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兄の偽者たち

「昨日、戸部侍郎の梓然様と会ったの?」


 昼食の麺をすすりながら、麗質が聞いてくる。

 後宮の女官の食事時間は決まっていなく、仕事が空いた時間に食べるのだ。

 私には熱くてとてもすすれやしない麺を、麗質はなんの躊躇いもなく食べ進めている。


「そうなんですが、戸部侍郎様に色々聞かれて困ってしまいました。ただ運ぶように頼まれたと思ったんですが、女官も書類の内容を把握していないといけないんですね」

「えっ、そんな必要ないわよ。そもそも書類を勝手に読んだらだめでしょう」


 言われてみれば確かにそうかもしれない。

 となると、もしや私にだけ突っかかってきたのだろうか。

 その疑問をぶつけてみると、意外にも麗質は神妙な表情になり、言いにくそうに口を開いた。


「そうかもしれないわね。だって蔡侍従と戸部侍郎って、正反対の立場だものね」

「反対の立場って?」

「今の戸部侍郎は九年前の科挙の、首席合格者だったのよ」


 首席。

 なるほど、たしかに矜持が高そうだった。

 しかも九年で戸部侍郎に這い上がれるとは、驚きだ。余程仕事ができるか、出世欲の塊なのだろう。


「宦官と科挙上がりの官吏は、対立しやすいの」

「どうしてですか?」


 疑問をぶつけると、麗質は一から説明をしてくれた。

 春帝国には科挙合格以外にも、上級官僚の採用方法がある。

 父親の地位を引き継いで官僚になるという、世襲による方法だ。むしろ採用枠はそちらの方が遥かに大きい。

 後者は貴族の子弟たちだけが恩恵を受けられる為、科挙上がりの官吏たちからは(すこぶ)る評判が悪い。

 その為外廷内にも派閥ができ、官吏たちは貴族出身派と科挙合格派での争いが絶えないのだという。


「宦官は貴族派と近いのよ。だから、蔡侍従と科挙派官僚の梓然様は、仲が悪いのよ」

「めんどくさそう……。後宮より厄介そうですね」

「後宮の人間関係もある程度、無関係ではないわよ。皇太后様は、貴族派と仲が良いし」


 巻き込まれたら大変だ。

 洗った手巾が乾いたら、さっさと返してなるべく関わらないようにしよう。





 午後になると、急いで刺繍を終わらせて捻出した空き時間に、大和門を出て外廷に向かった。

 宮城の建物は全て碁盤の目状に規則正しく配置されているので、道に迷うことなく分かりやすい。

 戸部が入る殿舎を見つけると、速足で階段を上がる。

 春帝国の女官が履く裳は、生地がたっぷりと使われていて、尚且つ長いので手で裾を持ち上げながら上らないと裾を踏んでしまう。

 中に入ると、丁度外に出て行く官吏とぶつかりそうになった。

 後宮とは違い、外廷はいつも誰かが走っていて忙しない雰囲気がある。

 新入りの女官に過ぎない私が、奥まで入って戸部侍郎を直接訪ねるのは、失礼に当たる。入り口付近にいる若い官吏に声を掛け、梓然に昨夜借りた手巾を預けると、さっさと退散する。


(やれやれ、やっと肩の荷が下りたわ)


 借りたものを返すと、足取りも軽くなる。

 弾むように階段を下り、一番下にたどり着いた時、後ろから声を掛けられた。


「待て、蔡 珠蘭」


 聞き覚えのある声だった。まさか、と引き攣りつつ振り返ると、殿舎に続く階段の最上段に梓然がいた。


「逃げるように帰らなくともよかろう。挨拶もなく帰るとは、それが蔡家の礼儀か?」


 戸部侍郎様は、今日も私に突っかかりたいらしい。

 嫌味を言いながらゆっくりと階段を下りてくる梓然を、階下で待つ。

 心の中で溜め息をつきながら。


「申し訳ありません」


 一応頭を下げると、下まで下りてきた梓然は目の前に仁王立ちになった。片手に何やら巻物を持っている。嫌な予感しかしない。


「――手巾に墨の染みが残るかと思っていたが、見事に落ちていたので、驚いた。流石、後宮の洗濯房の仕事は違うな」


 洗濯房の仕事?

