王女の証し
日没を迎え、とうに暗闇に包まれるはずの時刻であったが、温泉宮の周囲は異様に明るかった。
宮の中にあるおよそ全ての吊り灯籠に灯がともされ、中庭にも塀の外にも、松明が置かれた。
晶賢妃と侍女や女官といった女たちは、四棟の建物のうちの一つに集められ、外出を禁じられた。もっとも外出など、はなからするような時間ではなかったが。
就寝時刻になっても、晶賢妃も寝台に上がらなかった。
急に温泉宮に武装した兵士たちが集まりだし、騒がしくなったからだ。
私たちがいる棟には兵士たちは入って来なかったが、中庭には等間隔に兵士たちが並んだ。
外を走る馬の蹄の音は騒々しいくらいで、百を超える馬が集まっているのではないかと思われた。
「宮城を出るときは、絶対にこんなに兵士たちがいなかったわ。一体どこからやって来ているの?」
簾の隙間から外を見やりながら、麗質が言う。
すると椅子に腰かけ、小さな杯から茶を飲んでいた賢妃が口を挟んだ。
「陛下の警備があんなに手薄なはずがないわ。一部の兵士は先に到着させていたり、後発組にわけていたんじゃないかしら」
「何が起きているんでしょう? 黄貴妃様は侍女たちまでお姿が見えないし……」
貴妃の侍女たちは先ほどの暗殺失敗のあと、貴妃が泊まっている近隣の宿に移ったのだと言う。
だが他の女官たちには詳細が伝えられていなかった。
宦官たちも老齢のものしか見当たらない。
不安に感じた私は、棟の端にある望楼に登った。赤銅色の瓦が載る、四段の屋根を持つ五層の塔だ。
望楼内部の階段はかなり急で、一段一段の幅が狭かった。足をかけるたび、ギシギシと木が軋む音がする。
だが苦労しながら上がると、そこは見晴らしが良かった。
冷たい夜風に顔を撫でられ、耳まできんと冷える。
外は予想以上の兵士たちで埋め尽くされていた。
彼らが手に持つ松明で、まるで光の海が温泉宮の外にできたよう。
片手に盾を、もう片方に槍を構える兵士たち。彼らは温泉宮の建物を囲むように立ち、宮の入り口から正門までは、騎乗した兵士たちが詰めかけていた。
翌日、私たちは予定を早めて宮城への帰路に着いた。
女たちには「警備上の理由」としか伝えられていなかったが、賢妃は皇帝の張り詰めた雰囲気から何かが起きていることを察し、何も尋ねなかった。
行きよりも遥かに多い兵士たちに付き添われ、馬車で山を下る。
そうして温泉宮のある山西州をもうじき出ようとしていた頃。
突然馬車が止まった。
「宮城にもう着いたんですか?」
うたたねをしていた私は、寄りかかっていた馬車の壁から起き上がり、隣に座る麗質に尋ねる。
すると彼女はすぐに首を左右に振った。
「まだよ、早すぎるわ。どうしたのかしら?」
麗質が窓を覆う垂れ幕をめくろうと腕を伸ばしかけた次の瞬間、外側から突然幕が上げられた。
それは幕を車体から引き千切らんばかりの乱雑さで、開くや否や、数人の兵士たちが中を覗き込んできた。
みな、銀色の鎧に赤い軍服を着ており、禁軍の兵士ではないようだ。
「晶賢妃と黄貴妃はこの中にいるか!?」
兵士の一人が、かなりの剣幕でそんなことを怒鳴った。
窓際にいる麗質が答える。
「この馬車にはいらっしゃらないわ。――お前たち、なんです!?」
兵士たちは答えず、馬車の中を一瞥すると後方の馬車に走っていく。
まもなく後ろから数人の鋭い叫び声が上がった。
晶賢妃の侍女たちの声だ。
私と麗質は顔を見合わせると、すぐに馬車を降りた。
するとそこでは信じられない光景が広がっていた。
私たち一行は、赤い軍服を纏う集団に取り囲まれていた。
武装した彼らの規模は、私たちを警備する禁軍より明らかに大きかった。
私たちは林道の真ん中で前後を軍隊に挟まれ、身動きが取れなくなっていた。
「お離し! 無礼者!」
声に振り返ると、赤い軍服の兵たちによって、馬車の中から晶賢妃が引きずり出されているところだった。
そしてそれだけではなく、前方の馬車の隣には皇帝が立ち、何やら白髪頭の男と対峙していた。隣には、馬から降りたばかりの俊熙がいる。
白髪頭の男は抜刀こそしていなかったが、腰に剣を下げている。
男の両脇は、赤い軍服の兵士たちが警備している。
皇帝が口を開く。
「これはどういうことだ。山西州刺史のそなたが、なぜ余の行く手を阻む?」
どうやら白髪頭は州刺史らしい。
なぜ、州刺史が主人たるこの国の皇帝に刃を向ける?
