戸部侍郎の梓然
後宮の仕事は単調で、朝から晩まで殆ど毎日同じことをしていた。
担当を跨いで別の雑用を頼まれることもあり、それぞれの局全体の業務はかなり弾力的に女官たちへ割り振られていた。
尚服局の女官、麗質の下で働き始めて五日目。
私は大量の衣類に囲まれて、床に座り込んでいた。
「呂淑妃様は、とてもふくよかなの」
何かとっておきの秘密でも打ち明けるかのように、麗質が言う。
私たちは衣装室で大量の衣服を広げていた。
その中の大きな袍を手に取り、麗質がため息をついた。
「だから、汗っかきでいらっしゃるの。濃い色の衣はお召しにならないわ」
来月行われる皇太后主催の舟旅が、麗質にとっては目下最大の懸案だった。
担当する晶賢妃と、他の妃の衣装が被ってはならない。私たちは既に他の妃達の装飾品に至るまで、持参予定のものを確認していた。
あとは皇太后だったが、今朝の時点で皇太后がお召しになる裳に、問題が生じた。
妃嬪達の間では、最近裳裾に小さな鈴をたくさんつけるのが流行している。
そうすると、歩くたび、もしくは風で揺られるたびに涼やかな音が鳴るのが風流なのだ。
そして皇太后が鈴付きの裳を旅に持っていくことが、今朝発覚したのだ。
「舟上で、皇太后と晶賢妃様の鈴の裳が被ってご覧なさい。首が飛ぶわよ。――勿論私とあなたのね」
鈴ごときで。そう思ってしまうが、後宮では大ごとなのだ。
私と麗質は一つの鈴も取り漏れてはならない、と裾に手を滑らせ、躍起になって鈴を探す。
裾を傷つけることがないよう、細心の注意を払って糸を切っていくのだ。
全ての鈴を外し、糸と分別して籠に入れると、私たちは柱に寄りかかってしばし放心した。
「私、当分鈴は見たくも聞きたくもないわ……」
「同感です」
私と麗質は毎晩、晶賢妃の住む安寧宮を訪れなければならない。
その日一日、晶賢妃が使った装飾品を、衣装室に持って帰らねばならないからだ。
大事な簪や歩揺、首飾りたちは、柔らかな布を内張した桐の箱に収納して持ち運ぶ。
両手で慎重に抱えながら、私と麗質は安寧宮から外に出る。
私が女官として働き始めてから五日目の夜、私たちが宮の外を歩いていると、突然足元に球が転がり出てきて、危うく二人で転びそうになった。
「こら、何を…」
鬼の形相で顔を上げた麗質は、そこで言葉を切った。
球を拾いに駆けてきたのは、小さな男の子だった。二、三歳くらいだろうか。
水色の袍を纏い、艶のある革の沓を履いている。袍前面には花と鳥の精緻な刺繍が施されており、襟元には金糸を用いた格子模様。
幼児が着るにはあまりに大層な代物だった。
「お前たち、邪魔だぞ! 僕は打馬球の練習中なんだからな!」
子どもは威勢良く怒鳴ると、麗質の足元の革製の球を拾った。
打馬球は乗馬しながら球を打つ試合だが、子どもは片手に馬の頭を模した飾りがついた木の棒を持ち、それを跨いで走っていた。
「パカ、パカっ! 打つぞ、僕の球だ!」
乗馬の真似事のつもりなのか、両足で跳ねながら、再び投げた球を追う。
発言と態度は生意気だったが、仕草は可愛いらしく、思わず微笑んでしまう。
「麗質さん、あの子って…」
「涌王よ。母親は徳妃で、皇帝陛下の第二皇子よ」
「ああ、あの御子が……」
ということは、皇太子に冊立される可能性が今一番高いと言われている皇子だ。第一皇子は二年前に他界している。もう一人の皇子は、生母が才人だから、皇太子となるには少々血筋が不利なのだ。
「皇太后様も湧王を皇太子になさりたいのでしょうね?」
私が純粋な感想を呟くと、麗質は小さな声で言った。
「そうでしょうね。既に皇太后陛下のご命令で、太子賛善大夫も湧王にお付けになっているから」
「えっ、太子賛善大夫って、皇太子様のお守り役ですよね」
「ええ。涌王はまだ皇太子ではないけれど、専属の教育係がついているわ。皇太后様のゴリ押しのご提案よ」
「皇帝陛下は、どうお考えなのでしょうか?」
麗質は宮の裏に消えていった湧王の背中をまだ見つめながら、肩を竦める。
