禁軍の出兵
「華王国の王女様とは知らず、とんだご無礼を……」
「違うの、そんなつもりじゃないの! お願いだから、忘れて……」
私が王女だという話は、温泉宮から帰るなり瞬く間に後宮に広まってしまった。
晶賢妃の指示で私は相部屋を追い出され、安桃宮の中に専用の部屋を与えられてしまった。
「追って皇帝陛下からなんらかの沙汰があるはずです。それまでは、こちらでお過ごし下さい。何かいりようなものは?」
部屋の中に茶菓子を持ってきて、晶賢妃が私に尋ねる。
「晶賢妃様、私はこんなことをしていただく立場にはありません! そもそも私の国はもう…」
すると晶賢妃は素早く首を左右に振り、私に続きを言わせない。
「山西州からの帰路を、皇帝陛下が切り抜けられたのは、詩月様のお陰です」
困った。
文字通り、頭を抱えてしまう。
こんなつもりではなかった。
旅から戻ったばかりで、今麗質たち女官も忙しいはずなのだ。こんな時に明天殿に行けず、仕事を手伝えなくて、申し訳ない。
晶賢妃はなんとしても私に女官の仕事をさせまい、としたのでなかなか部屋から出られなかった。
やっと晶賢妃が自分の部屋に帰ると、今度は入れ替わるように俊熙が現れた。
いつもの宦官服ではなく、裾の短い袍を着ている。腰に剣をさし、まるで禁軍の兵士のようだ。
服装について私が何を尋ねる間もなく、俊熙は部屋に入るなり、突然私を抱き締めた。
そのあまりの強さに、ほんの少し恐怖すら感じる。
私が彼に断りなく華王国の王女だと名乗ってしまったことを、怒っているのかもしれない。彼は私を従姉妹と偽って女官にしたのだから。
「俊熙、怒ってる? 貴方の立場も考えず…」
「違います。間もなく宮城を発ちますので、ご挨拶に伺いました」
ここを出る?
私が身じろぐと俊熙は身体をそっと離した。
「私は今から平雲州に向かいます」
「劉氏を捕まえにいくの?」
武装した俊熙を、頭のてっぺんから爪先まで見つめる。
「劉 宇航は多数の私兵を抱えています。平雲州軍を使って抵抗する可能性もあります」
だからこんな格好をしているのだ。甲冑を着ているのは、身の危険があるからだ。
たとえば矢が飛んできたり、槍を刺されるような。
想像するだけで、指先が震える。
「どうして貴方が行くの? 宦官なのに」
宦官は基本的に妃嬪たちや皇帝の、身の回りの世話をする為の存在だったはずだ。
勿論、皇帝との距離が近いという利点をいかし、それ以上の役職を手に入れた宦官たちは、歴史上も少なからずいたのだが。
声を震わせて問うと、俊熙は落ち着いた表情と静かな声で言った。
「私は、宦官ではありません」
「えっ……」
「帝都に貴女をお連れした時に、申し上げたでしょう。私は何も変わっていない、と」
「どういうこと、詳しく説明して」
俊熙は腰帯にむすびつけていた環飾りを外すと、私に差し出した。
とろみのある赤と橙色のそれは、瑪瑙の玉環だ。
私が華王国で彼と別れた時に、手渡したものだ。
「説明は後で致します。必ず戻りますから、この玉環を持っていて下さい」
受け取れない。持っていてほしいからだ。
私は頭を振った。
「危ないなら行かないで。なぜ貴方が行かないといけないの?」
「皇太后は落としました。残る劉 宇航を捕らえれば、この三年に及んだ皇帝陛下の計画が、結実します。この春帝国の政治が本来あるべき姿に――いえ、それ以上になります」
「皇帝が権力を取り戻して、力を持ちすぎた貴族を宮廷から追い出すこと?」
俊熙は私の右手を取った。
「私にとっては、それだけではありません」
そうして俊熙は私の手のひらに瑪瑙の玉環を押し付けてきた。
「戻るまで、お持ち下さい」
受け取らざるを得ない。
その冷んやりと滑らかな手触りの玉環を、右手で握り締める。
無意識に片手で自分の帯を辿り、そこからぶら下がる環飾りを外す。右手には瑪瑙、左手には木の環飾り。
これは十四歳の時に、俊熙と交換したものだ。
私は木の環飾りを外し、俊熙に差し出した。
「じゃあこっちを代わりに持って行って。六年間使っていたから、もう私のものよ」
俊熙は無言で受け取り、それを自分の帯に結びつけた。
俊熙は優しく微笑むと、私の顔を覗き込み、一転して真面目な眼差しで私を見つめた。
そうして私の両手を優しく取る。
「慎殿下について、お話がございます」
「何?」
「よろしいですか、どうか心を落ち着けて聞いて下さい」
俊熙の美しい漆黒の瞳が、やや険しさを帯びて私に向けられている。何か言いにくいことを言おうとしているのは、分かった。