「宮城より使者が来ました。皇太后陛下と朝廷の命により、皇帝陛下の御身を拘束させていただきます」
「何の権限あって、余の軍を動かしている!?」
「今朝、朝廷よりいらした使いが兵符を手にしていました。兵符あらば、命に従わざるを得ません」
兵符をもつものに、軍隊を動かす権限がある。
本来は皇帝か、皇帝が委任した者のみが持てるものだ。
皇帝は冷静な口調で話していたが、その浅黒い顔は紅潮していた。湧き上がる怒りを、懸命に抑えているのが私にも分かる。
皇帝であるはずの自分を、皇太后がここまで軽んじているのだから。
「なぜ余を捕らえる必要がある?」
州刺史は幾らか憮然とした様子で口を開いた。
「陛下はおそれながら、ご乱心につき。――昨夜遅く、魏 子豪率いる新華王国から、書状が届きました」
麗質と馬車の陰に隠れて、皇帝と州刺史の口論を聞いていた私は、びくりと震えた。
まさかこんな所で新華王国の国の名を聞くとは思わなかった。
「陛下。反乱者の子豪に武器を横流しし、彼が新たな国を築いた暁には、華王国の領土を一部よこすよう、密約を結ばれましたね?」
「なんのことか、全く分からない」
「昨夜、華王国の国王が逃げ込んでいた湖東州が黒龍国に攻め込まれ、陥落しました。華国王は斬首され、華王国は名実ともに滅亡したのです」
嘘だ。
私は叫び出しそうになるのを、何とか堪えた。
華王国が、滅んだ――?
国王が、あの弟が……あの勇が、斬首された――?
胸に一気に溢れたのは、悲しみだった。
(どうしてこんなに、胸が痛いんだろう……?)
私や兄は、勇に酷い扱いばかり受けていた。王宮にいた頃は、憎らしい弟でしかなかった。
仲の悪い弟だったのだ。
国王としても、優秀ではなかった。幾度も反乱を起こされていた。
兄を虐げ、しまいには私を敵兵迫る王宮に放置した。
それでも、その死は悲しみしかない。
なぜだか分からないが、訃報を耳にして脳裏に蘇るのは、勇がまだ小さかった頃の姿だった。
裸足で王宮の庭園をヨチヨチと歩いていた勇。
私から菓子を貰い、満面の笑みでまだたどたどしい口調でお礼を言った勇。
――殺されてしまった。それも首をはねられて。
勇は弟であり、私の憎しみの対象でもあった。けれど、国王であったその存在は、私の国そのものだったのだ。
帰るべき国は、永遠になくなった。
足から力が抜け、身体ががふらつき馬車の車輪にしがみつく。麗質が私の両肩を押さえ、しっかりして、と耳元で囁く。
州刺史は続けた。
「新政府からの書状を皇太后陛下がご覧になり、このままでは国益を損ねるとのご判断から、皇帝陛下の拘束をご決断されました。諸外国からの信頼を失うばかりでなく、とりわけ黒龍国との関係悪化は避けられません。我が国は、逆賊を扇動して隣国の紛争に介入し、一つの国家が三分裂する手助けをしたのです!」
皇帝は州刺史が話し終えるや、乾いた笑い声を立てた。その大きな瞳がギラつく。
「お前はそれを信じたのか」
「事実ではないと仰いますか?」
「子豪の新政府と良い関係だったのは、皇太后の方なのではないか? 私の名を使い、暴利を得ていたのだろう。皇太后の生家である劉家は有数の商人で、近年武器も手広く扱っている」
州刺史は雪のように白い眉を寄せ、数歩後ずさった。
そうして微かに首を傾げた。
「皇太后陛下が、嘘をついていると?」
「昨夜、貴妃が暗殺されそうになった。不届き者は劉氏に依頼されたと証言している」
「なんと! まさか…」
「時期が良すぎるではないか。これは皇太后とその一族による、皇位の簒奪だ」
州刺史の視線が左右に揺れる。
どちらに真実があるのか、決めきれないようだ。
皇帝の表情から何かを見極めようとするかのように、眼光鋭く皇帝を見つめて州刺史は言った。
「ですが、我々にそれをどう証明なさる?」
「数々の事実を鑑みれば、真実は一つではないか。なぜ余を疑う」
「ですが私も感情と推測で州軍を勝手に動かせません。州の前にあるのは、兵符がもたらされた、という逆らい難い事実なのです」
皇帝は投げやりに笑った。
「逆賊は、どっちだ」
私たちを取り囲む赤い軍服の兵士たちを、皇帝が睨み据える。すると兵士達は戸惑ったかのように視線を彷徨わせ、構えた剣を少しだけ下ろす。
