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呉邸の宴

 俊熙の手が私の顎先に添えられ、さっきから酷く緊張してしまう。

 彼の長い指の先に頬紅が乗せられ、トントンと私の頰に撫でつけられていく。

 目線を上げると、私を間近から見つめる俊熙と目が合ってしまって気まずいので、私はずっと自分の膝を見つめていた。


「俊熙、やっぱり自分で化粧するから、いいよ」


 おずおずと提案してみるが、俊熙は手を離してくれない。


「ご自分でなさいますと、いつもと同じ化粧にしかなりません。別人に仕立てるのですから、私が致します」


 俊熙は今度は私の瞼に熱心に色を乗せていく。

 いつも私は薄い茶色を乗せるのだが、俊熙は今、薄紅色を選んでいた。

 これだけでも随分、目の周囲の印象が変わるだろう。寧ろ、俊熙はかなり濃い目につけているので、仕上がりが怖いほどだ。


「目尻の上には、朱色を乗せます」

「貴方って化粧に詳しいのね。……なんで?」


 すると俊熙はふっ、と笑った。


「化粧係をしている宦官から、色々教わりました。今日呉邸で珠蘭様と楽器や舞を披露する楽人は、皆女装した宦官ですから。出来をお楽しみに」


 驚いて目を上げると、至近距離の俊熙と視線が絡む。

 漆黒の双眸に捕らえられ、目が逸らせない。

 俊熙は私の瞼から手を離し、私たちは無言で見つめ合っていた。


「私、」


 沈黙に耐えられずに口を開きかけるが、それを物理的に妨害される。

 俊熙の顔が更に寄ってきて、口づけをされたのだ。

 一気に全身が熱くなり、恥ずかしさに目を閉じる。

 別に避ければいいのだが、できない。

 いや、できないのではなくて、避けたくないのだ……。

 俊熙の唇は柔らかくて、優しく角度を変えて押し付けられると、頭の中が真っ白になって意識がふわふわと漂う。

 唇が離されると、寂しい気分にすらなってしまう。

  目を開けると俊熙は私を見下ろしていた。


「――お嫌でしたら仰ってくださって結構ですよ」


 唇に自分で触れながら、小さくかぶりを振る。

 全然嫌じゃない。でも言葉にするのは、猛烈に恥ずかしい。


「下男だった宦官だというのに?」


 綺麗な顔を皮肉に歪めて笑う俊熙は、少し意地悪だと思う。

 俊熙の唇が再び私の唇の上に落とされる。

 探るようにそっと当てられ、気持ちの良さに目を閉じる。


「口元は民族衣装で覆ってしまいますので、紅はささずにおきましょう」


 そういうなり、彼は私の頭の上に紗のように薄く軽い、赤色の布を被せた。







 私は他の宦官達扮する楽人達と、帝都の妓楼で合流した。

 宦官達は全員で四人いた。

 花々や飾り布で豪華に仕立てた馬車に皆で乗り、一路、呉門下侍中の邸に向かう。

 車内はこれから行う任務に皆、緊張しており表情がかたい。

 けれども私はどうしても口元が緩んでいってしまうのを抑えるのに、苦労した。

 皆、女にしか見えないからだ。

 化けるのが上手すぎる。

 弧を描いて長く伸びる睫毛に、蠱惑的な黒い眼差し。

 うなじはうっとりするほど白く美しい。女の私ですら、手を伸ばして首筋に触れてみたい気になるほどだ。

 四人とも胸元に一体何を入れたのか、素晴らしく豊満に仕上がっている。

 その割に、腰回りは大層細い。

 思わず自分の胸元を見てしまう。

 頭から爪先までをおおう真紅の民族衣装は、ストンと下まで落ち、凹凸を感じさせない。

 柔らかな布生地で尚且つひだが多く、表面に小さな色付きの玻璃粒が縫い付けられている。その結果、体型を極力拾わない作りになっていた。

 真正の女のくせに、私は車内で最も性的な魅力を欠いていた。


(落ち込んではだめよ、珠蘭。妙な矜持は捨てなさい)


 どうにか自分を慰める。





 呉邸に着くと、既に宴会は始まっていた。

 邸の入り口で使用人が出迎えてくれて、馬車を降りる。


「楽人殿、待っていたぞ。さぁ、こちらだ」


 使用人は女装する宦官たちが、襦裙の裳裾をはためかせて玄関を進むと、顔を赤らめて手を差し出した。

 宦官をうっとりと見つめて、広間まで案内してくれる。

 ちなみに誰も私を見てすらいない。


 広間は大変大きく、壁伝いにコの字型に席が設けられ、その中央で愛らしく着飾った小さな猿が、踊りを披露している。首輪に手綱がついており、横に立つ男性が色々と猿に合図を出している。


 既にかなり酔いが回っているらしき客たちは、総じて顔を赤くし、目がとろんと微かに虚ろになっている。

 広間にはいって向かって奥に、見覚えある女性がいた。呉夫人だ。

 その隣に座る、中年の小太りの男が、門下侍中なのだろう。黒と金色の配色が眩しい、やたら華美な袍を纏っている。髷に巻きつけた円柱の飾りも派手で、色とりどりの貴石がはめこまれ、上部には華奢な鎖がついていて、門下侍中が笑うたび、煌めいて揺れる。

