここで、何を?」
「暮らしてんのさ。家具も揃ってるし、空き家だし。あたしの家は、黒龍国兵に壊されたんでね」
「兵に……?」
「王宮が落ちてしばらくしてから、黒龍国兵が押しかけてきたんだよ。でも目ぼしいものが何もなかったのか、腹いせに周辺の家に火をつけたんだ。とんでもない奴らさ。その後に子豪様が来てくださって良かったよ」
「……ここに住んでいた華王国の王子がどこに行ったか、ご存じですか?」
王子? というと女は粥を咀嚼しながら、しばし考え事をするように首を巡らせた。
「――これはあたしの想像だけど、多分ここに王子なんていなかったよ」
聞き間違いであってほしい、と思った。
真意が分からず、再度同じ質問をする。すると女は肩を竦めてから口を開いた。
「少なくとも竃には、長い間全く使われた形跡はなかったね。二階に立派な寝台があるから乗ってみたのさ。そしたら、体重をかけた瞬間に壊れたんだよ。すっかり腐ってた」
そんなはずはない。
私はふらふらと二階へ上った。
女の証言を否定する何かを見つけたかった。
だが現実は残酷だった。
女の言う通り、寝台はその端が落ち窪んでいた。女が乗ったところだろう。
カタン、と音がして振り返ると、兵士の一人が部屋の奥にある引き出しを開けていた。
「珠蘭様、何やら手紙がたくさん入っていますよ」
震える手で引き出しの中を漁る。
そのほとんどに見覚えがあった。私が出した手紙だ。
虫に食われ、穴が空いたものもあった。
幼い私の字。
絵を描いたものもあった。――そうだ、水墨画を描いて送ったことがあった。
そして、一番最近書いたものもあった。
更に下の引き出しからは質の悪い、ザラザラとした紙が出てきた。
広げると、見覚えのない字で文書が書き連ねられている。だがその内容は私が知っているものだった。
「お兄様からの手紙だわ。でも、字が違う」
紙を持つ手に力が入り、グシャリと皺が寄る。
これが意味するところを、知りたくない……。
おそらくこれは――字を真似ることが得意な何者かに、書かせるための下書きだ。
護衛たちは家探しのようにあちこちの家具をひっくり返し、何かないかを探してくれた。
ここに誰かがいたことを示すものは、何もなかった。
寝具の替えも、衣服すらも。私は兄を探しにきたのだ。こんなものを見つけたかったのではない。
けれどどうしても、俊熙が皇太后の侍女から聞き出したという話が、頭から離れてくれない。
兄はとうの昔に殺されている、と言った。
この宮に幽閉されていた王子はいなかった。――それが動かしがたい事実として、私の前に晒されていく。
いや、でも。
兄はもしかしたら別の宮に移されたのかもしれない。
事情があって、ここにいることにされていただけで。
私はどうにか楽観的に考えたいと思った。
階下に降りると、女が窓辺に座り込んで籐を組んでいた。籠か何かを作っている。
売り物にでもしているのか、床にも籐の束が並べられ、隅には籠やざるが置かれている。
床の一部は編まれた籐で塞がれている。床が崩れて補修したのかもしれない。
しゃがんでその籐の床に触れる。
まるで一度この一部だけを壊し、床を張り直したような。
すると女が笑った。
「そこだけ床の色が違ったんだよ。もしや前王朝のお宝が埋められているのかと思ってね。剥がして掘ってみたんだよ」
「何か、出てきましたか?」
震える声で尋ねると、女はついっと目を逸らした。
「いや、何もなかったさ」
再び視線を膝上の籠に落とし、籐を編みだすその女の指を見て、私は悲鳴を上げた。
急いで女に駆け寄る。
「その指輪を、どこで!?」
女は瞬時に左手を背の後ろに隠したが、私はその手首を力づくで取った。護衛たちも無言で協力してくれ、暴れる女の右手を封じる。
それは蔦が絡まる模様の刻まれた、黄金の円柱状の指輪だった。真ん中に紅く澄んだ楕円形の紅宝石がはめられている。
これは母の形見の指輪だ。
兄がずっと指につけていたものだ。
あまりの興奮に、私は我を忘れて叫んだ。
「これをどこで見つけたの!?」
「床下だよ」
護衛に押さえ込まれて、女は渋々のように答えた。
「どこの!?」
女はチッと舌打ちしてから、籐で塞いだ床を顎で指した。
「あたしが掘り出したんだ! あたしんもんだろっ」
弾かれたように背後を振り返る。
女の手首から手を離し、籐の床に向かう。
――この下に、一体何が!?
網目に指を入れ、両手で掴み上げると、土埃と一緒に籐の即席床が外れる。
その下には土が見えた。
土の臭いと、湿った空気が昇ってきて頰を掠める。
女は溜め息と共に言った。
「もうお宝は何もないさ。指輪以外は、骨しか埋まっていなかったよ」
――骨……?
全身の血の気が引く。
「その骨が、指輪をしていたの?」
「そうだけど、何か問題が? こんなとびきりの指輪を、埋めてしまうのは勿体ないだろ?」
震える腕を下に伸ばし、土に触れる。
床下の土は予想外に冷たく、固かった。
掘ろうとして、爪を立てる。
(何を掘ろうというんだろう? 誰を、掘り出そうっていうの……?)
私は震える腕を引き、膝の上で握り締めた。
――できない。
怖くて、とても出来ない。
でも私たちの母の形見の指輪をして、ここに隠すように埋められた人物は、一人しか考えられない。
視界がぐらぐらと揺れ、焦点が合わなくなる。
何かが頰を流れ落ち、喉に熱いものが込み上げる。
(ああ、俊熙。貴方が言っていたことは、本当だった。王太后の侍女は事実を話したんだ……)
私が心の支えにし続けた兄は、もう居なかった。
一生懸命心を込めて綴った手紙は、まったく兄に届いていなかった。
兄が私のもとに戻ることは、決してない。
全てを失った。
もう立ち上がる気力もない。
この先どうやって歩いていけばいいのだろう。
穴の前に呆然と座り込んでいると、女が言った。
「あんた、なんで泣いているんだい?」
「泣く?」
手で自分の頰を触れる。
そこは生温かい涙で、濡れていた。
そうだ、もう泣くのを我慢する必要はないんだ。
長い間あれほど我慢できていたはずの涙が、突然溢れて止まらない。
――どうしたって、兄は帰ってこない……。
全身から体力も精神力も抜け、穴の中に倒れ込んでしまいたいほどの絶望が襲う。
「珠蘭様、もう行きましょう。騒ぎになると困ります」
護衛の一人がそう言うと、どうにか私を立たせた。
女を振り返ると、彼女は指輪をした左手を右手で覆い、隠した。私に強奪されるとでも思ったのだろう。
女が指にはめていた指輪は、私にはもう何も価値がないように思えた。
私はゆっくりと目を離すと、感覚のない足を動かし、冷冷宮から出ていった。




