逃亡
――捕まったら、殺される。
詩月王女はひたすら走った。
気がついた時には、彼女は一人きりになっていた。
共に逃げていた侍女や護衛たちが、どうなったかは最早分からない。
背後から放たれた矢に驚き、馬はとうにどこかへ駆け去った。
詩月はただ前を見て、森の中を走り続けた。
頭上の美しい簪たちは、邪魔なので抜き、投げ捨てた。
肩周りで儚げに揺れる披帛は、木の枝で無惨に千切られ、見る影もない。
土で汚れた手で流れる汗を拭い、顔は泥に塗れ真っ黒だ。
敵は王族を一人残らず探し出して、殺害しているという。
王女である詩月も、例外ではないだろう。
捕まれば最後、自分に待っているのは死しかない。
突然詩月の身体が宙に飛ぶ。
その一瞬後で、彼女は森の茂みの上に叩きつけられた。
地面にあった倒木に足を取られ、転倒したのだ。
(起きなくちゃ。立って、逃げないと……!)
だが詩月は動けなかった。
身体が鉛のように疲れ切っていたからだ。
一度倒れてしまえば、もう立ち上がることは出来ないほど、限界まで疲労を感じていた。
(服が、重い……)
王宮を逃げ出す時に、自分のもとに残ってくれた侍女が、必死に着せてくれた襦裙だ。
細工がしてあり、一番下に着ている肌着に詩月の全財産である宝石や装身具が、隙間なく縫い付けられている。
二度と王宮に戻れないと悟ったからこそ、侍女は王女である詩月に全てを持たせたのだ。
逃亡後に困らないようにとの涙ぐましい気遣いの賜物だったが、あまりに重かった。
今は服の重さで地面に縫い付けられたかのように、詩月の動きを封じている。
――重くて、苦しい。
まもなく詩月は気を失った。
「おい、起きろ」
声と共に頰を叩かれ、詩月は目を開けた。
視界は霞み、よく見えない。
辺りには霧がかかり、自分がまるで乳白色の水の底に沈んでいるように思える。
淀んだ水の如く濃い霧が漂い、身体の横にある木の根元に絡みつく蔦の葉すらも、視界に現れては消える。
「お前は、誰だ。なぜこの神聖な森にいる」
再び頰を叩かれる。
それは何かの金属のように固く、冷たいものだった。
狼狽える詩月の視界にようやく入ったのは、銀色に輝く装飾がされた、黒くて長い棒状の何かだった。
(剣の、鞘だ――)
男が詩月の前に立ち、彼女の頰を鞘の先で小突いているのだ。
「――お前、まさか……。顔を見せろ!」
驚きで掠れる声でそう呟くと、男は剣を放った。直後、男は膝をついて屈み、詩月の汚れた顔を自身の袖で拭った。
やがて男は彼女の二の腕を掴み、上半身を抱き起こそうとした。
詩月の顔が苦痛に歪む。
その身体の不自然な重さに首を傾げつつ、男は詩月を更に起こそうと彼女の背に手を当てた。
途端に男は眉をひそめる。
詩月の襦裙の下に、何か異様に硬い物があると気づいたのだ。
男は剣を鞘から抜いて、詩月に向けた。
剣先を彼女の胸元から腹部に滑らせる。
(――ああ、刺される)
もう終わりだ、殺されるのだと詩月は目を閉じた。
抵抗する体力はもうどこにも残っていない。
枯葉の上に落ちる自分の手を這う蟻すら、払う気力がないのだ。
だが男の剣は詩月の裳を結ぶ帯に向かうと、その結び目に引っ掛けられた。鋭い剣先が一気に引かれ、帯が破れる。
痛みがいつまでもやってこないことを不思議に感じた詩月が目を開けると、男は彼女の胸元の衣の合わせに手を掛けていた。
不意に冷たい空気と、湿り気を帯びた風を肩に感じる。
男は詩月の服を脱がせ始めていたのだ。
裳がずり落ち、男の手が無遠慮に詩月の襦裙の襟を大きく広げる。
胸元が露わになる。
「や、めて」
蚊の鳴くような声で、抗議する。
だが次の瞬間、詩月の喉からひゅっと息が漏れる。
無粋な男の手が、詩月の肌着に触れ、弄るように押し当てられた。
その手があちこちを往復する度、縫い付けられた宝飾品たちが金属音を出す。
男の手が詩月から離れると、彼はしばし硬直した。
男は剣を鞘にしまい、詩月のとなりに屈むと言った。
「全部ここでお捨てください。貴女には、重過ぎます。――詩月様」
なぜこの男は自分の名を知っているのだろう?
懸命に瞼に力を入れ、詩月は再び目を開いた。
目の前に立ち、自分を睥睨しているのは、予想もしない人物だった。