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摘発

 家にずっといると、毎食料理をすることに飽きてしまう。

 年が明けると私と俊熙は、昼食を屋台で購入するようになった。

 大通りに近い俊熙の邸は、軽食を買いに出かけるのに大変便利な位置にあった。

 昼時になると大通りには、沢山の屋台が並ぶのだ。そこで食べたい物を好きなだけ買い、二人で邸に戻る。

 串焼き肉や餡入り包子を抱えて、邸に向けて歩いていると、私たちははたと歩みを止めた。

 門扉の前にひとりの女性が立っているのだ。

 発色の良い綺麗な襦裙を纏っている。纏め上げた髪の正面に、大きな翡翠の乗る銀細工の飾りをつけている。

 良家の女性に違いない。

 更に近くまで行くと、大きな目と、その右目の下にある涙ぼくろの印象的な、中年の女性だった。

 涙ぼくろ――。

 そんな女性の話を、どこかで聞いたような……。

 女性は私の串焼き肉と私を、動揺したような揺れる瞳で数往復眺めた後、俊熙に視線を戻してから彼の元に駆け寄った。

 時を同じくして、私もあることを思い出す。


(涙ぼくろの中年女性……。ああ、螭舟の上で花琳がその話をしていたんだ! 俊熙の噂話に出てきた女性だ!)


 ようやく思い出すと同時に、すかさず俊熙の様子を窺う。彼も驚いたように目を見開いていた。 

 女性はどこか思い詰めたような声で、俊熙に話しかけた。


「蔡侍従! ご自宅まで押しかけて申し訳ありません」

「呉夫人。どうなさったのです?」


 夫人?

 この女性はらどうやら呉氏の奥様らしい。

 ますます二人の関係が分からない。


「ここでは人目につきます。中へどうぞ」


 俊熙が素早くその漆黒の瞳を巡らせ、周囲を警戒する。

 流れるような動作で門扉を開けると、彼は呉夫人を隠すように中に入れた。








 数分後、私は居間で一人悶々としていた。


「なんか、嫌!!」


 俊熙は呉夫人と二人で、コソコソと何やら顔を寄せ合って話しあいながら、二階に上がってしまった。

 おまけに階下にいるよう、俊熙に命じられた。

 また私は除け者扱いなのだ。

 二人で何をしているのだろう。

 その上、お腹が空いて堪らない。待つのも癪なので、一人で串焼き肉にかぶりつく。羊肉を焼いたものだが、とても柔らかくてタレが肉に良く染み込み、美味しい。

 食べ始めると止まらず、包子も平らげる。

 やがて自分の分を食べ終えてしまった。

 二人は上階に引きこもったきり出てこない。


「暇だな……」


 やることがなくなった私は、前回の掃除で手が届かなかった空き部屋の掃除を始めた。

 一階の玄関横にある部屋は納戸なので、まずは棚の拭き掃除をする。

 棚には埃だらけの彫刻や人形があり、それらを床に下ろしてから棚を拭く。棚の中には小像だけでなく、二胡まであった。


「そう言えば、二胡が家にあるって言ってたっけ……」


 雑巾を他所へやると、二胡に手を伸ばす。

 黒い収納箱は埃を被り、持ち上げると指の跡がくっきりと残る。余程長いこと俊熙自身は二胡に触れていなかったのだろう。

 棚から箱を下ろすと、コトリと中の二胡が揺れる音がした。

 久しぶりの二胡に胸高鳴らせながら、箱を開ける。

 収められていたのは、やや古びた二胡だった。

 二本の弦の内、一本は切れてしまっていた。

 弦を強く張ったままの状態で保管しておくと、伸びた挙句、切れてしまうのは良くあることだ。

 箱の内蓋を弄ると、中に予備の弦が入っている。

 二胡上部の糸巻きを回し、切れた弦を外して予備のものと取り替える。

 二胡の首部分に当たる、棹に手を添えると、強烈な引力を感じた。自然と左手の指が弦に触れる。

 指に伝わる、ピンと張った弦の抵抗感がたまらない。

 決して丁寧に手入れがされた楽器ではなかったが、恐らくは紫檀でできた、元々は質の良い二胡だったに違いない。

 右手が勝手に滑るように弓を握り、私は床に膝をついて二胡を腿の上に置いた。


(少しだけ、ちょっとだけ。この二胡の音を聞いてみたい)