「陛下は皇子がもっと成長して、資質を見極めてから皇太子を決めたいとお考えよ。そもそもまだお若いから、皇子もまだまだ増えるでしょうからね」
春帝国の皇帝と皇太后が対立しているという話は、華王国でも周知の事実だ。
前皇帝が崩御した後も絶大な権力を持つ皇太后と、その義理の息子である皇帝は、即位した時から徐々に対立が顕著になってきているのだという。
「皇太后様は湧王を皇太子にして、ご自分の姪を皇后にしたいのですね。もし徳妃様以外のお妃様に皇子がこの先生まれたら、どうなるのでしょう?」
「しっ! 誰が聞いているか分からないわよ。滅多なこと言わないの!」
麗質が大慌てで人差し指を口元に立てる。
後宮では妃嬪たちの夕食の時間に宮の外を歩いていると、食事を大挙して運ぶ女官や宦官たちの一行とすれ違う。
彼らは皆、手に料理の乗った大皿を持ち、行列をなして調理場から彼女達の宮までを進んでいるのだ。
とりわけ春帝国の皇太后の夕餉の量は凄まじい。
前菜から始まる料理を持った者たちが次々と皇太后の席に向かい、皇太后はその時に気が向いた料理だけを食べる。
たった一口しか食べずに戻される皿もあれば、そもそも目の前に持ってこられた時点で首を左右に振り、箸をつけさえしない料理も多かった。
ほんの一欠片を食べるだけで、持ち帰られる丸鶏。
花形に切られた目にも楽しい、色鮮やかな温野菜も、皇太后が箸の先で軽く突き、気が変わって女官に返しただけで、今夜廃棄されるのだ。
夕食の質や量だけを焦点にしても、皇太后は後宮の中で、別格の権力者であった。
宮城に来てから一週間目の日、私は内侍省に呼ばれた。
後宮の大和門の外に出るのは実に一週間ぶりで、麗質と離れて一人で歩くのも久しぶりだ。
大和門から東に歩き、内侍省の建物にたどり着くと、すぐに俊熙が現れた。部下らしき宦官を隣に従えている。
彼は手に書類の束を持っており、目が合うなりそれを私に手渡した。
女官となった初日に、壁際に追い詰められて妙に密着されてから、彼とは一度も顔を合わせていない。
春帝国まで二人で長く険しい旅をしてきたのに、今はなかなか会う機会もないのだ。
俊熙は一週間ぶりの再会も、前回の密着劇も何ら気にする様子を見せず、淡々と私に命じた。
「その決済文書と臨時請求書を、戸部に回してきなさい」
戸部とは春帝国の三省六部のうち、財政を司る機関だ。
存在は当然私も知っているが、行ったことなどない。
そもそも私がいる内廷ではなく、戸部は外廷にある。
「場所は私が案内する。一緒に行くから、覚えなさい。今後何度も行く機会があるだろうから」
俊熙はそう言うと、私の前に立って外に出て行く。
両手に書類を抱えた私は、慌ててそれを追った。
二人きりになると、俊熙は歩きながら口を開いた。
「皇太后が、新たに二つの宮の建設を要求なさっているのです。涌王の為の新たな宮と、夏の茶会用の宮を」
「戸部にその承認を要求するの?」
「そう。まぁ、まず突っぱねられるでしょうけれど。――戸部侍郎の梓然は、節約の鬼ですからね」
戸部侍郎とは、戸部でその長である尚書に次ぐ役職だ。つまり戸部で二番目に偉い官吏である。
話を聞きながら、白髪頭の質実剛健そうな男性を思い浮かべる。
胸元に抱える書類は、全て紙製だ。
その滑らかな手触りに感心しながら、俊熙に話しかける。
「春帝国では、紙を湯水のように消費するのね。驚いちゃう」
「そうですね。華王国では絹織物か、竹でできた竹簡を用いていましたね」
紙は高価なのだ。
絹織物も決して安価ではなく、実用的ではない。
一方で竹は嵩張り、扱いにくい。
こうした小さな所にも、春帝国の国力を見せつけられる。
「俊熙、……何か華王国について、聞いていない?」
「華王国の国王は湖東州にいて、まだ抵抗を続けているそうです」
「まだ黒龍国に敗れていないのね? 良かった」
「そうですね。――ただ、南にある清雅国に援軍を求めたらしいですが、断られとか」
思わず息がつまる。
清雅国の変態国王に私が嫁いでいたら、状況は変わっていただろうか?