彼らは明らかに己の立ち位置に自信が持てず、当惑していた。
士気が見る間に低下していく自軍に焦ったのか、州刺史は近くにいた兵士に命じた。
「委細は朝廷が調べることだ。我らはただ、皇帝陛下を宮城までお連れするのみ!」
兵士は皇帝に馬車に戻るよう進言した。
このまま宮城に向かうつもりなのだ。
渋々馬車に足を向けた皇帝に対し、皇帝の隣にいた俊熙が素早く動いた。手を広げて馬車前に立ち、皇帝の行く手を阻む。
「俊熙?」
「なりません、大家。これは罠です。州軍を敵に回したまま大人しく宮城に戻れば、反旗を翻す機会が失われます」
「宦官は余計な口出しをするな!」
州刺史が苛立って俊熙を突き飛ばす。
そのまま彼は俊熙に怒鳴り散らした。
「侍従だか知らんが、この若造が余計なことばかりしおって! 門下侍中を落としたからといって、図に乗るんじゃない!」
「呉門下侍中とお親しかったのですか? ですが私情で州軍を動かすのは大罪ですよ?」
俊熙はまだ馬車に立ちはだかり、冷めた目で州刺史を見据えた。
そうして顎先で、皇帝の馬車の車体に靡く旗を示す。
「この翠華が目に入りませんか? この春帝国皇帝陛下の旗が」
州刺史は押し黙った。
皇太后と皇帝どちらを信用するか、決めかねているのだ。
これでは水掛け論になってしまう。
「ちょっと、珠蘭? どこ行くの?」
麗質が焦りを滲ませた声音で、私に囁く。
私はそれに答えず、馬車の陰から進み出て、皇帝と州刺史に近づいた。
誰もが立ち止まる中、急に歩いてきた私に州刺史が気づき、振り返る。
その皺だらけの顔に、更に深い皺が寄る。
「何だ、お前は。女は出てくるな」
怒る州刺史の肩越しに、俊熙の顔をちらりと見る。彼はやってきた私を、険のある瞳で見つめていた。その顔に「余計なことをするな、引っ込んでいろ」と書かれている。
だがここで黙っていることはできない。
私は手を胸の前で組み、膝を軽く折ると再び背を伸ばした。
「州刺史様。その書状は偽造に違いありません。武器を売りつけていた劉氏が偽造したのでしょう。そもそも春帝国の皇帝陛下と魏 子豪が手を組むなど、あり得ません」
「なぜお前にそんなことが断言できる!」
「――魏 子豪は良くも悪くも真っ直ぐな人間です。密約とは一番縁遠い男です」
「だから、なぜそんなことがお前に分かる!?」
「私が華王国の王女だからです」
騒然としていた両軍が静まり返る。
空気は極限まで張り詰め、この場にいる全員の視線が私に向けられていることを、自覚する。
硬直する皆の中で、唯一俊熙だけは広げていた腕を下ろし、小刻みに首を左右に振る。
彼は私を睨みながら、それ以上何も言うな、と言外に伝えようとしていた。
私は目の前で言葉を失う州刺史に視線を戻し、自分の名を名乗った。
「私は李 詩月です。同母兄に慎王子を持ち、母は正妃でした。黒龍国に討たれた国王は、私の弟です」
州刺史は口を開いたり閉じたりしていたが、言葉が出てこないようだ。
水面の魚のようで滑稽だと思った。
「私の祖母は、この春帝国の皇族です。その縁を頼り、皇帝陛下にお助けいただきました」
「何を、……戯言を……」
「子豪が内乱を起こすのに手を貸した皇帝が、その国の王女を助けるでしょうか?」
「だが……子豪は王子の一人を擁立しているではないか!」
「それは偽物です。子豪は私の兄の名を騙る偽物を擁立しているのです。そんな男に皇帝陛下が手を貸す筈がありません。詩月の名にかけて、断言できます。兄は、子豪の力を借りて王位を簒奪しようとする人間ではありません」
兄からの手紙に記されていたのは、恨み言ではない。いつも兄は、私の幸せだけを願っていた。
「お前が王女だと、どう証明する?」
「二胡の楽曲、白草原を演奏できます」
州刺史は表情を緩めた。微かに心を動かされたらしい。
「ではやってみせよ。――誰か、二胡をここへ持て」
少しの間後方の馬車で押し問答が続き、やがて麗質が私の前にやって来た。
その手に二胡が握られている。
彼女は不安そうな面持ちで尋ねた。
「珠蘭、本当に……?」
私は二胡を受け取りながら、曖昧に頷いた。
左手に二胡を持ち、その場に膝をつく。
砂利道に直に座るのは膝が痛かったが、仕方がない。誰の二胡なのか分からないが、新しいもののようで、木の色艶がまだ浅い。