 梓然は洗濯房の女官がこれを洗ったと思っているようだ。

 手巾一枚とはいえ、彼女たちの仕事をわざわざ増やすような真似はしたくないので、頼んだりしていない。一応訂正しておく。


「お借りした手巾は、私が洗いました」


  そういうと梓然は驚いたように目を見開いた。


「これは失礼した。しかし、実によく落ちているな」


 ここまで落とすにはかなり苦労した。

 墨を落とすには炊いた米を擦り付け、米に吸着させるのが一番なのだが、落ち切らなかった。

 そこで根気よく擦っても叩いてもだめ。結局洗濯房の洗剤を借りて、五回も擦り洗いをしたのだ。

 擦りすぎて手の皮が一部、剥けてしまった。

 梓然は手巾を広げ、しみじみと眺めた。

 四隅に刺繍された鳥は、小さいながらも繊細で美しい。思わず尋ねてしまう。


「綺麗な刺繍ですね。奥様がなさったのですか?」


 梓然は不思議そうに数回瞬きをした。

 手元の己の手巾に改めて視線を落とし、はっとその四隅を見つめ、ようやく合点かいったような表情をしている。

 きっと、今まで刺繍を気に留めてすらいなかったのだろう。


「これは単に店で買ったものだ。――私は未婚だ。妻はいない」

「それは……失礼しました」


 戸部侍郎の地位にいるのだ。まさか独身だとは思わなかった。

 手巾を畳んでしまい込むと、戸部侍郎は不敵な笑みを浮かべた。


「それにしても良いところへ来てくれた。これを内侍省に持って行ってくれ。全て差し戻しの決裁文書だ」


 予感は的中した。

 差し戻しの鬼なのだろう。

 梓然は手にしていた巻物を私によこした。

 左手を差し出すと、彼は私の人差し指に巻かれている包帯に気がついた。


「その怪我はどうした?」


 まさか貴方様の手巾を擦り洗いし過ぎて、怪我をしましたとは言えない。

 思いついた言い訳を、それらしく話す。


「晶賢妃が今度の舟旅にお持ちする裳を調整している時に、切ってしまいました」

「ああ、例の舟旅は来月だったか。今年は皇帝陛下が参加されないので、予算が半減している。実に素晴らしいことだ」

「去年までは参加されていたのですか?」

「そうだ。今年はご英断された」


 どうも梓然は皇太后を良く思っていないようだ。

 そして皇帝は皇太后のお誘いを断ったりして、大丈夫だったのだろうか。

 今年の舟旅では、皇太后の前では絶対に皇帝の話題を出さないようにしなければ、と胸に刻む。





 女官は基本的に、内廷の外に出ることがない。

 年に数回ある新年等の長期休暇以外は、内廷の宮に寝泊まりをする。

 その為、宮城からの一時的な外出については、女官たちが交代で出来る決まりになっていた。大抵の場合、そのような外出の時間は街中での買い物に使われた。

 私が宮城に来てから二週間ほど経ったある日、ようやく私が外に出て良い日が巡ってきた。


 俊熙から借りているお金を握り締め、市場でちょっとした物を買う。

 そもそも私は一応王女だったので、華王国では買い物という行為をほとんどしてこなかった。

 王宮が攻められ、華王国を出てから春帝国に辿り着くまで、俊熙と一緒に道中買い物をしたが、いまだ私は慣れていなかった。

 店によっては値段が交渉次第だったし、商品に触っていいのか、とかそもそもどこでお金を払うのか分かりにくいお店もあった。

 不慣れなせいで、価格を吹っかけられていて、損をしているような気がして仕方がないが、何とか要りようなものを買うと、私はある場所に向かった。

 祖母が住んでいた邸だ。


 通りを進んで行くと、旧親王邸の立派な門構えが見えてくる。


(今日は、もしかしたらいるかもしれない……)


 そんな希望を胸に、次第に速足になる。

 だがふと違和感を覚えた。

 門の左右に、大柄な男が二人立っている。

 その少し手前にも、何をするでもない男が、道の真ん中に立っていた。

 彼等は周囲を窺うように、視線を絶えず巡らせていた。


(泥棒かしら?)


 邸が無人なのを知って、押し入るつもりなのかもしれない。

 そう思いかけたが、いや、違うとまもなく気がつく。

 門の様子は前回来た時と何ら変わらなかった。

 破れた飾りもそのまま。

 門を叩くまでもないだろう。――きっと留守だ。

 だが、男たちには動く様子がない。

 自然と私の歩みが遅くなる。


(お祖母様の邸を、見張っている……?)


