宮城での生活
尚服局は明天殿という建物の中にあった。
内廷の東側には、四方を完全に土塀で囲まれた区画があり、その出入り口は大和門の一箇所しかない。
その唯一の門によって、厳重に出入りが制限されているのが後宮であり、そこに皇帝の妃嬪たちや子どもたちが住んでいた。
私の仕事は妃嬪たちの衣装や装飾品の管理だった。
私の祖国、華王国では王妃以外は側妃としての地位が与えられ、それは横並びで上下はなかった。だが春帝国では、妃嬪には厳格に上下関係があった。
皇帝の妃の中で最も地位が高いのは貴妃であり、その他三人の妃がいた。妃の下にも嬪や才人という名の妻が何人もいて、全員で百人近くいるらしい。
皇帝の妻として最上位に君臨するのは言うまでもなく皇后だが、現在まだ誰も冊立されていない。
皇帝には二人の皇子がおり、一人は徳妃から生まれ、今最も有力な皇太子候補だった。もう一人は母親の身分が低く、徳妃の皇子の好敵手とはなり得ない。
妃嬪の中で最上位の貴妃にも、皇子が一人いた。だがその皇子は二年前に幼くして亡くなっていた。
麗質はこれが最も重要だとばかりに何度も念押しした。
「いい? 後宮で一番力があるのは皇太后様よ。ご機嫌を絶対に損ねちゃだめ。あと、四人の妃の名前は間違えないこと。――そのほかにも百人近くいるから、まぁ、後はそのうち覚えて……」
到底、皇帝すらその全員を覚えているとは思えない……。
もしかして、数える程しか皇帝と会わず、その後放置される妃嬪もいるのかもしれない。
「明日の朝、晶賢妃がお召しになるものと、飾りを選ぶわよ」
晶賢妃――、現在の賢妃は、晶氏の女性らしい。
「お衣装を私たちが選ぶのですか?」
「そうよ。ほかに誰がいるっていうのよ」
私が着るものはほとんど自分自身か、侍女の鈴玉が選んできた。
だが流石春帝国の妃ともなれば、そんな瑣末なことに時間を割いたりはしないらしい。
衣装室には恐ろしい量の衣が収納されていた。
妃嬪ごとに収納場所が分かれており、地位に応じてその大きさも違った。つまり、貴妃の持つ衣装が最も多いのだろう。
麗質がおどけるように目をぐるりと回した。
「こんなにあるけれど、お妃様もそれぞれの好みがおありで。全く出番がない衣もあるの。そういう見向きもされないものは、刺繍して手直しもするわ」
よかった、刺繍は得意だ。私でも役に立てるかもしれない。
二人で単衣や羽織物、組み合わせる簪などを選ぶと、今度は別の宮に向かう。
後宮内にある安寧宮という建物で、一際大きく豪華で目を引く。
「晶賢妃のところに今から行くわよ。皇太后様にご招待されていて、一月後に舟遊びに行かれるの。泊まりがけで行かれるから、旅用のお衣装を今から決めておかないと」
「麗質さんは晶賢妃の担当なんですか?」
「そうよ。だから私たちの仕事は、責任重大よ。――一番の権力者の皇太后陛下の担当は、尚服局の最年長の女官がやっているわ」
皇太后とは、頻繁に出くわすのだろうか。
そう尋ねると麗質は妙に神妙な顔つきで頷いた。
「皇太后陛下は、後宮の一番北の宮にお住まいよ。でも、姪である徳妃様をしょっちゅう訪ねるから、毎日私も拝見しているわ。外廷にもよくお出ましになるの。――出くわした時にご無礼がないよう、気をつけてね」
「は、はい……」
「外廷の男達の世界にも、派閥はあるわ。でもね、女達も同じ。どこかに入って巻かれるか、派閥の間を上手く縫うようにして這い上がるか。どちらかよ。でも珠蘭、あなたは幸運よ。晶賢妃は妃嬪の中では、一番穏やかな方なんだから」
