舟旅に君臨する皇太后
翌日、日が昇ると舟から見える景色は圧巻だった。
川面を白い霧が滑り、背後の森林をぼかす。まるで水墨画の世界が、現実にあらわれたような、幻想的な風景が広がっている。
霧が晴れわたった後の河は次々と表情を変え、飽きない。
河岸の白い崖がまるで切り立つ白い壁のように続いたかと思うと、やがて燃えるような紅葉が美しい木々に囲まれる。
時折河岸に見える屋敷も、風情がある。
皇太后や妃たちは、連れてきた宮城の楽団に望楼で楽器を演奏させていた。
二層目にいると、上階の華やかな演奏が漏れ聞こえてくる。
控え目で正確なその演奏の隙間を埋めるように、時折妃達の笑い声や話し声が聞こえる。
外廊下に設置された欄干に寄りかかり、川面を見つめていると、私の隣に人が立った。
顔を上げると、それは俊熙だった。
彼は楽器の音が聞こえてくる窓を見上げながら、言った。
「賑やかですね」
「毎年こんな感じなの?」
「皇帝陛下が同行なさった時は、灯篭で河が昼間のように明るかったですよ。ですが騒がしいのは龍舟より螭舟の方ですね」
そうなんだ、と相槌を打ちながらも、頭の中は花琳が衛士から仕入れた噂話で一杯になる。
私は漏れ聞こえる音楽に耳を傾けている俊熙に、思い切って尋ねた。
「俊熙、貴方って、お、お付き合いしている女性はいるの?」
振り返った俊熙は片眉をひそめ、物凄く奇妙なことを聞かれた、といった表情だった。
「なんです? 唐突に」
「いえ、あの。――貴方は私のいとこだから、色々女官仲間たちから聞かれるのよ」
「それなら『いない』、と伝えておいて下さい」
幾らか不機嫌になった様子で、俊熙は答えた。
こういう話はしたくなかったのだろう。
その時、丁度筝の演奏が終わり、代わりに琵琶の演奏が始まった。
慌てて元の話題に戻す。
「琵琶が素晴らしいわね。川の上とは思えないほど、音が伸びやかだわ。とても腕の良い楽人がいるのね」
「……貴女は、二胡がお上手だった」
俊熙は再び窓を見上げ、そう呟いた。
たしかに二胡は得意だった。好きだったというより、私はどちらかといえば端の宮で暇を持て余し、音楽に逃げていた気がする。
「いつでも弾くわよ。――楽器さえあれば」
「私の家にはあります。今度お願い致します」
俊熙はそう言うと、水面に視線を投げた。
「丁度旅の折り返し地点に来ています。もうすぐ舟が引き返します」
私は船首の方を見た。
俊熙が、ぼそりと呟いた。
「この先、このまま西に進めば華王国ですね」
その台詞につられ、豊かに流れ続ける水と、その先を見つめる。だが華王国は遠く、ましてや王都など見えやしない。
それでも私は呟いた。
「鈴玉……。慎お兄様……」
私が無事だと、どうか知ってほしい。
でも知らせのしようがない。
「華国王は、まだ湖東州で抵抗を続けているのかしら?」
「何も報せがないから、そうなのでしょうね」
「他の王女たちはどうなったかしら」
「腹違いの姉妹達が、ご心配ですか?」
それはそうよ、と答えると俊熙は一度私を見た後、冷めた目で河に視線を戻した。
「自分たちの保身の為に、まだ十三歳の貴女を隣国の変態老人に嫁がせようとした姉妹なのに?」
変態老人とは、清雅国の国王のことだろう。
「でも結局破談になったわ」
「それは結果論に過ぎません。もし清雅国王が肺炎になっていなかったら、と想像するとゾッとします」
俊熙は視線を西の方に投げたままだった。だがその瞳は酷く暗い。
河を渡る風は強く、湿り気を帯びてかつ冷たかった。
髪を結い上げている為に、首と襟周りに吹き込む風が、体温を奪う。
寒くて女官たちの控え室にもう戻りたかったが、身体は動かなかった。
舳先に寄りかかり、風に揺れる後れ毛を払いもせず、じっと遠くを見ている俊熙の綺麗な横顔から、私はただ目を離せなかった。
復路では螭舟の周囲に鴎達がやってきた。
誰が始めたのか、いつの間にか侍女達が食べ残しの肉包の欠片を手に、鴎に餌をやっていた。
無数の白い鴎達が飛び交い、キャーッ、キャーッ、と甲高く鳴いている。
肉包を千切り、小さな棒状にして川に向かって差し出せば、狙いを定めた鴎が飛びながら肉包を嘴で取り、風に乗る凧のようにまた飛び去っていく。
人の手に止まることなく、また手を傷つけることなく上手いこと餌をもらうその姿が面白く、やがて妃達まで餌やりに参加し始めた。
その様子を皇太后は微笑ましそうに見つめている。自身は鴎が怖いのか、もしくは万一傷つけられることを恐れてか、餌やりには混ざろうとしない。
皇太后は舳先に設置された腰掛け座り、誰にとでもなく言った。
「まこと、舟旅は楽しいわ。黄貴妃が参加できず、返す返すも残念だわ」
その一言でその場にいた皆が、焦る。
誰もが相槌に困り、口を開きかねた。
そこへ柔らかな声音で皇太后に話しかけ、場の空気をまろやかにしたのは、晶賢妃だった。
晶賢妃は肉包を鴎に向けて差し出しながら言った。
