はじまりの竹簡
冬真っ盛りの、雪降る寒い夜。
明天殿の衣装室には、灯りがついていた。
まだ残業をしている女官がいるのかと覗いてみると、部屋の隅で針仕事をしているのは麗質だった。
麗質は少し前に上がったはずなのに。
後ろから見ていると、彼女は帯を繕っていた。
こちらに背を向け、薄明かりの下、手元に集中している。綾織の美しい絹の帯には、鞠と戯れる鳥たちの刺繍が施されている。
どうやら帯を太く直しているようだ。
もしや、呂淑妃がまた太ってしまわれたのだろうか。でもだとすれば呂淑妃の担当女官がそれをするはずだ。
私は訝しく思いつつも、近づいた。
寒さのため、麗質の吐息は白い。
「麗質さん、まだお仕事しているんですか?」
振り返った麗質は少し驚いた様子だった。
「珠蘭か……。びっくりした」
「その帯は晶賢妃様の?」
「違うの。……でも、陛下に頼まれているの」
麗質は少し言いにくそうに言った。
陛下になぜ、他の妃嬪の帯を繕うのを頼まれるのか。解せないが話せない内容なのだろう。
私は自分の羽織りを一枚脱ぐと、麗質の寒そうな肩に掛けた。
「無理しないでくださいね。今夜は昨日より冷えそうですし」
麗質は目尻を下げて笑顔を見せ、礼を言ってくれた。
明天殿を出て、凍える寒さに自分の腕を抱きしめつつ歩く。相部屋の寝所のある宮に向かいながら、冬の寒々しい内廷を見渡す。
屋根の上には薄っすらと粉砂糖のように雪が積もり、軒下に吊るされた灯篭の明かりさえ冷たそうだ。
行き交う女官たちが踏みつけた為に、白い道には黒い通り道ができている。
宮と宮の間を、手持ち灯篭を手にした二人の人物が歩いていくのが視界に入る。
皇帝と俊熙だ。
二人の履く革靴が薄く積もる雪を踏む音だけが、かすかに聞こえる。
(陛下が、妃嬪の誰かを訪ねるのかしら?)
昼間、井戸の前で呂淑妃の侍女たちが、「最近陛下は淑妃様のご寝所をお訪ねにならない」と悲しんでいたのを見たばかりだ。
今夜は呂淑妃のもとへ行くのだと思いたい。
気になって視線で二人を追う。
だが二人は妃たちの住む宮ではなく、皇帝の寝所がある承天殿に入っていく。
どうやら今夜はどの妃も訪ねないようだ。
(私ですら少しがっかりしてしまうんだから、訪れを待つ妃嬪達の悲しみは、どれほど深いんだろう)
こんなに痺れるほど寒い冬の夜は、尚更辛さが身にしみるのではないか。
春帝国の宮城では、新年(旧暦)は官吏を始め女官たちに一斉に長期休暇が与えられる。
その為休みを目前に控えて、業務量は益々増えていた。
年の終わりが近づくにつれ、私は少し早めに起床するようになったが、それは他の女官たちも同じで、日が昇る前のまだ薄暗い時間から、内廷を女達や宦官たちが行き来している。
「珠蘭、これを戸部に持って行ってくれないか?」
安寧宮に向かっていた私に声をかけてきたのは、部下と歩く俊熙だった。
内常侍の頼みとあらば、断るわけにはいかない。
俊熙は私に一巻の竹簡を手渡してきた。
「竹簡だなんて、春帝国では珍しいですね」
竹簡は薄い竹を短冊状に並べ、紐で縛り丸めたものである。紙が貴重な華王国では、王宮でも殆ど竹簡が利用されていた。
春帝国に来てからは、ほぼ見ていなかった。
「それを戸部に、なるべく戸部侍郎に渡してきてくれ」
「えっ、あの戸部侍郎ですか」
つい嫌な顔をしてしまう。
「中はくれぐれも見ないでくれ」
「心得ています」
竹簡を両手に抱えると、私は改めて俊熙に尋ねた。
「年末年始の長期休暇は、蔡侍従のお邸に泊まらせてもらえますか?」
「ああ、勿論。そのつもりだよ」
「ありがとうございます」
俊熙に断られたら、行くところがない。
帰らないで宮城にとどまる女官もいるにはいるらしかったが、閑散とする広過ぎる宮城には、いたくないものだ。
安堵して歩きだしてしばらく経ち、後ろを何気なく振り返ると、俊熙がまだ立っていた。
腕を組んで私を見ている。