そういうお妃様の担当をしている麗質の下につけてくれたのは、俊熙の思いやりだろう。
今は全然違う建物の中にいる俊熙に、心の中でお礼を言う。
晶賢妃は、とても華奢な人だった。
びっくりしてしまうほど顔が小さく、尚且つ磁器のように肌が白く透き通っている。
腕に小さな赤ん坊を抱いており、穏やかな表情で私たちを迎えてくれた。
赤ん坊は花柄のおくるみを纏っているので、どうやら公主のようだった。
晶賢妃は私が挨拶をすると、丸く大きな瞳を更に見開き、安寧宮にやってきた私に微笑みかけた。
「まぁ、まあ。では、お前が噂の蔡侍従のいとこね?」
よほど俊熙のいとこという肩書きに興味をそそられたのか、晶賢妃は公主をそばにいる侍女に渡すと、私の顔を舐めるように見つめながら、周囲を回った。
「蔡侍従には似ていないのね」
他人なのだから仕方がない。
「蔡侍従が急に休暇を申し出たから、驚いたのよ。だってあの仕事の虫のような彼が」
俊熙はどうやらかなり仕事に打ち込んでいるらしい。私の下男だった頃、そんな風には思えなかったけれど。
「戦乱に巻き込まれた親戚を迎えに行く、と言うから。しかも連れて来たのが貴女みたいな、お年頃の女性だから、みんな更に驚いて色々噂しているのよ」
ふふふ、と微笑む賢妃の視線に釣られて周囲を見渡せば、柱や簾、格子の陰からたくさんの侍女や女官が私を見ていることに気がついた。
無数の視線を浴びていたことに、全く気づかなかった。
弱り切りながら麗質と目を合わせると、彼女は敢えて話の腰を折る為に、本題に入った。
「晶賢妃様、来月の舟旅のお衣装を、そろそろ考えておきたいと存じます」
両手に木箱を抱えた麗質が、恭しくそれを床に置き蓋をあける。中には端切れのような生地見本がぎっしりと詰められている。
「お色や、織り方をご検討下さいませ」
「そうねぇ。――ほかの妃達や……何より皇太后陛下のお衣装と被らないようにしなくてはね」
晶賢妃が一番気にするのも、やはり皇太后のことらしい。
私は隣に膝をつく麗質と目を合わせた。
夕方に与えられた仕事は機織りだった。
麗質は私の隣で、宮城のあれこれについて教えてくれながら、手は一心不乱に動かして披帛を編んでいる。
「舟遊びは皇太后様のお誘いだから、四人のお妃様はいらっしゃるけど、姪の徳妃様以外は、きっと本音では行きたくないと思っているはずよ」
「皇太后陛下って、難しい方なんですか?」
「そうね。それに皇帝陛下とも実の親子ではなくて不仲だから、お妃様達も立ち位置が悩ましいのよ」
「皇帝陛下は、幼くして御即位されたんですよね?」
「そうよ。長らく皇太后様が代わりに政治に関わられていたんだけど、皇帝陛下が成人なさった今でもそれが変わらないから、日増しにギクシャクしているのよ」
長い歴史と潤沢な財政に支えられ、一見順風満帆そのものにしか見えない春帝国も、色々な問題に直面しているのだ。
麗質は国の現状を憂えたのか、小さなため息をついた。切ったばかりの糸屑が、手元からふわりと舞い床に落ちる。
彼女が使う糸はとても細い。
こんなにも細い糸を器用に操り、絡ませ織りにしていくその腕前にも驚く。
ふと麗質は私の視線に気づいたか、口もとを綻ばせて言った。
「尚服局の仕事、好きなのよね。お喋りしながら進められるでしょう?」
麗質の話はとてもありがたかった。
黙ってカタカタと機織りの音を鳴らしていると、華王国の王宮を思い出してしまうのだ。
女官達は後宮に部屋を与えられ、寝泊まりする。