 猿の芸が終わると、私たちの番だった。


「次は帝都で最も人気の妓楼から。舞と楽器の演奏です」


 使用人が歌うように高らかにそう告げ、皆の注目が広間の入り口にいる私たちに集まる。

 私たちは宴席のまん中まで進むと、まずは宦官二人が琴をかき鳴らし、一人の宦官が舞を始めた。

 頭上の歩揺がシャラシャラと鳴り、柔らかな襦裙の裳が蝶の羽根のように揺れる。

 宦官の舞は躍動的だった。宙返りまで披露するが、木の床は軋み一つ立てない。

 まるで本物の蝶がひらひらと舞うような踊りなのだ。

 黒く化粧で囲った大きな瞳が、時折宴席の客達に流される。見つめられた男たちは、惚けたように、口元をだらりとあける。

 魂を持っていかれてしまったのだろう。中には、舞い手を見つめたまま、酒を零してしまってそれにすら気づいていない男もいた。手の中の盃が傾き、膝上の酒の染みがどんどん広がっている。


 だが門下侍中だけは、例外だった。

 どうやらあまり女に興味がないのか、なんと舞の最中に盃を小卓に置き、立ち上がりかけた。

 そこへすぐに反応したのが、呉夫人だった。

 何やら夫に耳打ちしている。何を言われたのか、門下侍中の視線はゆっくりと私に向かい、一転してその瞳に光が蘇る。

 その後は熱心に私を見つめている。

 おそらく、二胡の話を夫人が振ったのだろう。

 この後の私の演奏に対して、一方的に期待値を爆上げされてしまった。


(頑張らなきゃ。錦廠の突入の成功が、私の二胡の腕にかかっているんだから)


 左手に構えた二胡を、ぐっと引き寄せる。



 宦官の舞が終わり、彼は美しくお辞儀をした。

 拍手が鳴り止まぬ中、彼と入れ替わるように私が宴席の中心に向かう。

 座布団が敷かれたそこに膝を下ろすと、私はまずは「神仙山脈の月」という、少し長めの曲を演奏した。

 ここからは外の様子が全く見えないのだ。時間を引き延ばし、俊熙たちが十分に突入の準備ができるようにしてあげたい。


 やがてついに、名曲「凍頂美人」の番となった。

 最初の一音から、この曲は難解だ。

 非常に高く、長い音で始まるので、間違いが許されない。

 二胡は高音になるほど、押さえるべき弦の箇所が狭くなり、僅かな誤りも許されないのだ。

 正しい音が出せて安堵したのも束の間、つぎに起こった爆音で私の演奏は掻き消された。

 油紙が張られた大きな窓が蹴破られ、突然男達が乱入してきたのだ。木屑と埃が舞い、天井から吊るされた灯篭が激しく揺れる。


「皇帝陛下の命により、呉門下侍中を連行する!」


 紺色の官服を纏った宦官たちが続々と外から現れ、広間の奥まで駆け込んでくる。

 逃げ惑う客たちが燭台を倒し、火が絨毯を伝う。

 皆逃げることに必死で、火など視界に入っていない。

 私は二胡を放り出すと絨毯を急いで剥がし、折り込んで床に叩きつけ、火を止めた。


「何事か! お前達は、なんだ!?」


 宴席は一瞬にして阿鼻叫喚に包まれ、誰もが席を立ち、逃げ惑った。

 客たちは入り口に向かったが、入り口からは兵士達が次々と駆けつけ、誰も広間からでることは叶わない。

 皿や盃が割れる音と、邸の侍女たちの叫び声が辺りを埋め尽くす。

 女達や私たち楽人は、皆広間の隅に固まった。

 私に触るな! と叫ぶ門下侍中の抗議を無視し、宦官が彼の腕を抑えようとしたが、逆に蹴飛ばされて壁際に吹っ飛ぶ。だがそこへ間髪容れずに兵士が門下侍中を二人がかりで押さえ込んだ。

 小太りの門下侍中も、流石に武人二人に捕らえられては、もう動けないようだった。

 やがて広間は嘘のように静まりかえった。

 全員の視線は入り口に釘付けになっていた。

 入り口から、紺色の官服を纏った俊熙が、ゆっくりと歩いてきていたのだ。そのすぐ後ろに控えているのは、緑色の旗――翠華を掲げた軍人だった。

 大きく後ろに棚引く旗には、カワセミの羽根による装飾がされ、それは皇帝の意志のもと、軍が動いたことを意味している。

 俊熙が引き連れてきたのは、禁軍神策軍なのだから。

 膝をついた姿勢で兵士たちに抑え込まれた門下侍中は叫んだ。


「蔡 俊熙……! なぜ翠華をお前が率いる!? 錦廠に左遷されたはずの、宦官ふぜいが!」


 俊熙はいつもの涼しい表情のまま、門下侍中の前に立った。

 そうして至極冷静な口調で言った。


「ご自分の悪事は、ご自分がよくご存知でしょう。――天網恢々(てんもうかいかい)、疎にして漏らさず」


 門下侍中は顔を真っ赤にして唸った。


 邸の侍女をはじめ、女たちは兵士たちによって外に出ることを許された。

 廊下の奥からは、次々と巻物が宦官や兵士たちの手によって運び出されている。摘発の為の、証拠の品々なのだろう。

 私はきた時と同じように、楽人に変装した四人の宦官たちと馬車に乗り込んだ。

 その隣の地味な馬車には、呉夫人と十歳くらいの女の子が乗り込むところだった。おそらく夫人の一人娘だろう。二人でこのまま夫人の実家に帰るのかもしれない。

 馬車の入り口に垂らす幕が下りる直前に、夫人は邸の建物を見て、呟いた。


「後継を生まなくて良かったと、今日ほど思う日はないわ」


 幕が下され、夫人を乗せた馬車が邸の敷地を出て行く。

 この瞬間、私は悟った。

 呉夫人は男児を授からなかったことを長い間、この邸で責められ続けていたのかもしれない、と。


「馬車を出せ!」


 宦官の一人が御者に命じる。

 みな満足そうに、口元に笑みをたたえていた。

 そうしてまだ騒ぎの渦中にある呉邸を、後にした。




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