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【コミカライズ】その宦官は、王女を拾う  作者: 岡達 英茉
春帝国 亡国の王女の章
37/49

幕間 その宦官の、真実

 俊熙が華王国の王宮で働き始めたのは、まだ九歳の時だった。

 俊熙の母は春帝国の出身で、生家はそこそこ裕福だったらしいが、たまたま春帝国の帝都を訪れていた商人と恋に落ち、結婚した。その商人が俊熙の父であり、母は華王国で新婚生活を始めた。

 だが幸せは長続きせず、俊熙の父は若くして亡くなった。

 俊熙が下男として働くようになったのは、働き手を失い、困窮したからだ。




「お前はただの下男なんだから、間違っても王子王女様がたに話しかけるんじゃないよ」


 初めての王宮に足を踏み入れた日に、俊熙を案内する女官がそう言った。

 だがその王子と王女は、自ら近づいてきたのだった。

 王宮を歩いていると、突然何の前触れもなく、頭上から水が降ってきたのだ。

 咄嗟に何が起きたのか理解できないでいると、柔らかく温かいものがぶつかってきた。


「やだぁ、ごめんなさい! わざとじゃないのよ? お兄様と水遊びをしていて……!」


 それは両腕を伸ばして布で俊熙を懸命に拭く、小さな女の子だった。

 瞼の水滴を拭ってよく見れば、その子はとんでもなく着飾っていた。

 よく手入れされた艶やかな髪には、水晶の簪。

 耳飾りは繊細な金細工で、俊熙を拭いている布は絹の披帛だ。


「だ、大丈夫です。そんなに濡れてませんから」


 俊熙が身を引くと、女の子は笑った。


「よかったぁ」


 にっこりと可愛らしく笑うその笑顔に、一瞬俊熙は目が釘付けになった。


「お前、初めて見るわ。どこの子?」

「こちらで今日から働かせていただきます。蔡 俊熙と申します」

「俊熙。私は詩月よ」


 俊熙は目が転がり落ちるかと思うほど、驚いた。詩月とは、この国の王女の名前だったからだ。

 詩月はさっと後ろを振り返ると、そこにいた少年に言った。


「お兄様が、かけちゃったのよ。ちゃんと俊熙に謝って!」


 妹に急かされ、苦笑しつつ詫びたその少年が、この国の第一王子である慎王子だと知るのは少し後のことだった。




 その日から、詩月王女は俊熙を王宮内で見かけると、よく話しかけてくるようになった。

 俊熙が箒を片手に、庭園の掃き掃除をしていると、背後からとことこと歩いてきて、お喋りを始めるのだ。


「年の近い俊熙がきてくれて、嬉しいわ。ここにはきょうだいしか子どもがいないのよ。普通は、お友達っていうのがいるでしょう?」


 王宮にいる子どもは、王族だけだ。

 詩月王女はそれが不満だったらしい。


「私たち、お友達になれるかしら?」

「なれません。私は下男です。詩月様は本来、私が話しかけてすらいけないお方ですから」

「えっ、でも今話してるじゃないの」

「――掃除をしなければなりませんので、失礼致します」


 深くお辞儀をし、詩月を振り切るように背を向けて箒を動かす。

 落ち葉を集めることに精を出すと、背後から何やらガリガリと地面を掻く音がする。

 振り返ると詩月が熊手で落ち葉を集めている。


「何をなさっているのですか……?」


 恐る恐る尋ねる。


「手伝うわ! 早く終わらせて、遊びましょう!」


 俊熙は絶句した。

 心を鬼にしなければ拒絶できないほどの、満面の笑みで詩月は熊手を振り回した。





 詩月はほぼ毎日、俊熙につきまとった。