胴に張られた蛇革も目が粗く、弾きにくそうな二胡だ。
だがやるしかない。
王族のみが演奏することを許されてきた、楽譜の存在しない名曲「白草原」を伝えて来た王家はもう、亡くなったのだ。実際は王宮が黒龍国軍の手によって陥落した時点で、華王国は滅びたも同然だった。しかし湖東州が落ちた今、名実共に地図から消えたのだ。
それは自分が立つべき地を失ったような、拠り所を奪われたような、大きな喪失感を私にもたらした。
左手で弦を押さえる。
私は息を軽く吸い込み、弓を滑らせ始めた。
誰もが静かに私の演奏を聴いてくれた。
皇帝が、州刺史が、集う兵士たちの誰がこの曲を知っているかは分からない。大半の者たちは、曲名しか知らないはずだ。
ただ、難解で長いこの曲を淀みなく弾き切ることに最早価値があるように思われた。
初めて手にした二胡ではあったが、弾き始めてすぐに、私の手に馴染んで言うことをよくきいてくれた。
多少乱暴に弓を切り返しても、雑音を出さないでいてくれた。
砂利の上で体勢がうまく取れないが、腹の前にきちんと収まっていてくれた。
やがて曲の半分ほどに達した時、私の頰が濡れた。
涙ではない。
私は、慎王子――兄と出会えるまで涙を封じている。
辺りの砂利道が点々と濡れていく。
二胡の音符の合間に、パタパタと柔らかな水音が鳴る。
雨が降り始めていた。
弦が滑らぬよう、より強く弓を当てる。
楽器が濡れないよう、上半身を倒しぎみにして、二胡に被さるように弾く。
演奏を止めるわけにはいかない。
聴きたいと言ったのは、州刺史だ。
ならば、最後まで聴くがいい。
途中でやめるのは、私の矜持も許さなかった。
これは代々の王女達が連綿と伝えてきた、その一人一人の努力の結晶なのだから。
奏でる一音一音に、王宮での思い出があった。
まだ健康だった父の膝に乗り、祝ってもらった誕生日の絢爛な祝い。
端の宮から見た侘しい石庭。
賑やかな月の宴。
厳かな四霊獣の廟。
曲のあらゆる箇所に蘇る光景と、感情があった。
強くなった雨が額を滑り、目に入って視界の邪魔をする。
結い上げた髪が雨を吸い、重くなって頭が下がる。
浴びる雨が、絶え間なく顎先から胸の上に落ち続ける。
弓を持つ右手の指が滑りそうになり、切り返しの微かな合間に、何度も持ち直す。
雨で目が見えなくても二胡は弾ける。
目を閉じて曲を続けると、感性が逆に研ぎ澄まされるようだった。
雨が地を激しく叩く音で、最早遠くの兵士たちには音は届いていないだろう。だが、目の前の州刺史には確実に聴こえている。
いよいよ曲が盛り上がる場面に差し掛かった時。
州刺史が掠れた声を発した。
「もう、よい。――立ってくれ」
私は演奏をやめなかった。
すると誰かの手が私の肩に掛けられた。目を開けると、皇帝が前屈みになって私の肩に手を乗せていた。
「そなたが詩月王女だと、誰もが納得した。だから、もう弓を下ろせ。――ずぶ濡れだぞ」
バシャバシャと水溜りを散らしながら、麗質が駆け寄り、私の脇に手を入れて私を立たせた。
その時、禁軍の兵士達が二人の男を引っ立てるようにして連れてきた。男たちは腰に綱を巻かれ、後ろ手で拘束されている。
どちらも見覚えがある。
昨日、黄貴妃を襲おうと浴場に侵入した二人だ。
二人の頭を小突き、兵士が命じる。
「州刺史の前で、お前達が知っていることを言え!」
男達は低頭し、震える声で言った。
「劉氏に命じられ、黄貴妃を弑し奉ろうと致しました。全ての黒幕は皇太后陛下です」
一瞬辺りは静まり返り、そのすぐ後に皆が戸惑いの言葉を口々に上らせる。
やがてさざ波のように騒めきが広がっていき、しまいには誰もが皇太后を罵り始めた。
州軍の中に剣を構えるものはもう、誰もいなかった。
皇帝が代わりに剣を抜いた。
そうして、雨降る空に向けて高く突き上げ、叫んだ。
「敵は後宮にあり!!」
雨に負けんばかりの雄叫びが、両軍から上がる。
急に雨が当たらなくなったと思うと、隣に俊熙が立ち、傘をさしてくれていた。
私は彼を見上げた。
「これで、良かったかしら……?」
「良いわけがないでしょう。馬鹿な真似を……」
そう言うなり俊熙は私の肩を強く押し、女官達が乗る馬車の方へ押した。
「はやくお召し替えを」
私を見下ろすその顔は、随分と蒼白だった。




