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外廷へのおつかい

 後宮にいると、隣国華王国の情報はあまり入ってこない。

 女官や侍女達の井戸端会議の中にその名が出てきたとしても、出鱈目なことも多かった。

 自分の祖国が大変な時に、何も知ることができないもどかしさが、何をしていても心の中にあった。


 外廷に行きたい。

 正確な情報を手に入れるには、後宮の外に出るしかない。

 そう想って私は度々内侍省に赴いては、書類の運搬といった雑用を買って出た。

 そのうち皆から運搬係として認識されてしまい、宮城へ来てから二ヶ月経つ頃には、宦官や女官たちは私を探しては外廷へのお使いを頼むようになっていた。

 内廷から外廷は、結構な距離があったので、宮城で働く人々はその移動を面倒に思うようだった。




 一月になり、春帝国の帝都には雪がちらつくようになった。

 この日は外廷の医官院に書類を届ける仕事を頼まれていた。

 後宮を出ようと大和門の方向に歩いていると、尚食局の花琳(ファリン)が私の名を叫びながら、こちらへ走ってきた。


「珠蘭! ねぇ、やっと手に入ったのよ!」


 ゼェゼェと全身で呼吸しながら、花琳は私に一巻の巻物を押し付けてきた。


「花琳さん、これ何ですか?」

「いやだ、忘れちゃった? 螭舟(ちしゅう)の上で約束したじゃないのぉ。例の小説の第一巻よ!」


 例の小説……?

 何だろうと記憶を辿り、舟旅での出来事を思い出すや否や、私は悲鳴を上げた。


「ま、まさか、あの……女官達の間で大流行しているとかいう…」

「そう、そう! やだ本当に忘れてたのね。『万春殿日誌』よ! 人気過ぎて第一巻を借りるのに苦労したんだから! 味わって読んでね」


 味わう……。

 開く勇気もないのだが。


「第一巻は冒頭から二人の濃厚な場面で始まるけど、驚かないで。読み進めれば絶対にハマるから!」


 それは誰と誰の濃厚なアレなんだろう。いや、聞かなくても分かる気がする。

 寧ろ怖くて聞けない。

 震える手で巻物を持っていると、花琳の視線は私が左腕に抱え込んでいる他の書類や巻物に移る。


「あらっ。また外廷へのお使いを頼まれているのね。――間違って小説の方を渡して来ないでよ?」


 想像するだけで、血の気が引いた。




 医官院は、内廷からかなり離れている。

 絶対に官能小説の方を渡してしまわないよう、細心の注意を払って用事をすませると、医官の一人が私を労って茶を出してくれた。

 茶を貰いながら、しばし医官院の中庭で休憩を取る。

 ここは回廊に集っていた医官たちの話が、こちらにまで筒抜けだった。

 歳のせいで耳が遠い医官達の会話は自然と皆声が大きく、良く聞こえるのだ。

 私は茶をすするフリをしながら、彼らの話に耳を傾けた。

 彼らは少しだけ、隣国華王国の話をしていた。

 医官の一人が言うには、華王国で反旗を翻した子豪(ズハオ)を司令官とする新政府が、黒龍国軍に立て続けに勝利し、黒龍国は王都から撤退したらしい。

 今、黒龍国はかなり北東まで追い返され、両者の睨み合いが続いているとのことだ。

 その情報に私は密かに胸を撫で下ろした。

 二者の力が拮抗すれば、しばらくはかえって弟率いる華王国との衝突は起きにくく、安全だという気がしたのだ。


 書類を届け終えた私は、医官院を出ると辺りを好奇心から少し散策しながら歩いた。

 外廷の南東には初めて足を踏み入れたのだ。この国の宮城はとても広大で、それこそ一つの街に匹敵する規模がある。

 後宮の周辺とは違い、一つ一つの建物の間を走る道は広く、土塀もないので開放的だった。

 かじかむ手に吐息をかけ、道を進んでいると、背後から名を呼ばれた。


「蔡 珠蘭?」


 ぎょっとして振り返ると、そこには戸部侍郎の梓然(ズレン)がいた。

 彼は同僚らしき連れの男を先に行かせると、私の方に真っ直ぐに歩いてきた。

 膝を曲げて、頭を下げる。


「戸部侍郎様、お久しぶりです」

「こんな所で何をしている?」

「書類を届ける為に、後宮を出ておりました」

「書類? それか?」


 梓然の抜け目のない黒い目は、私が右手に持つ巻物にひたと当てられている。

 その瞬間、身体中の血が頭に上ったかと思うほど、私の顔が熱くなった。

 ――この巻物だけは見せられない。


「ち、違います。医官院での用向きは終わりましたので、今戻る所です」

「医官院? ここは大和門と反対方向だぞ。道に迷ったのか?」

「違います、ただちょっと」

「ちょっと何だ? 女官がこんな外廷の端を彷徨いてどうするつもりだ。怪しいな。――待て、背中に今何を隠した?」


 まずい。

 背後に回した例の小説の巻物に、目敏く梓然が気づいてしまった。

 だが断じてこれを紹介する訳にはいかない。


「特に、何も」

「私の目は誤魔化せないぞ。――蔡侍従は何を企んでいるのだ」


 俊熙は関係ない、そう言おうとした矢先、梓然が私の背中に手を伸ばす。

 彼の手が巻物を掴み、私の手から引き抜こうとする。


「こ、これだけはお見せできません!」


 死んでも見せられない……!