「今年もお誘い下さり、誠にありがとうございます。黄貴妃様も、来年はきっと来られましょう」
すると皇太后は扇子を口元に広げ、首を微かに傾けた。目の周りに太く引かれた水色の化粧が、どこか艶かしい。
少し厚めの唇に乗る真紅の紅といい、皇太后は三人の美しい妃たちの中にいても、やはり際立って華があった。
皇太后は誰にとでもなく、口を開いた。
「そう言えば、後宮の才人の一人が、もうじき産み月に入るわね」
才人とは、春帝国の皇帝の妻の一人だ。後宮にいる女達の中では、それほど高い地位にはいない。四人いる妃達の下には九賓がいて、才人はさらにその下に位置する。
その為、もし才人に男児が生まれても、皇太子として皇帝の後継につける可能性は低い。
だからなのか、さほど後宮内では注目を集めていなかった。
「公主どのの良き遊び相手になるであろう」
皇太后がそう言うと、晶賢妃はにっこりと微笑んで頷いた。
皇太后は手にしていた扇子をハラリ、と閉じた。そうしてふと思いついたかのように言った。
「時に……、黄貴妃に懐妊の兆しがあると耳にしたが、知っている者はおるか?」
またしても、誰もが押し黙った。
その発言内容に、賑やかな空気が凍りつく。
餌を千切る手が止まり、上空を舞う鴎達の鳴き声だけが、騒がしい。
花琳が麗質の腕を指先でつつき、囁く。
「何、初耳なんだけど。本当?」
「しっ!」
滅多な会話を妃達に聞かれたくない麗質が、花琳を睨む。
皇太后の問いかけに対し、一番に答えたのは晶賢妃だった。
「そのようなお話は、わたくしは聞いておりませんわ。体調が優れないので、後宮に残られたとしか」
穏やかに答えた晶賢妃に対し、呂淑妃は焦り気味に言った。
「わ、わたくしも知りませんっ。そ、それにきっと女の子ですわ。だって黄貴妃は大人しい方ですもの」
この頓珍漢で駆け足過ぎる返答に、皇太后は眉根を寄せた。若干気分を害したようだ。
これではまるで皇太后が皇帝に男児が生まれることを、望んでいないように聞こえる。
張徳妃はまだ十代とは思えない、凄みのある声で言った。
「それが本当ならば、なぜ黄貴妃はご懐妊を隠されるのかしら?」
場の空気をどうしていいのかわからなくなったのか、混乱した呂淑妃は肉包を千切っては自分で食べ始めた。
彼女の頭上を鴎たちが不満げに飛び交う。
やがて一羽の鴎が良い仕事をした。
呂淑妃の肩の上に、糞をしたのだ。ふくよかなので、面積的に当たりやすかったのだろう。
真っ先に気がついた晶賢妃が、彼女に歩み寄る。
「まぁ、大変。半臂が汚れてしまっているわ。麗質! 来て頂戴」
突如声を掛けられた麗質は、弾かれたように二人のもとに行く。
麗質が呂淑妃を着替えさせる為に、彼女を連れて舳先を離れる。
私は賢妃のそばに行き、彼女に話しかけた。
「晶賢妃様、披帛に鳥の羽がついております。披帛をかえましょう」
晶賢妃はにっこりと微笑んだ。
「ありがとう。とても助かるわ」
実際には鳥の羽などついていなかったが、この場を解散させた方がいいと思ったのだ。
晶賢妃も麗質や淑妃とともに、甲板を離れる。
二人の妃たちが部屋の中に行ってしまうと、皇太后は退屈そうに扇子を放り出した。
残された張徳妃は不服そうに目を座らせ、皇太后に言った。
「たとえ黄貴妃に皇子が生まれても、長子は私の湧王なことに変わりはないわ」
皇太后はそれに答えず、代わりに軽く溜め息をついた。そうしてそばにいた自分の侍女に命じた。
「俊熙をここに連れておいで。碁を打とう」
この場に突然引きずり出され、空気を良くするという重責を担う羽目になる俊熙に私は同情を禁じ得なかったが、女官たちはあからさまに安堵の表情を浮かべた。
俊熙はまもなく訪れた。
彼は不満を露わに舳先で爪を噛む徳妃を見とめるや、怪訝そうに微かに眉をひそめ、けれどすぐに真顔に戻った。
流れるような美しい所作で頭を下げる。
「お呼びでしょうか、皇太后陛下」
皇太后は俊熙の登場に機嫌をよくしたのか、極上の笑顔を見せた。
「まだ帝都に着くまでは時間がある。碁の相手を致せ」
皇太后が座る席の向かいに俊熙が腰を下ろすと、侍女が碁盤を持ってきた。二人の間の小卓に置くと、黒と白の碁石を二人に手渡す。
「今日こそは、わたくしが勝つわよ、俊熙」
碁石を人差し指と中指の指先で摘むと、皇太后は不敵に笑う。
俊熙も微かに微笑んだ。
「受けて立ちましょう、皇太后陛下」
二人の囲碁が始まると、張徳妃は鴎など一切興味がなかったかのように、そそくさと舳先から消えた。彼女の肩にも鴎の糞らしきものがついていたが、なぜか誰も声を掛けない。
皇太后は碁を打ち進めながら、時折顔を上げた。 そうして少し瞳を潤ませて、ほぅ、と吐息を漏らしながら呟いた。
「本当に美しい宦官だねぇ。目の保養になるよ」
少しずつ皇太后は劣勢に傾いていたが、そんなことはどこ吹く風、と皇太后は俊熙ばかりを見つめていた。
そして私も、気づけば俊熙ばかりを見つめていた。