麗質のような出世した女官は個室を貰えるらしいが、私が後宮内に与えられた部屋は、六人の相部屋だった。
大部屋が衝立で六つの区画に分けられ、皆私的空間を優先したいのか、部屋の中では会話や干渉は一切なかった。
各々静かに、小さな物書き台で文をしたためたり、寝具の上で身体を休めたりしていた。
春帝国の宮城に初めてやってきて、一日のうちに多くの人々と出会い、興奮してとても眠れない。
あまりに何度も寝返りを打って衣ずれの音を度々立てるのも周囲に迷惑なので、私は羽織ものを一枚肩に掛けると、宮の外に出た。
宮城の中は、夜でも明るい。
軒先には一定の間隔でたくさんの灯篭が吊るされ、宮と宮の間に設置された石灯篭にも火が灯されている。
そうして後宮の片隅から、数多の殿舎を見渡すと、溜め息が出た。
「春帝国は、なんて大きいんだろう」
つぶやきと共に空中を漂った白い呼気が、霧散する。
ぶるり、と微かに身体が震えて両腕を抱く。
秋の終わりに差し掛かり、もう朝晩はかなり冷えるのだ。
そろそろ部屋に戻ろう、と身体を反転させた時。
宮の角を曲がり、こちらに歩いてくる人影が視界に入る。
急いで宮に入ろうと思うも、見覚えある人影に思い直す。
私の方に歩いてくるのは、皇帝だったのだ。
明らかに目が合ったのに身を翻すのは無礼過ぎる。
皇帝はお供らしき初老の背の低い人物と一緒だった。紺色の官服から、どうやら宦官らしいと分かる。
道の隅に寄り、胸に手を当て膝を折って首を垂れる。
そうして皇帝と宦官が通り過ぎるまで待とうとしたが、皇帝は私の前まで歩いてくると、足を止めた。
その後に発せられた声は、幾らか笑いを含んでいた。
「珠蘭ではないか。このような夜更けに、幽霊かと思ったぞ」
「申し訳ありません。なかなか寝付けず、頭を冷やしておりました」
「そのような薄着で、身体まで冷やすなよ?」
すると小さな手持ち灯篭を手にしていた宦官が、嗄れた声で言った。
「しゃいきんの若い娘は、これじゃからのぅ。全く、しょのような薄着で!」
歯がないのか、少し聞き取りにくいが、明らかに私の恰好が責められている。
「ここまで来る途中にも、若い女官と宦官が二人で土塀の陰で抱き合っとったわ! 全く、しゃいきんの若いのは、はしたない!」
すると皇帝が苦笑した。
「まぁまぁ。それは昔からのことではないか。多少の息抜きは必要だ」
皇帝は笑いを収めると、私に向き直り、片手を宦官に向けてヒラヒラさせた。
「お前は先に淑妃の宮に行っておれ。すぐに余も追う」
「でしゅが……」
皇帝を置いていくことに抵抗があるのか、宦官は困った。
「淑妃に伽の支度をさせておけ。あそこの侍女達はどうにもいつも段取りが悪いからな」
「承知致しました」
淑妃の侍女の動きの悪さは余程説得力があったのか、宦官はまもなく私たちのもとを去っていった。
やがて宦官の足音が聞こえなくなると、皇帝はようやく言った。
「さて、珠蘭。首を上げよ」
そろそろふらつき出していた膝を伸ばし、顔を真っ直ぐに上げると、目の前に立つ皇帝と目が合う。彼は私の顔をじっと見つめながら、口を開いた。
「知っておるか? 今、そなたの国では、黒龍国が、躍起になってある男を捜索している」
問うような眼差しに、失礼のないよう簡潔に答える。
「分かりません。それは……誰を探しているのでしょうか?」
「十年前に弟を呪殺しようとした罪で捕らえられ、幽閉された王子。慎王子だ」
お兄様を?
黒龍国の奴らが、私の兄を探している!?