 彼を見つけると後をつけ、振り返ると至極嬉しそうに笑った。

 よく笑う詩月だったが、同時によく泣いた。

 彼女は母がいなかったため、他の王女たちが母と仲良く歩いている姿を見かけると、殿舎の陰でメソメソと涙を流していた。

 飼っている雀が死んでしまった時。

 他の王女たちから仲間はずれにされた時。

 詩月は目を袖で拭いながら、俊熙の前で泣いていた。

 そんな時、俊熙の心は酷く揺れた。


 転機が訪れたのは、国王が亡くなり、詩月の兄の慎王子が幽閉された時だ。

 詩月は端の宮に引越しを余儀なくされ、以後彼女は決して涙を見せなくなった。

 俊熙は王女と話し込み過ぎても誰かに怒られることもなくなり、詩月としばしば宮の北にある石庭で話し込んだ。

 成長するに従い、俊熙も身長が伸び、思春期に入った頃から、彼に妙に色目を使う侍女たちも増えた。

 彼がそうして他の者たちと仲良くしていると、詩月は少し悔しそうにするものだった。

 俊熙はやきもちを焼く詩月を見るのがなぜか快感だった。




 端の宮でひっそりと暮らす詩月だったが、運命は彼女を放っておかなかった。

 詩月に清雅国の国王との縁談が持ち上がったのだ。

 国王はなんと、八十代の爺だった。

 その決定に俊熙が口を挟む余地など、当然ながらなかった。

 近年にしては珍しく着飾った詩月が馬車に乗り、王宮を出て行く時。俊熙は怒りに似た激しい感情が沸き起こるのを感じた。

 王宮を出て、清雅国に近づくにつれ、その感情が嫉妬だと気づいた。

 そして気がついてしまうと、さらに苦しくなった。俊熙にはどうにも出来なかったからだ。

 彼には事態を変える力はなかった。

 彼はただ、まだ十三歳の詩月が結婚の意味すら分からずに嫁いでいくのを、近くで見ているしかなかった。清雅国に到着すると、もう気が変になりそうだった。

 だが天はそこまで詩月に残酷ではなかった。

 清雅国王が急死し、縁談はなくなったのだ。

 帰国の途上で、それまで強がって平静を装っていた詩月は、弱音を吐いた。

 縁談が立ち消えになり、安堵したのは詩月も同じだったのだ。

 その気持ちに触発され、俊熙は軽口をきいた。


「私が詩月様と結婚して差し上げますよ」と。


 冗談まじりに言った台詞だったが、半分、いやほとんど本気だった。

 詩月がもしこれを笑い飛ばしてくれていたら、事態は今とは随分違っていただろう。だが詩月は目を輝かせて喜んだ。

 その目の中の希望の光を見た時、俊熙の中で何かが変わった。

 詩月を自分が幸せにできる可能性は、皆無ではないと思った。


 そこからが本当に苦しかった。

 華王国への帰り道。

 一行は天幕をはり、下働きの者たちは皆で串焼きの魚を食べていた。そこへ詩月が現れ、魚を強請った。

 焼いただけの魚に美味しそうに詩月がかぶりつく時、俊熙は屈辱すら感じた。

 自分が恋する少女に上げられる今最大のものが、ちっぽけな魚なのだ。

 それに気づかされるのは、あまりに情けなく、虚しかった。

 詩月が可愛らしい唇を手の甲で拭うのを見て、そこに口付けたい衝動をどうにか抑えた。

 そして、きっとこのままでは、また彼女を誰かに奪われるだけだと悟った。



 そんな頃、母が亡くなり、春帝国に住む叔母が俊熙を引き取りたいと言ってくれた。

 叔母の家は裕福で、親族が義塾を営んでいるのだという。そこに通い、官吏を目指すという、新たな道が俊熙に開けた。そこで出世をすれば、いつか詩月を迎えに来られるような人間になれるかもしれない……。