すると俊熙は私の思考回路を読んだかのように言った。
「あの時、貴女は南のジジィに嫁がれなくて良かったのです。でなければ今頃、針の筵だった筈ですよ」
いや、もう一つの可能性があった。
私が嫁いでいて、華王国と清雅国の同盟が成立していたら。もしかしたら、黒龍国も二つの国を敵に回す気はなく、黒龍国は華王国に攻めては来なかったかもしれない。
だが、今更そんな仮定を想像してみても仕方ない。
私は嫁がなかったし、華王国は蹂躙された。それはもう、動かしがたい現実だ。
戸部の建物は随分後宮から遠かった。
外廷の南の方に位置しているのだ。外廷の中央を縦断するように、南北に大きな道が走り、戸部はその西側にあった。
東西に長い大きな建物の中に、六部の機関が入っており、戸部の入り口まで俊熙は一緒に歩いてくれた。
扉の前まで来ると、俊熙は足を止めた。
「ここから先は一人で行って下さい。私は梓然が苦手なんですよ……」
俊熙にも苦手な人がいたなんて。
それは、少し意外だった。
扉を押し開けて中に入ると、すぐに若い男性官吏が対応してくれた。
後宮の使いで来たことを告げ、戸部侍郎はどこかと尋ねる。
すると私の声が聞こえたのか、滝の水墨画が描かれた衝立の向こうから、一人の男性が姿を現した。
(あれっ? 随分若いのね)
何度も瞬きをして、凝視してしまう。
私めがけて歩いてくるのは、まだ三十代前半くらいの男性だった。
戸部侍郎なのだからもっと高齢の官吏かと思ったのだ。
後頭部で纏め上げた髪は、緩く波打っていて、瞳の色は華王国では見たことがないほど、薄い茶色だった。鳶色よりも、尚薄い。
額は秀でていて、彫りがとても深い。
間違いなく整った顔立ちではあるが、北方の少数民族のような容貌をしている。
「尚服局の珠蘭と申します。内侍省より書類をお持ちしました」
「珠蘭……?」
注目してほしいのは、用向きを述べた後半の文章だったが、梓然は前半に興味を示した。
「君はもしや、あの宦官の蔡 俊熙のいとこだとかいう、女官かな?」
梓然は顎を逸らし、目を細めて私を見下ろしている。その眉間には微かに皺が寄り、どう見ても私は好意的に受け止められていなかった。
「はい。蔡家の珠蘭にございます」
「やはり君か。あまりあの蔡侍従には似ていないじゃないか」
この繰り返される同じ反応に、いい加減苛立ちが募る。
そもそもいとこって似ているものだろうか?
