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【コミカライズ】その宦官は、王女を拾う  作者: 岡達 英茉
春帝国 亡国の王女の章
34/49

皇帝の逆襲

 雨が鬱陶しく降る音を聞いた。


(簾を早く下ろしなさいな。中に雨が入ってくるではないの)


 のろまな侍女に苛立ち、皇太后は手にしていた茶器を卓に乱暴に戻す。

 ガチャン、とやや大きな音がして、弾かれたように侍女が傍までやってくる。


「皇太后陛下、いかがなさいました?」

「雨が吹き込むではないの」


 皇太后がそう指摘すると、侍女は顔色をさっと変えて窓辺に向かった。

 手元の茶菓子を見下ろす。

 飴細工でできたお気に入りの菓子、雲海菓だ。

 だが今日はちっとも美味しいと思えない。

 皇太后は菓子が乗る磁器の皿を指先で押しのけると、長い溜め息をついた。

 本来なら昨夜のうちに、良い報せがもたらされるはずだった。

 黄貴妃が溺死した、という報告が。

 ところが報せは舞い込んで来ず、皇太后は計画の失敗を知った。

 そうなればやることは一つしかない。

 ――計画が少し早まっただけだ。

 皇太后の実家は隣国に武器を輸出して、荒稼ぎしていた。その顧客の中に、華王国で内乱を起こした魏 子豪もいたのだ。まさかあの男がそんな大それたことをするとは思ってもいなかった。

 内乱を二度も起こした後、新政府などというものを樹立したと知った時は、正直なところかなり焦った。

 だがこの状況を逆手に取るのだ。

 彼の筆跡を真似、印鑑を偽造するのは簡単だった。皇太后はそれを利用し、皇帝を廃位に追い込む算段だった。


 子どもの頃は皇太后の意のままに動いた皇帝も、最近は皇太后の存在を疎ましく思い始めているようだった。 皇太后の傀儡(かいらい)でなくなった皇帝など、最早彼女にとっては邪魔なだけであり、価値がない。

 誤算だったのは、皇帝が不正を働く官吏の糾弾を始めたことだ。


(まったく、余計なことを――)


 皇太后は苛立ち、眉根を寄せた。だが急いで表情を緩め、眉間を擦る。

 皺は美貌の大敵だ。

 いつのまにか侍女がまた茶を注いでいた。

 その茶を喉に流し込む。


 皇太后の今の最大の目標は、姪の徳妃の皇子を次の皇帝にすることだ。

 皇帝は以前、皇太后の親戚が犯した罪に関して、大甘の処理しかできなかった。だからすっかり油断していた。

 このまま姪の徳妃の皇子が次の皇帝になるのを、待つわけにはいかない。そもそも皇帝が徳妃の皇子を皇太子に選ばない可能性すら出てきた。


 皇太后は雨の音に耳を傾けた。

 先代の皇帝であった、自分の夫との婚儀の日も、雨が降っていた。

 季節は晩冬で、ほとんど葉の落ちた木の枝が、雨に濡れて寒々しく見えたものだ。侍女は天気のことを残念だと言ったが、皇太后は艶めかしく輝く濡れた枝を、風流だと感じた。

 皇太后はあの日、慣例通り大きな扇で顔を隠して宮城にやってきた。己の野心と権力欲を、扇の裏に必死に隠した。


 自分の美貌には自信があった。

 皇太后は幼い頃から、父母から皇后になれと言われて成長した。

 皇后になるのは彼女が背負った期待であり、いつしか彼女自身の人生の目標になった。

 だが、現実は思うようにいかなかった。

 皇太后には子ができず、彼女の夫である当時の皇帝は、別の妃を皇后に冊立した。

 幸運だったのは、皇太子を生んで間もなく皇后が亡くなったことだ。

 その結果、玉突きで皇后に格上げされ、皇帝が若くして亡くなると皇太后となり、まだ幼い皇帝に代わり、実権を掌握することができた。


 後宮は一生を過ごすには、狭過ぎる。

 そこに押し込められた妃嬪たちが、閉塞感を感じないよう、宮城で最も高い望楼が大和門の近くにある。

 妃嬪たちはまるで、鳥かごの中の鳥たちが外を懐かしがるかのように、しばしば望楼から外を眺めていた。

 しかし皇太后は、己の到達した地位の高さを確認する為に、そこに登った。

 望楼から見下ろす景色は清々しいほどに圧巻だった。

 ここに登れば、外廷の百官だけでなく、皇帝すらも見下ろせるのだ。


(のぼり詰めたこの地位を、譲るものか)