 一方で詩月の願いは、冷冷宮に幽閉されている兄が解放され、共に暮らすことだった。

 その未来を俊熙が奪うわけにはいかない。

 だから俊熙は慎王子について、密かに調べた。

 勿論容易ではなく、長い時間をかけ、最終的には自分の恵まれた容姿を最大限に利用した。

 皇太后の侍女と、寝たのだ。

 そうするしか、当時の彼には真実に辿り着く道がなかった。

 そして真実はあまりに残酷で、それを掴むためにした行為も彼自身を罪悪感と嫌悪感でいっぱいにし、苛んだ。

 偽りの気持ちを告げ、好意の欠片もない侍女に口づけ、彼女の信頼を得たいが為に、ついには寝台を共にした。

 王太后への憎しみや自己嫌悪、それと相反する達成感が胸中を複雑に渦巻く中、端の宮の石庭まで行き、詩月に会いに行った。

 詩月は月の宴で観た、舞の話をした。


「うっとりするくらい、素晴らしい舞だったの!」


 詩月の純粋無垢さが、俊熙を打ちのめした。

 汚れた自分に気づかれるのが怖く、距離を取った。

 宴で見た天女の舞を再現する詩月は、俊熙にとっては天女などより美しかった。

 その舞で彼の汚れた罪が、浄化されていく気さえした。

 慎王子は、詩月と引き離され、冷冷宮に連れてこられたその日の内に、絞殺されていた。

 だが、それを告げることは到底できない。

 彼女の幸せがもうこの国にはないことだけは、はっきりしたのだ。

 俊熙が進むべき道は、春帝国にあった。

 だから彼は、生まれ育った華王国を出て、春帝国に行った。




 義塾での勉強は過酷だった。

 けれども叔母は本当の息子のように接してくれ、俊熙の勉強に全面的に協力をしてくれた。

 そんな叔母は四年前に亡くなり、そこからはまさに臥薪嘗胆といった勉強漬けの毎日が続いた。


 日の出とともに起床し、勉強を始める。

 食事の時も、教科書は離さない。

 義塾への往復の際も、頭の中では論文の組立てを考える。

 起きている間のほぼ全ての時間を、科挙対策に費やした。

 迎えた試験では、初めて受けた科挙にも関わらず、順調に各試験を合格していき、州ごとに行われる郷試を経て、中央で受けた省試を首席で合格した。

 最後の試験は、殿試である。

 宮城内で皇帝の立会いのもと、実施される。


 殿試の問題は、実に簡潔だった。

「皇帝への権力集中と官僚機構の完備の両立について、論じよ」

 筆を持つ俊熙の手が思わず止まった。

 これから官吏となり、朝廷で働く一員になろうというのに、どの立ち位置からこの論文を展開すれば良いのか。

 隣の席の受験生は、スラスラと勢いよく回答を練習紙に書き連ね始めていた。

 その姿に焦らされるが、やがて隣の受験生は急に頭を抱えると、用紙を塗り潰し、筆を止めてしまった。

 落ち着いて考えなければならない、と俊熙は己に言い聞かせた。




 皇帝は殿試の全ての回答に目を通す。

 受験生の名前は回答用紙に記入されず、数字で管理する。

 試験後数日間かけて三十人ほどの受験生の答案一枚一枚に丁寧に目を通し、ある論文に惹きつけられた。

 その内容たるや、非常に急進的で実際に実施するとなればかなりの反対に合いそうなものだった。

 にもかかわらず、書き連ねられた文字は徹頭徹尾美しく、芸術的であった。

 一点の墨汚れもない。

 皇帝は全ての答案を読み終えると、試験官に命じた。


「十五番を書いた受験生を、ここへ呼べ」


 この答案を書いた者を、見てみたかった。




 俊熙は予想もしない呼び出しに驚いた。

 殿試には皇帝との面接など、ないはずだ。

 採点が終わるまで、受験生達は皆宮城内にとどまる習わしになっていた。

 それに自分以外は皇帝に呼び出された様子がなかった。



 皇帝は殿舎の中の小さな一室にいた。

 卓に俊熙の答案を載せ、椅子に深く腰掛けて俊熙を待った。

 俊熙は皇帝の卓の前まで頭を下げたまま歩くと、両手を組み、ゆっくりと顔を上げた。

 俊熙の顔を見た皇帝はかなり驚いた。想像以上に若かったことと、その美貌にしばし言葉を失った。

 匠が寸分の狂いもなく美しく彫り上げたような頰の輪郭と鼻筋。肌は石英のように滑らかだ。

 皇帝を直接見てはいけない、との配慮からか視線は少し俯き気味で、その為に憂いを帯びて見える漆黒の瞳がまた、格別に綺麗だと思った。

 皇帝はまず世間話と労いから会話を始めた。


「長い試験だっただろう? ご苦労だった。そなた、出身はどこの州だ?」

「生まれは華王国でございます。現在は帝都におります」


 それは意外な答えだった。

 そしてこの男は声まで美しいな、と感心した。

 皇帝は首を傾けて尋ねた。


「そなたは、なぜ官吏を目指した?」


 志望動機を聞かれ、俊熙は淀みなく答えた。

 国のために働きたかったことや、官吏として何をしたいかを。それは省試で既に面接官から聞かれたことであった。

 皇帝は全く表情を動かさずにそれを聞いた。

 俊熙が話し終えると、皇帝はやや退屈した様子で、顎まわりをかいた。


「そのような、建前は聞いてはおらぬ。――ここには余しかおらぬ。そなたの人となりを見せてくれ。そなたが最も欲しいのは、名声か? 地位か? それとも、財産か?」


 俊熙は束の間答えに窮した。

 皇帝の質問の真意をはかりかねた。

 だが小さく息を吐くと、口を開いた。


「結婚したい女性がいます」


 皇帝はつぶらな目を見開き、卓の上に身を乗り出した。

 それはかなり意外すぎる回答だったのだ。

 どう見ても女になど苦労しなそうなこの若者が、結婚の為に科挙を?