改まって、どうしたのだろう。
俊熙は小さく深呼吸をしてから、口を開いた。
「華王国を倒した魏 子豪率いる新政府に対して、自分が慎王子だと名乗り上げている人物は、本物の慎殿下ではありません」
「ええ。分かっているわ。お兄様はそんなこと、しないもの」
俊熙は無言で私を見つめていた。
一度目を閉じ、再び大きく開くと、噛みしめるようにゆっくりとした調子で言った。
「詩月様には……、どうしても今までお教えすることができませんでした。――慎殿下は、もう随分前に殺されています」
しばらくの間、俊熙が何を言おうとしているのか、まったく分からなかった。
理解すると、気が動転しそうになった。
「何、言ってるの。そんなはずがないでしょう」
兄は冷冷宮に幽閉されていた。殺されたなんて、そんな話聞いたことがない。
「恐らく勇殿下の母親――王太后が、人知れず殺したのです。きっと国王すらこのことをご存知なかった」
「でも、」
反論しようとすると、俊熙が私の手をきつく握りしめ、言葉を被せる。
「詩月様はお父上――先代の国王が亡くなられた後、兄君と何度お会いになられました?」
「知っているでしょう? 面会は一度も許されなかったわ。文通はしていたけれど。なぜそんなことを?」
「不思議なことに、華王国の王宮の誰も慎王子のお姿を見ていなかったのですよ」
ぞくりと全身が総毛立つ。
でも、兄は幽閉されていたのだから、別におかしな話ではない。
限られたごく一部の者しか、見られる立場になかったのだ。
「私は華王国を発つ前に、長い時間をかけて調べたのです。冷冷宮の近くで働く女官だけでなく、宮の掃除を担当する下級の侍女にも尋ねたのですが、結果は同じでした」
私たちは暫し無言で見つめあった。
「王太后は慎殿下に生きていてほしくなかったのです。詩月様に届いた手紙は筆跡を真似て、ねつ造されたものでしょう」
そんなの嘘だ、信じない!
「お兄様は私のもとに戻ると約束なさったもの。それに、王太后だって、流石にそんな残酷なことをしないはずよ」
「権力は人を変えます。王太后には子の為なら、邪魔者を葬ることなど、造作もなかったでしょう。慎王子の存在は、勇王子には脅威でしかなかった」
そこは否定しづらかった。なぜなら実際に華王国が滅び、兄を神輿に担いだ新政府が「新華王国」を名乗っているのだから。
「だけど誰も会っていないからって、殺されたことにはならないわ」
「――私は王太后の侍女から詳細を聞いたのです」
「それは本当の話なの? 侍女がそれほど大変な話を、俊熙にしてしまうなんてあり得る?」
「私も……色々と……工夫をして聞き出すことに成功したのです」
「工夫って? どうやって聞き出したの?」
「それは……申し上げたくありません」
俊熙の瞳がなぜか逃げるように私から逸らされる。
侍女の話は疑わしい。
そう言いたかったが、或いはそれが真実かもしれないとも思えた。
あの日、華王国を脱出した時に見た冷冷宮の内部の様子が、思い出された。
埃だらけで、人が住んでいたとは思えなかった……。
私は首を強く左右に振った。
「うそよ。違う……!」
――きっと、掃除が行き届いていなかっただけだ。
兄が、殺されていたなんて、断じて認められない……!!
絶句する私に俊熙は言った。
「ですから、今後兄君に会いに華王国に戻ろうとは、なさらないでください」
「……どうしてそれを今言うの?」
まるでこれが最後になるかもしれないから、私に伝えているように聞こえてしまうではないか。
「ずっとお伝えしたいとは思っておりました。ただ、今がその時だっただけです」
「貴方はいつ、そんな話を侍女から聞いたの?」
「六年前に。王宮で月の宴があった日です」
月の宴。
月明かりを浴びて、舞台の上で天女が舞っている光景が瞼の裏によみがえる。
私が俊熙の為にちまきを持ち帰り、石庭で彼を待っていた日。
あの日に、俊熙は兄の事を聞き出していたというのか。
きっと俊熙が王太后の侍女に騙されただけだ。
そう思って俯いていると、俊熙が珍しく少し掠れた低い声で言った。
「外廷に戻ります。私が戻るまで、大人しくお過ごし下さい」
混乱のあまり、目が上げられなかった。
言葉も出てこない。
すると俊熙が私のあご先に触れ、上向かされた。
「出発前に一度だけ、口付けてもよろしいでしょうか?」
何も考えられないうちに、俊熙の顔がぐっと近くに迫り、彼の唇が私の頰に押し付けられる。