 弓を弦の間に滑らせ、調弦をするとあとは止められなかった。

 音楽の波に乗るように、私は漕ぎ出した。流れは止まらず、寧ろ激しさを増す。

 気持ちが赴くままに、身を任せるのが素晴らしく心地いい。

「湖東州歌」を弾き、続けて「凍頂美人」を終えると、突然背後から拍手が聞こえた。

 驚いて二胡を取り落としそうになりながら振り返ると、納戸の入り口に呉夫人がいた。


「素晴らしいわ! 私が今まで聴いた二胡の音色の中で、一番美しかったわ!」


 呉夫人の後ろには、苦々しい顔をした俊熙がいた。

 勝手に二胡を私が触ったことに気分を害している、というよりは呉夫人と私が接触するのか嫌なのだろう。 

 呉夫人は弾むような足取りで納戸の中に入ってきた。


「夫は二胡が大好きなの。――ねぇ貴女、来週我が家で行われる新年の宴で、その二胡を弾いてくれないかしら?」

「何を仰いますか。珠蘭は女官をしているのです。その宴に来るのは官吏ばかりでしょう? 珠蘭の顔を知っている者もいるかもしれません」


 俊熙にそう指摘されても、呉夫人は食い下がった。


「皆楽人たちは濃い化粧をするし、目だけを出した南方の民族衣装を着れば、ばれないわ」


 呉夫人は声を潜め、真面目な口ぶりで言った。


「蔡侍従。私たちの計画にも、一役買うわ。夫はいつもすぐに宴を中座するのよ。でも、珠蘭が二胡を弾いてくれれば、絶対に宴会場にとどまるから、一網打尽にできるわ」

「珠蘭を巻き込みたくないのです」

「でも錦廠の摘発から夫が逃げれば、私も貴方も、身の危険が迫るわ」


 そこまで聞いて、話に割り込む。


「摘発って何ですか? 奥様」


 呉夫人が答える前に、俊熙が口を開く。


「ただの仕事の話です」

「錦廠は何かの摘発をしているの?」


 以前は掃除だといっていた。だとすれば、不正をする官吏の摘発?

 そして呉夫人はその協力者なのだろうか。

 俊熙は言葉を濁した。


「大したことはしておりませんよ」


 だったら言えるはずだ。

 何か危ない橋を渡ろうとしているのだ。


「……じゃあ、宮城に戻ったら皆に呉夫人がここに一人で来ていた話をしていい?」


 俊熙はあからさまに返事に窮していた。

 そもそも邸の前で話すことも、避けたくらいなのだ。

 呉夫人――話の流れからすれば、官吏である呉氏の奥方なのだろう。

 私と目が合うと、呉夫人は言った。


「蔡侍従は貴族派官僚の重鎮である、皇太后陛下の叔父と一悶着おこしたばかりよ。私の夫との争いに敗北すれば、次はないと考え…」


 呉夫人の説明に、俊熙が割り込む。


「珠蘭に話さないでください」


 呉夫人は肩をすくめて軽くため息をつく。


「摘発を成功させることが、私たち三人全員のためよ」


 私は俊熙の正面に立ち、彼を見上げた。

 ここは食い下がるべきだと思った。


「俊熙。私で役に立つのなら、手伝うわ。私貴方にたくさん助けてもらったのに、何もお返しできていないもの」

「いいえ、結構です。そもそも危険ですから、させられません」

「一人ぬくぬく守ってもらうなんて嫌よ。だいたい、貴方が逆に逮捕をされでもしたら、私はどうなるの?」


 駄目押しのように、ここで呉夫人が言った。


「さっき、『凍頂美人』を弾いていたわ。二胡楽曲の金字塔よ。あの演奏中に中座する馬鹿はいない。あの曲の最中は夫が宴会場にいるという、突入のいい合図にもなるわ」

「私、やります」


 きっぱりと言い切り、俊熙を見上げる。

 彼は困っていたが、それ以上反論はしなかった。




 翌日、俊熙は私を連れて街中の大きな食堂に行った。

 昼のかきいれ時と重なった為に、店内はかなり混雑していたが、俊熙は予約をしていたようで、二階の個室に私たちは通された。

 注文した料理が届いた頃、突然隣の個室にいた客たちが私たちの個室に乱入してきた。

 三人組の女性達で、驚いた私が席を立つ一方、俊熙は何事もないように落ち着いて家鴨(アヒル)の汁物を飲んでいる。

 更に驚いたことに、三人組は個室の扉を閉めるなり、頭上に結い上げていた髪を簪ごと毟り取った。否、髪はかつらだったのだ。

 かつらの下からは、小さく纏められた髷が現れる。

 三人共線が細く、肩もなだらかで体格は女性そのもの。


「だ、誰……?」


 身の危険を感じて一応、個室の壁際まで後ずさる。

 すると俊熙は円卓の上の料理を端に寄せ、ニッと笑って言った。


「私の部下です。皆、錦廠に勤める宦官にございます。明後日の突入の詳細を話し合う為に、私が集めました」


 俊熙が言い終えないうちに、宦官達は襦裙の裳裾を捲り上げ、中から巻物や書類を次々に出した。


(ど、どこに隠しているんだか……!)