 

「省試に合格したとあらば、引く手数多であろう」

「いいえ。それだけでは、到底その女性に釣り合わないのです」

「よほど金持ちの貴族の娘か?」


 皇帝の興味は急速に膨らんだ。

 どんな娘なのだろう、と。


「違いますが、似たようなものです」

「帝都にいる娘か?」

「いいえ。華王国にいます」

「なんと。では滅多に会えぬではないか。――しかし、いくら殿試を首席合格しようとも、官吏が出世をするのはおおよそ三年ごとだぞ。その間にその娘も嫁いでしまうのではないか?」


 皇帝は言葉を切ってから、続けた。


「それに、華王国と黒龍国には今、きな臭い空気が漂っている。近いうち、大きな戦が始まるかもしれぬ」


 華王国の娘と結婚したいのなら、国が混乱する前に迎えに行かねば、どうなってしまうか分からない。

 皇帝は少し考え込んでから質問をした。


「そなたはたとえばその女性を手に入れられるのならば、一時的に不名誉な仕事をしなくてはならなくても、耐えられるか?」

「勿論でございます」


 皇帝は視線を手元の机上の回答用紙に落とした。

 そこには非常に興味深い内容が書かれていた。

 貴族による世襲の官吏登用制度を廃止し、流内官については科挙合格者からのみ、採用すべきである。

 科挙受験者の層を固定化しないため、州ごとに義塾を設置すること。

 実現できたならば、後世に高く評価される大改革となるだろう。これは統治の仕組みを変える一大転換期となる。

 俊熙は皇帝が見下ろしているのが自分の回答書だと、やっと気づいた。

 その直後、皇帝は立ち上がった。

 そうして俊熙の回答用紙の端を左手で持ち、高く掲げた。

 折り畳み式の長い用紙が広がり、終わりの方は木の床についている。

 起立した皇帝の持つ、どこか王者然とした雰囲気に気圧され、俊熙は微かにあとずさる。

 皇帝は低く、だがしっかりとした声で言った。


「蔡 俊熙。このような論をよくも展開出来たものだ」


 俊熙は困惑した。

 この言われようでは褒められたのか、叱責されたのか、どちらか分からない。


「そなたは本当にこれを実現すべきだと思うのか?」


 どう論評されようと、既にこれが俊熙の回答だ。

 書いてしまった以上、「はい」と答えるしかない。

 すると皇帝は右手を回答用紙の上端に掛けた。そうして用紙をつまみ、そのまま下へと一気に手を下ろし、回答用紙を大きく引き裂いた。

 その瞬間、俊熙は自分自身が破かれたような思いがした。

 恐怖で頭の中が一気に真っ白になり、彼は急いで両手を胸の前に組み直し、その場に膝をついた。


「陛下、ご無礼をお許しください」


 深く深く、頭を下げる。

 自分が書いてしまった答案は、批判的過ぎたのだ。皇帝の怒りを買ってしまった。

 裂かれた答案用紙は台紙から剥がれ、その端が無残に床に転がった。

 それを視界の隅に捉えながら、俊熙は湧き上がる絶望感に打ちのめされた。

 全てが、終わった。そう思った。

 科挙試験の為に積み重ねたあらゆる努力が、この瞬間無駄になった。


 近づいたと思った詩月王女が、遠ざかるのを感じた。

 皇帝は震え上がる俊熙の正面まで歩いてきた。


「なぜ、詫びる。素晴らしい答案だ。――だが、今の春帝国では、いや、余の治世では目下、時期尚早なのだ」


 俊熙はどういうことか、と首をひねりながら顔を上げた。


「知っているであろう。春帝国には、陰で余の上に立ち、国を操る者がいる。――後宮にいる恐ろしい蛇だ」


 皇太后のことだ、と俊熙にも分かった。

 勿論、それを言葉にするほど愚かではない。


「余は蛇を近い将来、退治するつもりでいる。そなたには力を貸して欲しい」


 答案を破かれ、どう手伝えと言うのか。

 俊熙の疑問に皇帝は答える。


「余の側近となれば、吏部ではなく余の裁量でそなたに地位と役職を与えられる。――そなたは宦官になれ」