 ぎりり、と歯を食いしばって室内を見渡す。

 皇太后の広い部屋には、各地から上納された名産品で溢れている。

 象牙で彫られた四霊獣の像や、玉を飾り付けた七色に輝くような燭台。

 山々や砂漠を越えた遥か遠い異国から運ばれてきた、縞模様の毛皮の敷物。

 何一つ、手放す気はない。


 ――そろそろ皇帝が温泉宮から戻るだろう。


 皇太后は腰を上げた。口の端を歪め、薄く笑う。

 皇帝は山西州の州軍に連行されているはずだ。

 宮城に戻ったら太医に皇帝を診断させ、病だと言わせるのだ。

 そうしてさっさと表舞台から下ろすのだ。

 皇太后は弾みをつけて宮の階段をおり、宮の外へ出た。

 彼女が濡れないよう、大きな傘をさした侍女が、必死についてくる。

 後宮を縦断し大和門までやってくると、門番は最敬礼をしてから、皇太后の為に門を開けた。

 時刻は昼過ぎだった。


 外廷を縦断し、太極殿に到着した皇太后は少なからず驚いた。

 既に皇帝が宮城に帰着していたのか、太極殿に人が溢れ、勢揃いした百官の列が外にまで伸びているではないか。


(州軍は、何をしていたの?)


 皇太后は事態が飲み込めず、苛立った。

 皇太后が現れると、百官はまるで彼女を待ちわびていたかのように、道をあけた。

 白い基壇の中央にある階段を上り、太極殿の中に足を踏み入れる。

 官吏たちは玉座までの道のりの左右に並び立ち、一直線に開かれたその真ん中を皇太后が進む。

 その先にある玉座には、皇帝が座っていた。

 その彫りの深い大きな瞳には、特段何の感情も窺えない。

 皇帝は玉座をおり、皇太后の方へ歩き始めた。

 やがて二人が太極殿の中程で顔を突き合わせると、皇帝から口を開いた。


「ただいま温泉宮より、戻りました」

「随分お早いお帰りだこと」

「お渡ししたい物がありまして」


 そう言うと皇帝は微笑んだ。穏やかな笑みに見える。

 そうして皇帝は軽く握った右手を差し出すと、皇太后に手を出すよう促した。

 皇帝の拳が開き、指の間から何やら褐色の小さな粒が数個、皇太后の掌に落ちる。

 歪な半円型の、深い皺のあるものだった。

 目を寄せて観察すると、何か植物の種子のようだ。

 皇帝が言う。


「それは後宮の御膳房で働いていた者が、屑篭(くずかご)から見つけたものです」


 皇太后は首を傾げた。

 屑篭から?

 手の上の種子が急に汚らしいものに見え、顔から遠ざける。


「何なのじゃ、これは?」


 皇帝が何をしたいのか、分からない。


「良くご存知のはずでは? 元はと言えばそれは、二年前に貴女が入手したものですから」


 皇太后は眉根を寄せ、慌てて額の緊張を解く。

 どんな時も、美容には気をつけている。

 不可解そうに黙る皇太后に対し、皇帝が続ける。


「これは二年前、貴女が第一皇子を毒殺する為に食事に混入させた実の種子ですよ」


 ハッ、と皇太后は声を出して笑った。


「何を……、世迷いごとを! ――毒殺?あれは、病死だと診断されたではないか」

「それこそが偽りだと、貴女が一番よくご存知だったはずです。――その量を二歳の幼子が食べれば、ただでは済まないと、お分りだったでしょう?」

「何を戯けたことを」

「貴女が摘んできたものです」

「そんなはずがなかろう! 私が毒空木(どくうつぎ)の実を、どうやって…」


 皇太后は口を噤んだ。

 一転して皇帝は口角を大きく上げ、凄絶な笑みを見せた。

 睫毛の長いその黒い瞳が怒りで染まり、爛々と皇太后を見下ろす。


「なぜ、皇子が盛られた毒が、毒空木だったとご存知なのです?」


 皇太后は焦りそうになりながらも、なんとか切り抜けようと足掻く。


「この種子を見て言っただけじゃ。この形を見れば…」

「それは潰した杏仁の殻ですよ?」


 褐色の粒を乗せた手が、腕が震える。

 わなわなと皇太后の口元も。

 この後に及んで彼女は怒りを皇帝に向けた。


「おのれ、私を謀ったのか」


 皇帝に一歩近づこうとしたが、できなかった。

 いつのまにか背後に集まっていた兵士たちに両腕を掴まれ、捻りあげられたからだ。

 何をする、はなせ、と皇太后は暴れたが、兵士達は無言で彼女を縛り上げる。

 なぜこんなことが起きているのか、いつ情勢が変化したのか、皇太后は理解できなかった。身を拘束される屈辱に我慢ならず、腕を振り回すが兵士たちの手は離れず、代わりに彼女の黄金の(かんざし)が髪から抜け落ち、木の床に叩きつけられる。

 その簪を拾う者は、誰もいなかった。


「牢に押し込めておけ」


 皇帝が兵士たちに簡潔に命じると、皇太后は叫んだ。


「わ、私は何も知らぬ! 全て叔父上にそそのかされて…」

「ご心配なく。黄貴妃を暗殺しようとした容疑で、劉 宇航も捕らえますので。まもなく禁軍が平雲州に向けて発ちます」


 皇太后の全身から力が抜ける。

 ――遅かった。

 皇帝を排除するのが、遅かったのだと悟らざるを得なかった。





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