私は腹違いの姉妹達とすら、似ていなかったけれど。
梓然は衝立の後ろの席に私を案内すると、そこにどかりと腰掛ける。
「私が戸部侍郎だ。書類をこちらに」
梓然は強奪するように書類を引ったくった。
渡すものは渡したのだ。これで失礼をしようとすると、彼は意外にも私を引き留めた。
「ちょっとそこにいてくれ。――ええと、何々? 皇太后の為の夏用の茶を嗜む宮を建てろ?」
書類を開くなり、梓然は読み上げ、すぐに顔を上げて私を睨め付ける。
どうして、私を。
「女ってのは、茶室が春夏秋冬ごとに必要なのか?」
ひぃぃ、と心の中で悲鳴を上げながらも、即座に答える。
「必要ありません」
「そうか。ではこの請求書を却下する。ほれ、持って帰れ」
梓然は書類を鷲掴みにして、私に差し出した。
(待って。こんなの、困る。私のせいで申請が通らなかったみたいじゃない……!)
「お待ち下さい、戸部侍郎様。私のような一介の女には必要なくても、皇太后様には必要なのです」
「そんなわけないだろ」
「うっ…」
梓然は書類を開き、文中の一点を指してトントンと叩き、言った。
「しかも夏用に自雨亭式にしろ、とあるぞ。自雨亭式って知ってるか?」
「分かりません」
すると梓然はフン、と鼻を鳴らした。
鳶色より薄い目――少し焦がした蜂蜜のような瞳が、私を小馬鹿にしたように見つめている。
「蔡侍従のいとこは、大したことないな」
腹が立つが言い返せない。
渦巻く負の感情を我慢して立っていると、今度は他の書類を広げ、再び顔を上げた。
今度は何を言ってくるのだろう、と身構える。
「こっちは涌王の新しい宮の建設か。涌王に――まだ御年二歳の皇子に、もう新しい宮がいるのか? 現在の宮はそれほどに狭いのか?」
「決してそのようなことは…」
「そうか。女官の蔡 珠蘭による情報を鑑み、この申請を却下する」
「困ります! 私を理由にしないで下さい」
「だが本当にこの二つの宮は必要だと思うか?」
答えに詰まってしまう。
正直、無駄な建物だとは思う。
梓然は答えを見透かしたように、薄く笑った。
「何も君を言い訳にしたりはしない。ただ一般的な意見を聞いてみただけだよ。そしてそれに、私も同感だ」
梓然は書類に所々書き込み、筆を置くと背後の棚から巻物を取り出した。
緑色の背表紙の周りに紐が巻かれており、つまみを持って投げるようにして、巻物を開く。
巻物には正方形の屋根を持つ一軒家が描かれていた。
「これが自雨亭式だよ」
両手で巻物を受け取り、眺める。
巻物に描かれた建物の四方の屋根の上から、軒先目掛けて線状に水が流れ落ちている。
「屋根に水を引いて、建物の周りに水を降らせることで、涼を取るんだ。実に贅沢な作りだ」
「これは……大掛かりな仕掛けですね」
「後宮にはたしか、池に張り出した宮があったな?」
「はい、あります」
「そこで十分だろう。そんなに暑いなら行水したらどうだ」
そんなの、首が飛んでも提案できない。
戸部侍郎は書類をひとまとめにすると、私に言った。
「内廷に持ち帰ってくれ。全て、差し戻す」
はい、と力なく返事をしつつ、卓の上の書類を取る。
書類の角が筆に当たり、筆が卓の端に転がる。
「あ、すみません!」
床に落ちそうになる筆を、片手を伸ばして急いで止める。
墨汁の染みた筆が落下すれば、四方に墨が飛び散るからだ。
腕を伸ばして必死に掴む。
考える間も無く身体が動いたが、手の平が墨だらけになってしまった。
目が合うと、梓然は呆気にとられた様子で私を見ていた。
「これを使ってくれ」
墨汁で濡れた手の処置に困っていると、梓然が手巾を差し出した。
皺一つなく丁寧に折り畳まれ、角には鳥の刺繍がされている。
「お借りできません。汚してしまいます」
「何を言っている。君の汚れた手を拭く為に貸している。遠慮はいらん。紺色だから、墨がついても問題ない」
強引に手巾を押し付けてくるので、渋々借りる。
案の定、手巾は悲惨なほど黒くなった。
「洗ってお返しします」
丁寧に畳んで、腰の帯に挟む。