 官能小説とやらを、ましてやその主人公の一人に。


「まさか、内廷の文書を宮城の外に持ち出そうとしたのではないだろうな?」

「違います、これは私物です」

「華王国は紙が一般的ではないと聞いている。それにしては古そうではないか。本当に私物か?」

「厳密に言えば、女官から借りているものです」

「あやしいな。公文書の漏洩は重罪だぞ」


 背中を冷や汗が転がり落ち、もはや逃げ出そうかと本気で考えた矢先。

 

「そこで何をしている?」


 鋭い声が飛んできたのは、まさにその時だった。

 私と梓然は驚いて声の方向を振り向く。

 そこにいたのは、眼光鋭く私たちを見つめている俊熙と、その少し後ろにいる皇帝だった。


「皇帝陛下!」


 私と梓然は慌てて膝を折った。

 俊熙は私の前に歩いてくると、口を開いた。


「宮城の外れで油を売ってないで、真っ直ぐ帰りなさい」


 俊熙の漆黒の双眸は怒りを孕んで鋭く私に落とされている。

 皇帝は半分笑いながらこちらに歩いてきていた。


「珍しい取り合わせを見るな。戸部侍郎と、女官の珠蘭か」


 皇帝の彫りの深い顔が何やら愉快そうに崩れ、その大きな瞳が私と梓然の二人を往復する。


「戸部侍郎、そなたは長年浮いた噂一つなかったが、意外にも手は早いのだな。なんと蔡侍従のいとこ殿に手を出していたとは」

「陛下! おそれながら申し上げますが、それは誤解です」

「――梓然、相手を見誤ると、身を滅ぼすぞ?」


 急に皇帝の声が低くなり、その表情から笑みも消える。


「珠蘭に何をしていた、梓然」


 皇帝がやや凄みながら梓然を詰問する。

 名を呼ばれた梓然は頭を下げ、膝を地面についた。皇帝の怒りに気づいたのだ。

 そこへ俊熙が鬼の形相で畳み掛ける。


「答えよ、何故黙っている?」


 私は巻物を裳の襞に隠しつつ、前に進んだ。

 ことをこれ以上荒だてたくなかった。

 コトがコトなだけに。


「陛下、お見苦しいところをお見せして申し訳ありません」

「珠蘭、黙っていなさい」


 止めに入る俊熙を無視し、続ける。


「戸部侍郎様が道に迷った私に、ご親切にも声を掛けて下さったのです」


 なんだと、と皇帝が表情を緩める。


「広すぎて完全に方向を失っておりました。そこを通りかかった戸部侍郎様が、助けて下さいました」

「なんと、まことか?」


 皇帝が梓然に問うと、彼はただ黙って頭を下げた。

  皇帝と俊熙が立ち去ると、梓然はようやく立ち上がった。

 そして彼は脱力した顔で私を見た。


「助かった。借りはいつか、必ず返す」

「借りだなんて、とんでもありません」


 半分本当で、半分嘘だ。


「――はなから疑ったりして、申し訳なかった」


 素早く詫びると、梓然は駆け足でその場を去って行った。

 一人になるとようやく私は溜め息をつき、巻物を裳の襞の間から取り出した。


(ああ、良かった。どうなることかと思った……)


 花琳もこの小説を渡す時機が悪過ぎる。

 辺りに誰もいないのを確かめた後で、ゆっくりと巻物を開き始める。


「な、何コレ……」


 のっけから、凄まじい場面だった。

 汗だくの男性二人が、裸で抱き合っている描写から物語は始まっている。

 巻物を持つ手が震える。

 先に名前が登場するのは梓然の方だった。

 梓然は戸部尚書らしく、作者が勝手に現実より出世させていた。そしてその梓然が「愛しげに囁く恋人の名前」こそ、俊熙だった。

 あまりの展開に、目が離せない。

 物語の中の季節も冬らしく、「殿舎の外では粉雪が舞っている」らしい。そんな寒い季節に、汗だくとは、これいかに。

 巻物を更に開いて続きを読み進めようと思った直後、巻物の上に影が差した。

 心臓が凍りつく思いで顔を上げると、そこには俊熙が立っていた。


「蔡侍従!? 陛下と行ったんじゃ……」

「貴女が心配で、戻ってきたんですよ。――それ、何です?」


 私が慌てて閉じた巻物に、今度は俊熙が関心を持っている。

 どうして次々主役二人に見つからないといけないのか。


「何でもないから!」

「先程は戸部侍郎に何をされていたのですか? もしや本当に言い寄られていたのでは?」

「そんなんじゃないから」

「科挙を首席で合格した男です……。将来最も有望な官吏の一人です。――女官達からも人気があると聞きます」


 ちがう、そういう感情は全然ない。

 歩き始めた俊熙を、懸命に追う。


「俊熙……蔡侍従、私と戸部侍郎様はそんな関係じゃないわよ!」

「ここは華王国ではありません」


 俊熙は足を止め、自嘲気味に笑った。


「貴女がお幸せなら、それで結構」

「違う。私の幸せはそんなじゃない…」

 