 目を合わせないように前方を向き、祖母の門の前を通り過ぎる。できる限りただの通行人の一人を装う。

 私の動きを追うように、門の前にいる男たちの顔が動く。

 どくどくと心臓が鳴る。

 男たちが完全に私の視界から消えても、怖くて振り返れない。

 振り返れば何か怪しまれる気がした。

 通りを曲がっても、振り返る勇気がなかった。

 歩きながら、皇帝の話を思い出した。

「李 詩月の行方には、懸賞金がかけられている」

 私の祖母が春帝国に住んでいることは、黒龍国の奴らも知っているはずだ。

 まさか、まさか?

 私を探している?

 私の顔を知る者達は限られる。

 それでも怖くなり、私は駆け足で宮城への道を戻り始めた。

 次第に恐ろしくなり、宮城の正門である南の門に着く頃には、全速力で駆けていた。




 宮城に戻ると、俊熙の元に向かう。

 後宮を区切る大和門に近づくと、偶然にも俊熙が中から出てくるところだった。

 彼は私の姿を見るなり顔色を変え、こちらに走ってきた。


「宮城の外に出ていたのですか? 今探しに行くところでした」

「何かあったんですか?」


 俊熙は周囲を気にする素振りを見せてから、声を落とした。


「華王国に動きがありました。――魏 子豪(ズハオ)をご存知で?」


 知っている。

 半年ほど前に華王国の北部で反乱を起こし、逮捕された男だ。貴族出身でありながら。

 年齢はまだ二十三と若い男だ。

 おまけにその後、脱獄したと聞く。

 私が頷くと、俊熙は続けた。


「その子豪がまた人を集めて乱を起こしました。穀倉地帯を手に入れて、農民に豊富な食料を配給して、瞬く間に支持者を増やしたのです」

「あの魏家の人が……信じられない」


 魏家といえば、華王国では一応名門貴族なのだ。

 子豪とは、子どもの頃に何度か遊んだことすらあった。

 兄が幽閉される前だ。私は九歳くらいで、彼は確か三つ歳上だった。

 その頃すでに子豪は武芸達者で、私を座らせた椅子を持ち上げてくるくる回せるほど、力自慢の男の子だった。

 その腕力を、国を守るためではなく、新たな国を自分で作るために使うとは、あの頃想像もしなかった。


「子豪は既に複数の軍閥を吸収しました」

「そんなに、味方を増やしたの……」

「勢いを増した子豪派は、連合を組んで新政府の樹立を宣言しました」

「新政府?」

「その名も『新華王国』を名乗っています。これで華王国は、黒龍国の支配地域と、子豪の新政府と、華国王がいる湖東州の三つ巴になっています」


 両手に抱えた買い物を落としそうになる。

 華王国は他国に攻められた上、内乱が起きたのだ。

 もう、どこも敵だらけだ。

 私が帰る場所は、ないのだ。


「蔡侍従が、予想した通りに……」


 俊熙は神仙山脈で、こう言った。

 華王国は内部から崩れていくだろう、と。

 だがそれを指摘すると彼は首を左右に振った。


「いいえ、予想もしないことが起きています。軍閥連合の新政府は、現華国王を『簒奪者』と呼び、先代国王の後継としての正当性を否定し、それを自らが反旗を翻した大義名分にしているのです」

「何を、今さら」


 俊熙は一歩踏み込み、私の両肩に触れた。

 そうしてその美しい目で私を覗き込んだ。


「新政府は、(シェン)王子を擁立しています。――貴女の兄君が、魏氏を中心とする軍閥連合側に名乗り出たのです」


 一瞬私は、告げられた事実を飲み込めず、理解に時間がかかった。


「慎お兄様が、新政府に名乗り出た?」


 つまり、兄は無事だったのだ!

 驚きと同時に、同じくらい大きな喜びが私の感情をいっぱいにする。

 我知らず買い物を抱きしめ、興奮しきった顔で俊熙を見上げる。


「お兄様に会いに行かなきゃ……」

「それは時期尚早かと。まだ本物か分かりません。何せ、十人近い『慎王子』が名乗り出ているらしいので」


 十人?

 それはつまり、偽物が乱立しているということだろうか。

 たしかに、兄は長らく幽閉されていたから、兄だと断言できる者が少ない。


「今、後宮もこの話題でもちきりです。新政府と黒龍国は慎王子の身元を確認する為に、その妹の詩月王女(あなた)を、死にものぐるいで探しています」


 俊熙は私の肩を抑える手に、一層力を入れた。

 そうして彼は言った。

 絶対に華王国に帰るな、と。



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