忙しい俊熙のことだ。いつもはすぐに仕事に戻るのに、今日は私を見送っている。
不思議に思いつつ、大和門をくぐる。
戸部に到着すると、若い官吏の取次ぎですぐに梓然の席まで案内された。
席は衝立てで仕切られており、彼の卓の向かいには、分厚い座布団を乗せた来客用と思しき長椅子が置かれていた。
そこに掛けるよう私に指示をすると、梓然は私から竹簡を受け取った。
そのまま自分は卓に竹簡を置き、ゆっくりと椅子に腰を下ろす。
梓然は卓の上に片肘をつき、やや身を乗り出して私を見た。そうして竹簡を開くことなく、後宮の妃嬪達の近況について私にあれこれと質問をし始めた。
後宮の女たちの情報はなかなか外にでないので、貴重なのだろう。
貴妃の懐妊に関する噂は、梓然も耳にしているらしかった。
しかし私もそもそも守秘義務というものがあり、聞かれるままに答えられるわけではない。
第一、貴妃にはほとんど会ったことがない。
「私は新入りの女官に過ぎませんので、よく知りません」
「だが、賢妃担当の女官であるし、あの出世株と呼び声高い麗質に教わっているではないか」
「そう仰られても。私など、伝書鳩のような仕事しか任されておりませんし」
あくまでも情報提供を突っぱねると、梓然は長い息を吐いた。
そしてちらりと視線を私の頭部にやると、今度は思わぬことを言った。
「――その髪飾りは実に良くできているな。まるで生花のように活き活きとしている」
梓然は私が髪に刺している髪飾りをひたと見ていた。
杏の花を模した薄紅色の花の髪飾りだが、絹で作られており、小花を取り付けた茶色く細い小枝まで実物に似せて作られており、遠目には本物の花のように見えるのだ。花弁の色の濃淡や、内側に緩く巻いた形に至るまで、丁寧に作られている。
女官は派手な装いが禁じられていて、仕事の邪魔になるような重たい装飾品はつけられない。その為、絹で作った飾りが流行しているのだ。
流石に妃嬪達がこれを真似することはないが、女官たちは自分達にできる範囲でお洒落を楽しんでいた。
しかし、梓然が女の持ち物を褒めるなんて珍しい。
私は単純にも少し気を良くした。
「ありがとうございます。私のお気に入り…」
「宮中に杏の木がたくさんあるだろう。以前、あの杏の実を市場で売れば幾らになるのか、試算したことがある」
一瞬面食らってしまい、反応に困った。
宮中の果物を販売しようなんて、考えたこともない。
「斬新な発想をお持ちなんですね。科挙を首席で合格された方は、流石に違いますね」
「褒められたと受け止めておこう」
「それで、利益は出そうでした?」
今度は梓然が一瞬詰まった。
その後で彼は破顔一笑した。
「この話を一笑に付さなかったのは、君が初めてだよ。珠蘭」
笑いを収めると、梓然は真面目な顔で言った。
「答えは、その労務を誰にさせるかで異なる。例えば流内官や女官がやれば、赤字にしかならない。人件費が高いからだ」
「下男や、末端の官吏なら違いますか?」
「多少の利益は出るな。――つまり、杏という果物の市場価格は、流内官にとっては安く、末端官吏には高い」
言葉を切ると、梓然は宙を見た。
その色素の薄い茶色の目を、ゆっくりと瞬いてから続けた。
「私の父は、地方官吏だった。貧乏官吏で、私は庭の枇杷を姉と路肩で売っていた」
意外過ぎるその体験談に、驚きを隠せない。
梓然の子供時代は、裕福だったに違いないと勝手に私は決めつけていた。
私自身は、お金には困ったことがなかった。
勿論、幸せに包まれた子供時代とは程遠かったが。
「杏に考えさせられますね。伝書鳩のような私の仕事は、杏を売るより価値がない気がするのに。経済的理屈で言えば、そうではないのですね」
私たちは幾度か瞬きをしながら、互いの顔を見つめた。
今まで守銭奴だの、開かない財布だの、ドケチだの、色々と言われてきたが、実際の梓然とはその評価は少し違う気がした。
梓然は私たちとは、別のものを見て、別の考え方をしているのだ。