 私は俊熙の正面に立った。


「子どもの頃から、――いえ、あの日から私の幸せは決まっているわ。貴方がそばにいて、慎お兄様が私のところに戻ってくれることよ」


 私は自分の腰帯からぶら下がる木の環飾りを手に取った。


「この木環を覚えている? あの……、あの夜の約束も」

「――何のことでしょう?」


 目を逸らして先へ進もうとする俊熙の二の腕を引っ張る。


「あの瑪瑙の玉環は、してくれてないのね。もう持っていない?……もしかして、売ってしまったの?」

「売るはずがないでしょう」


 じゃあ、持っていてくれているのだ。

 身につけてはくれていなくても、まだ持っている。それだけで嬉しい。


「私、貴方が宦官だろうと何だろうと、貴方のことが好……」

「私が貴女を戦乱から助けたからといって、それを恩義に感じることはありません。――何より、貴女は今の私の姿を見て、失望したはずだ」


 すぐに言い返せなかった。

 たしかに、私は俊熙の屋敷で、彼に宦官になったと告げられ、とても衝撃を受けて……、いや、はっきり言えば失望した。

 言い澱む私の表情から、俊熙は全てを読み取った。

 俊熙は辛そうに顔を歪めた。その切れ長の目元が、負の感情に陰る。


「私も、この紺色の官服を纏った姿をお見せしたくはありませんでしたよ。――けれど、黒龍国の動きがあまりに早過ぎました」

「宦官だろうと、私にとって俊熙は俊熙よ」

「貴女の命は助けましたが、心を寄越せと脅すつもりはありません」


 そんなんじゃない、そう言いかけて、私の手から巻物が滑る。巻物を巻き留める紐に指を掛け、持ち直そうとするも、逆に巻物が開いた状態で落下し、地面を転がる。


「……」

「……」


 拾う暇はなかった。

 というより、今更拾っても無駄だろう。

 巻物はご丁寧に俊熙に読みやすい方向に転がり、私が顔を上げる頃には、彼の綺麗な目は文字列に沿って既に動いていた。

 地獄のような沈黙がしばし続いた。

 ようやく口を開いたとき、俊熙の声は恐ろしく低かった。


「コレ、何です?」


 こんなに低い声を初めて聞くかもしれない。


「な、なんて言うか。し、小説? 女官たちの妄想の」

「妄想……?」


 俊熙が屈み、巻物を拾う。

 汚物をつまみあげるような、指先だけの持ち方で。


「あの、冒頭がちょっと激し過ぎよねぇ……」


 とはいえ私も冒頭しか読んでいないのだが。

 俊熙の感情を削ぎ落としたような、無表情が怖い。恐怖をかえって助長する。


「執筆者は、誰です? どこに配属の、何という名の女官です?」

 

 まずい。

 俊熙は後宮の女官の人事権を持つ、内侍省の宦官だ。しかも省内で二番目の地位にいる、内常侍だ。

 下手すれば読んだ女官が全員、解雇になりかねない。そうしたら一体、何人後宮に残れるのだろう。


「私、実はそれを安寧宮のそばで拾っただけなの! だから」

「安寧宮。ということは、晶賢妃の女官か侍女か」

「あっ、明天殿だったかな?」

「では尚服局の女官か」

「違った、大和門の前で拾ったのかも!」


 俊熙は凄みのある目で私を睨んだ。


「――これは、大変な屈辱ですよ」


 ええ、そうでしょうとも。

 気持ちは察するに余りある。

 俊熙は巻物を閉じると、速足で歩き始めた。

 どこへ行こうと言うのか。


「その巻物をどうするの? 陛下にお見せするの?」

「そんな訳ないでしょう。お目汚しも甚だしい」

「じゃあ、一体…」

「私が処分致します。燃やして全て灰にする」

「ええっ! そんなの困るわ。借りているものな…」


 しまった。

 語るに落ちた。

 俊熙はピタリと足を止め、時間をかけて私を振りむく。その妙に妖艶な流し目を受け、束の間呼吸が止まる。


「誰に、借りられたのです?」


 ひえぇぇ。


「ゆ、許して頂戴。でも今更燃やしても無駄なのよ。だって、二十一巻まで出ているし、皆の記憶の中までは消せないでしょう。――これ、大人気なのよ!!」


 私が力一杯訴えると、俊熙は不愉快そうに顔をしかめた。

 そこへ私は、駄目押しの一手を打ち込む。


「女官達は、みんな愛読者なんだから!!」


 俊熙は硬直してしまった。

 相当な衝撃を受けたらしい俊熙の手から、強引に巻物を奪い返すと、私は脱兎のごとくその場を駆け去った。



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