皇帝と俊熙
宮城は静かな年始を迎えていた。
多くの勤め人が休暇中である為、いつもは賑やかな外廷が閑散としており、俊熙が玉砂利を踏む音だけが聞こえる。
大和門を守るようにして左右に立つ衛士二人も、なぜ休暇中であるはずの俊熙がここに登場するのかは理解しないまま、門をいつものように通っていく俊熙を見つめた。
その凛とした後ろ姿を見つめながら、一人が呟く。
「どんな時でも蔡侍従は綺麗だよなぁ」
「目の保養だな。大左遷されても、堂々とされている。見上げた心構えじゃないか」
二人はつい先ほどまで、あまりに誰も通らず、やることがなかったので槍を放り出して門に寄りかかっていた。
門を通って行った俊熙の前方を見つめる力強い眼差しに感化され、二人の背中が自然と伸びる。
新年に門番をしなければならない自分たちは、外れ籤を引いたと思っていたが、真面目に仕事をしなければ、と改悛したのだ。
見上げれば青々と澄み切った空がどこまでも広がっている。
「天も俺たちを見ていて下さっている」
晴れやかで前向きな気持ちになり、手の中の槍をシャキンと打ち鳴らしながら、真っ直ぐに構える。
――宮中の平和は、俺たちが守っているんだ!
彼らはまさか嵐がこの後来るとは、思ってもいなかった。
後宮にある皇帝の寝所には、小さな建物が併設されている。
皇帝が執務を終えた後、一人で写経に取り組むための場、三聖堂だ。
三聖堂は開口部が小さな構造で宮城内の建物にしては密閉性が高く、静寂がよく保たれている。
何者にも邪魔されず、一人瞑想したり集中して何かに取り組むには、打って付けの場所だった。
皇帝の出入りする場所としては珍しく飾り気がなく、簡素な内装となっている。
堂内の奥に円形の飾り棚が壁に取り付けられてはいたが、数本の小さな香水瓶が並んでいるのみ。
今夜も俊熙が三聖堂を訪ねた時、皇帝は黙々と写経に励んでいた。
「大家、お呼びでしょうか」
俊熙が皇帝の卓の前に立ち、膝を軽く折る。
皇帝は筆を置くと、顔を上げて俊熙を見つめた。
「御史台が劉 宇航の弾劾状を奏上してきたぞ」
俊熙は一切表情を変えずにそれを聞いた。
御史台とは、春帝国の行政の監察機関であり、官吏の綱紀粛正にあたる部署である。
皇帝は続けた。
「弾劾状によれば、金で雇った盗賊に政敵を襲わせ、殺している。また不正に得た収入で高利貸しを行い、深夜に馬車で金を自宅に運び込んでいるらしい――そして驚くべきは、この弾劾状の草案を書いたのは、戸部の官吏なのだ」
「存じております。戸部侍郎ですね」
俊熙が淀みなく答えると、皇帝は口を歪めて笑ってから、首を左右に振った。
「やはりな。そなたの差し金だったか」
「私は宇航の不正のあらましをほんの少し、戸部侍郎に教えただけです。相手が相手ですから、握り潰すかと思いましたが、戸部侍郎の梓然は案外気骨のある男でした」
梓然は貴族派官僚と敵対する科挙派官僚の一人だ。というより、科挙派のなかでも若干浮いた存在ではあったが、味方にすれば心強い。
だからこそ、そのきっかけを与える為に珠蘭にあの竹簡を持たせて梓然に渡したのだ。
帳簿を精査し、不穏な金の流れを突き止めるのは梓然の十八番だった。何せ帳簿を眺めるのは梓然の趣味の一つなのだ。彼が吏部にいたのも幸いした。
皇帝は椅子から立ち上がると卓を大回りし、俊熙の前まで歩いてきた。そうして手を後ろで組むと、一度大きな咳払いをした。
「蔡 俊熙。明日付で錦廠勤務の宦官全員に、御史台への併任を命じる。これにより、御史台が持つ捜査権と逮捕権が錦廠職員に与えられる」
「慎んでお受け致します」
「禁軍三軍のうち、神策軍を左右に分ける。これに伴い、そなたを神策軍左軍中尉に命じる。すなわち、神策軍左軍を統率せよ」
「私のような若輩者に、過分な権威をありがとうございます」
宮城を守る皇帝直属の軍隊は全部で三軍あった。
龍武、神武、それに神策軍の三つである。
皇帝はその一部の兵力を、明日の為に錦廠に――正確に言えば俊熙に与えた。
失敗は許されない。呉門下侍中を捕まえ、そこを辿って劉 宇航を叩く。
明日は、皇帝の宿敵に鉄槌を下す、大きな第一歩となる日なのだ。
皇帝は膝をつく俊熙の前にかがみ、両手を出して彼の手を握り、立ち上がらせた。
無言で見つめ合った後、ぎゅっとその手を握る手に力を込めた。
「三年間、この日の為によく耐えてくれた。明日、思う存分暴れて来てくれ」
皇帝の目に涙が薄っすらと滲む。
こうして雑音の少ない三聖堂に籠っている時は、しばしばあの日のこと――二年前に失った息子のことが思い出されて仕方がない。
堰き止めたはずの悲しみや悔しさが、洪水のように溢れて止まらなくなるのだ。
皇帝は目を閉じた。
瞼の裏に、あの夜の光景が蘇る。
二年前のあの晩にこの世を去った皇子は、まだ二歳だった。
皇子は駆けつけた皇帝の腕の中で、汗だくになって息絶えた。
「お腹、痛いよぉ」
絞り出すようにして言ったその言葉が、皇帝が聞いた息子の最期の声となった。
あの声が、耳を離れない。