俊熙は何も変わっていない、と言ったけれど、下男として私に仕えていた頃は、こんなことは絶対にしなかった。
唇が離されると、私は呟いた。
「俊熙は、やっぱり少し変わったわ。戻ったら、あなたとゆっくり話す時間が欲しい」
「いくらでもお話し致します」
俊熙は私の肩を抱き寄せ、今度は額に唇を押し付けてきた。柔らかな唇が、少しくすぐったい。
私は離れていく彼の腕を掴んだ。
「お願い俊熙、行かないで」
言っても無駄だと知っていたが、言わずにはいられない。
俊熙は力強く私を見つめたまま言った。
「必ず劉 宇航を討ち取り、戻って参ります。――そうすれば全てが終わり、私も落ち着けます」
俊熙の顔が再び迫り、動く間もなく唇を奪われた。
一度離れた唇が、再び押し付けられる。
角度を二、三回変えた唇が、やっと離れる。
「一度だけって言ったくせに」
「詩月様があまりにお可愛いらしくて、つい」
私をからかうように笑うと、俊熙は背中を向けて出て行った。
私はしばらく自分の唇を押さえたまま、棒立ちになった。
俊熙はどうしてこういうことをするのか、言ってくれない。私の気持ちは今も、昔も変わっていないのに。
俊熙が戻ったら、私が彼をどれほど大切に思っているかを、伝えよう。
そして、彼の気持ちを知りたい。
俊熙を見送ると、私は荷物をひっくり返して兄からの手紙を探した。
横長の紙を蛇腹に折り畳んだその一通一通を開き、見比べる。どれも流れるような筆跡で、見慣れた兄のものだ。
兄はとても上品な字を書くものだった。離れてみても均整の取れたその字体と筆跡は、兄の内面のように澄んで美しい。
これを赤の他人が真似をして書いたとは、到底思えない。いや、思いたくない。
手紙を広げて座り込んでいると、今度は黄貴妃がやって来た。
私たちからは遅れて宮城に戻った貴妃は、誰かから温泉宮からの帰り道に、皇帝一行に起きた出来事の一部始終を聞いたらしく、私が雨の中二胡を弾いたことに対し、涙を流して礼を言った。
「どうかお立ち下さい。お腹の御子に障りましょう」
貴妃が屈むと、大きなお腹が苦しそうだった。
それに本音を言えば、私は皇帝や貴妃たちの為に名乗り上げたのではない。
私は俊熙を守りたかったのだ。
貴妃と語り合っていると、急に外が騒がしくなった。
何事かと宮を出て外にかけ出ると、微かに銅鑼が打ち鳴らされる音が聞こえる。外廷の方角からだ。
女官達が大和門の方に走り出し、近くの殿舎の上階に登って窓から外廷の方角を見つめ、指を指している。
流れに釣られるように、私も殿舎の望楼の階段を駆け上がった。
天辺に辿り着くと、そこは女官や妃嬪たちで溢れていた。私も空いているところを見つけ、望楼の欄干に身を乗りだす。
銀色の甲冑を身につけた兵士たちが、太極殿の前に勢揃いしているのが見える。
広い前庭を埋め尽くすその人数たるや、錚々たるものだ。
まるで戦が始まるみたい、と誰かが叫ぶ。
兵士たちの掲げる紫色の旗が、風に激しく靡いている。
すると近くの女官が言った。
「あれは、神策軍の旗よ。左右両軍で行くらしいわ」
ぎくり、と胸が鳴る。
俊熙は呉門下侍中を摘発する際、三つある禁軍のうち、神策軍の左軍にいた。
俊熙はきっと、あの中にいる。
探そうとするが、流石に暗くて顔までは判別できない。
その時だった。
外から、地を揺するような雄叫びが聞こえた。
「禁軍に続けぇぇぇぇ!」
その轟音に腕の鳥肌が立ち、反射的に自分の二の腕を抱いてしまう。
外廷のあちこちから緑色の旗が上がる。翡翠の羽を使った、翠華だ。
私の隣に立つ花琳が、あっと口を塞いだ。
「珠蘭! あそこ! あそこに蔡侍従がいるわ!」
花琳の指先を視察で辿る。
目を凝らすと、一際翠華が密集して立つ辺りに、見慣れた人影があった。
「俊熙!」
太極殿の殿舎の近くに、俊熙はいた。左右に軍旗を掲げる騎士に挟まれ、揺れる旗で時折顔が見え隠れする。
兵士たちに囲まれ、彼自身も騎乗している。おまけに、甲冑を身につけている。昼下がりの強い日差しが甲冑を反射し、他の兵士たち同様、眩い光を辺りに撒き散らしている。
腰に帯剣している上、矢を入れた籠を背負っている。
心臓が激しく動悸する。
俊熙が兵たちと平雲州に行ってしまう。
危ない目に遭うかもしれない。
兵士達の家族は、いつもこんな葛藤や苦痛と戦っているのだろうか。
号令と共に兵士たちが駆け出していく。
一斉に進むその様は、まるで人の川が流れていくようだった。