 思わず羞恥心から目を覆う。

 広げられた紙のうち一枚は、どこかの豪邸の見取り図のようで、各建物や鐘楼の位置、それに池の形まで描かれている。

 三人のうち最も若い宦官が見取り図に載る一番大きな門に、人差し指で触れる。


「呉家の新年の宴が行われる広間は、正門から走ればすぐの場所にあります」


 俊熙が頷く。


「珠蘭の『凍頂美人』が始まったら、突入する。二手に分かれ、一隊は書斎へ向かい帳簿を抑える。残る一隊は呉門下侍中を拘束する」

「門下侍中!?」


 驚きを隠せず、私は俊熙に尋ねた。

 呉夫人の夫は、門下侍中だというのか。

 つまり、三省六部の一つ、門下省の頂点に立つ人物だ。


「錦廠はそんな大者を摘発するつもりなの? しかも、門下侍中の奥方は内通者だということ?」


 俊熙は無言で頷き、地図に視線を落としたまま説明した。


「呉夫妻の関係が上手くいっていないことは、かなり前から掴んでおりました。奥方が離縁を望んでいることも。――見返りに、奥方の実父の出世を約束しています」


 奥方の実家の繁栄を保証し、離縁後の奥方の経済的拠り所を作る。それが、内通者への報酬なのだ。

 同時に奥方が夫である門下侍中を裏切りやすくしたのだろう。

 本人からボロが出ず、正面突破できない時は周りから攻めていく。そういうことなのだと私は理解した。

 宦官の一人が、巻物の方向を私に見易いよう変え、私の目を覗き込む。


「宴の出席者名簿です。親しい者はおりますか?」


 巻物には役職と氏名が延々と書かれている。

 最後まで目を走らせたが、知り合いはいない。


「みんな、知らないわ」

「安堵いたしました。それならば化粧や衣装をよほど濃くせずとも、心配いらないでしょう」


 俊熙が立ち上がり、両手を円卓につく。

 そうして私たち四人の目を、順番に見つめる。


「門下侍中には十を超える嫌疑がかかっている。その内二つの証拠は、必ず明日抑える。一つは四年前、赴任先の平雲州で徴収した税を、懐におさめていたこと。平雲州の佃戸記録簿と対差し、過少申告分全額を計算する」


 宦官達が力強く頷く。


「そして、二つ目。劉宇航(ユーハン)と呉門下侍中が結託し、宮城の修理・改築請負業者を恣意的に選んでいたこと。過大な予算を請求し、差額を該当業者よりせしめていたこと」


 ここで宇航の名が登場するとは予想外だった。

 俊熙が左遷させられた原因をつくった翰林学士だ。

 どうやら皇太后の叔父と門下侍中は悪巧み仲間だったらしい。

 門下侍中を摘発することで、芋づる式に劉 宇航の罪を問うのかもしれない。だが宇航に辿り着くことが最終目標ではないだろう。


「狙いは、……皇太后その人なの……?」

「皇太后と、その腰巾着の貴族派官僚です。呉門下侍中は貴族派の筆頭ですから」


 俊熙は間を置かずそう答えた。

 春帝国の宮城では、昔から貴族派と科挙派の官僚たちがいがみ合い、互いを牽制しつつ勢力争いを続けてきた。

 その求心力を叩き折ろうというのだ。


「もちろん、すぐには手が出せません。ですが突破口にはなり得ます。もしくは、腕をもがれた皇太后は遠からず牙を剥く。その時が、決戦の時になるでしょう」


 俊熙はドン、と拳で呉邸の間取り図を叩いた。

 卓上の湯のみが揺れ、茶の表面にさざ波が立つ。

 その場に居合わせた皆が書面から顔を上げ、目を合わせる。全員の目標がこの瞬間一つに収斂し、空気が急激に引き締まる。


「皇帝陛下は長らく耐えてこられた。後宮に巣食う諸悪の根源と、それに群がる犬どもを、一掃する」


 錦廠が春帝国の膿を、絞り出そうとしていた。



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