私は今、初めてちゃんとこの戸部侍郎を見たような気さえした。
そう感じたのは梓然も同じだったらしい。
彼は小首を傾けた。
「そう来たか。君は、思っていた女性とは少し、違うな」
「戸部侍郎様も、思ったより楽しい方ですね」
「――蔡 珠蘭。私たちは、良き友になれそうだ」
返事に窮し、引きつる笑いを浮かべる。
一方で梓然は感慨深げにゆっくりと息を吐きながら、手にしていた竹簡を開き始める。私が運んできたものだ。
両手で竹簡を開きながら、そこに墨で書かれた字を、梓然の瞳が追いかける。
ふと、その微笑が消えた。
緩んでいた表情が消失し、今度は硬くなっていく。
竹簡を開く手さばきが早くなっていき、徐々にその整った眉間に皺が寄せられていく。
何か余程不快なことが書いてあるのだろうか。
私は少し不安になった。
ようやく口を開いた時、梓然の口調は非常に硬かった。
「この竹簡は、誰から預かった?」
「蔡侍従です」
馬鹿な、と梓然は漏らした。
梓然は竹簡を慎重な手つきで巻き直すと、急に立ち上がった。
「――何故私を選んだんだ……?」
「戸部侍郎様?」
真意がわからず、聞き返すと梓然は乱雑に首を左右に振った。
「いや、何でもない。忘れてくれ――珠蘭、もう結構だ。明天殿に戻りなさい」
その竹簡が梓然に与えた衝撃が分からず、消化不良のまま私は外廷を出た。
その日の午後は掃除で始まった。
何人もの女達が、雪に濡れた回廊で滑って転んだからだ。
木々や宮の瓦の上に雪が薄っすらと積もる景色は風情があったが、吹き込んだ雪の始末は大変だった。
下働きの女性たちは、宮の中に入ることが許されておらず、下級女官も廊下までだ。
必然的に部屋の中を掃除するのは、上級女官だった。
溶けた雪の冷たさに、指先を赤くしながら、私と麗質は端切れで床を拭いていく。
ふと顔を上げると、外の一角に女官たちが集まっていた、
興奮した様子で一人の話を皆で聞いている。
「何かしら?」
同じことに気づいた麗質も、柱の隙間から外を覗いている。
騒いでいる女官たちは、大和門の方角を指差している。どうやら外で何かあったらしい。
ひとしきり興奮が治ったらしい彼女たちは、不意に私の存在に気がつくと、こちらを指差し一斉に私の方を見た。
まさか彼女達は私の話をしているのだろうか。
掃除が終わり安寧宮の階段を下りると、女官たちが私を取り囲んだ。どうやら私を待っていたらしい。
先頭にいた花琳が、まくし立てる。
「珠蘭、大変よ。貴女のいとこの蔡侍従が、皇太后の叔父に殴られたのよ」
「蔡侍従が!?」
花琳が話し出す。
事の発端は、俊熙の部下、子忠という宦官が街中である一台の馬車を止めてしまったことだった。
馬車の前を幼児が突然横切り、偶然その場に居合わせた子忠がその子を避けさせようとしたのだという。だが止め方が乱暴だった為、馬車の車輪が外れ、横転しかけた。
運の悪いことに、車内にいたのは皇太后の叔父である劉 宇航という翰林学士だった。皇帝が即位した折、政務についてご進講をした官吏でもあり、貴族派官僚の筆頭だ。
子忠は怒った劉家の兵士にその場で捕らえられ、劉氏の邸宅に連行された。
翌日、部下を迎えに劉家を訪れた俊熙が、宇航に殴られたのだという。
「そんなの、蔡侍従は何も悪くないじゃないの」
一人の女官がそう言ってくれたが、皆押し黙った。善悪などより、相手が問題なのだ。
濡れた端切れを詰めた樽を抱えたまま、私と麗質が心配げに互いを見つめていると、パン、パン、と手が打たれ、皆が後ろの方を振り向く。
そこには首席女官がいた。
「何を集まっているの。皆、業務に戻りなさい」
女官たちがまだ物言いたげに散り散りになる中、私と麗質はしばらくその場を動かなかった。
ようやく樽の重さに気づき、負担を軽減しようと持ち方を変える。
「麗質さん、取り敢えず端切れを捨ててきましょうか……」
「そうね。そうしましょう」
集積所に向かおうと、二人で揃ってとぼとぼと歩き始めた。