 俊熙は指先から冷えていくのを感じた。

 それはあまりに恐ろしい命令だった。

 宦官になどなってしまえば、詩月を迎えに行くことができない。

 華王国には宦官がいない。

 去勢された男など、一体どんな目で見られるか。

 宦官となった自分を彼女の前に晒さなければならないくらいなら、二度と会わない方がましだ。


「陛下、それだけはお許しを……!」

「何も本当に手術しろと言っているのではない」

「……はい?」

「フリをすればいい。宮城に巣食う蛇とその仲間どもを一掃した暁には、堂々と吏部採用の官吏となるがいい。余が保証しよう」


 皇帝は俊熙の前にかがみ、片膝をついた。


「宦官となれば、給金は弾む。すぐにでも余の侍従として取り立てる。――その娘を迎えに行く、最短の道であろう?」


 正攻法では、到達し得ない目標。実現不可能な夢かもしれない。

 皇帝は大なたを振るうつもりなのだ。

 その手始めに、俊熙に劇薬を飲ませようというのだ。

 遠ざかった詩月へと繋がる道が、おかしな方向からではあるが微かに見えた気がした。

 俊熙の脳裏に、月夜に舞う詩月の姿が蘇る。

 美しかった。

 どんな美女も霞むほど、俊熙には美しく思えた。

 もう三年以上会っていない。

 もしや既に自分のことを忘れ、ほかに親しい男ができているかもしれない。

 悔しさと焦りが、俊熙の背中を押した。


「陛下。私でよろしければ、是非お役立て下さいませ」





 この数日後、宮城内で科挙の合格発表が行われた。宣制官が合格者の名前を高らかに唱名し、成績順にその氏名と官吏としての初めての役職を読み上げるのだ。

 だがその中に、俊熙の名はなかった。

 代わりに彼は紺色の宦官服に身を包み、皇帝の隣に仕えた。

 そうして怒涛の勢いで宦官としての地位を昇りつめていき、同時に財をためた。

 荘園を経営し、桑や麻などの栽培も行った。たとえいつか宮城を放逐されても、詩月を迎えて暮らしていけるだけの保険をかけたかったのだ。


 だが、予定外の事態が起きた。

 皇帝や俊熙の予想より早く、華王国が衰退した。

 華王国が黒龍国に攻め入られ、存亡の危機に陥ったのだ。

 計画半ばにして、俊熙は詩月を迎えに行かざるを得なかった。

 この頃になると、皇帝も俊熙の愛しい娘が華王国の王女だと悟っていた。

 だから休暇を申請された時も、深く追及せず承認したのだ。



 詩月は死にかけていた。

 泥で汚れ、森に横たわる女が詩月だと気づいた時、俊熙は怒りと焦り、だがそれを上回る安堵で胸を撫で下ろした。


 詩月がかつて俊熙と交換した木の環飾りを見せてくれた時、どれほど嬉しかったか。だが、同時にこれから自分が宦官だと打ち明けることが、かえって恐ろしくなった。


 詩月に宦官として宮城に仕えていると教えるのは、勇気が必要だった。

 彼女はほんの少し動揺したけれども、直向きな目を相変わらず俊熙に向けてくれた。

 彼女と迎えた新年は、想像以上の幸福感を彼にもたらした。

 二人で爆竹を眺め、酒を飲み、長寿を願う飴を食べ――。まるで新婚の夫婦のような、甘酸っぱい時間を過ごした。

 我慢できずに唇を奪ってしまうと、それ以上を求める気持ちが溢れた。

 その衝動を無理やり抑える為に、俊熙は寝たふりをするしかなかった。


「俊熙、貴方が好き」


 目を瞑る彼に、詩月が呟いた一言が、どれほど甘美だったか。

 だが好きなどという言葉は生ぬるい。

 詩月が思う以上に、俊熙は彼女を強く想っているのだと、伝えたい。


 夜の三聖堂――皇帝の私的な書斎で俊熙がそう吐露すると、皇帝は苦笑した。


「気持ちは分かるが、まぁ待て。あと一歩で蛇を落とせる。そうすれば、そなたはその宦官服を脱ぎ、望むものを手に入れられるだろう」






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