「男の王族を生かしておくわけにはいくまい。だが、王都が落ちた後、行方がようとして知れない」
皇帝が私に一歩近づき、覗き込むように私の顔を見る。あまりに至近距離なので、目を逸らしてしまう。
「そなたは、知らぬか?」
「知りようがございません。私は、その殿下にはお会いしたことすらないのですから」
声が震える。
話しながらも、優しかった兄の顔が脳裏に浮かぶ。何より最後に会った時の――王妃が差し向けた兵達が兄を捕らえた時の、あの兄の顔は忘れようもない。
兄は怯えて泣き叫ぶ私を宥める為に、必死に笑顔を作って言ったのだ。
「泣かないで、詩月。必ず戻るから」と。
だから、私は絶対にもう泣かないと誓ったのだ。
否、泣いてしまえば兄が私のもとに帰ってこない気がした。
皇帝の前で一瞬回想していると、彼は酷く低い声で囁いた。
「李 詩月――」
びくりと身体が震え、思わず目を動かし、皇帝の視線に囚われる。
彼は不敵に口角を上げ、私の耳元に顔を寄せた。
「詩月という名の王女を、知らないか?」
「知りません」
極度の緊張のあまり、手足の感覚がない。
なぜ、私にそんなことを聞くのか。
まさか、皇帝は私の正体を知っている?
「黒龍国は、慎王子を探す手掛かりとして、唯一の同母妹の詩月王女も探している。彼女の行方には多額の懸賞金がかけられている」
何か答えようとして、けれど上手くいかなかった。
唇が震える。
すると皇帝は苦笑して首を小さく左右に振った。鋭かった眼光が少し弱くなる。
「そう怯えるな。余など、義母の尻に敷かれた繰り人形にしか過ぎぬぞ?」
自分を嘲笑うその声は、投げやりなようで、けれどほんの少しの憎しみを感じさせる。
「大家、珠蘭が何か粗相を?」
その時、遠くからこちらに声を掛ける者がいた。
はっと声の主を振り向くと、そこには俊熙がいた。
紺色の官服の上に、綾織の羽織を着ている。
手提灯篭を持ったまま、彼は皇帝と私のもとに早足でやって来た。
皇帝は苦笑した。
「俊熙、偶然にしては出来過ぎではないか。もしやいとこ殿が可愛すぎて、四六時中変な虫が近づかぬよう、見張っているのか?」
「大家、お戯れを」
大家、とは皇帝に対する呼びかけだ。皇帝を大家と呼んでいいのは、側近や非常に親しい者だけだと聞いている。
「淑妃様が今頃首を長くしてお待ちですよ」
「何を言う。あやつの首は、人よりかなり短いぞ。顎に殆ど埋まっておるからな」
「大家!」
皇帝と俊熙のやや砕けた会話から、二人の親密さがよく分かる。
皇帝も年が近いからか、先ほどの初老の宦官といるより、俊熙の近くにいる時の方が余程打ち解けている。
「分かった、分かった。妃嬪たちは大事にせねばな」
どこまで本気なのか分からない調子でそう言うと、皇帝は私たちの前から離れて行った。
その後ろ姿が見えなくなるまで、膝を折って見送る。
やがて私は俊熙に向き直った。
「陛下に詩月王女を知らないか、と聞かれたの」
俊熙は何も言わず、その代わりただ眉根を寄せた。
「陛下は私が誰か、ご存知なの?」
「私は陛下に昔、度々詩月王女の話をしておりましたから、薄々お気づきかもしれない。――シラをお切りなさいませ」
「そんな簡単な問題かしら……?」
「陛下も火中の栗を拾う気はないでしょう」
そう言うなり俊熙はぎろりと私を見下ろした。まるで睨むような鋭さで。
「そもそも夜にそんな薄着で、宮の外に出るものではありません」
「でも……」
「後宮に女しかいないからなどと、油断は禁物ですよ」
俊熙が私にじりじりと近寄る。
後ずさろうとするも、沓の踵が宮の壁に当たる。これ以上、下がれない。
彼は私を自身と壁の間に追い詰めると、言った。
「侍女や女官と宦官の色恋沙汰が、後宮では後を絶ちません。――宦官にも性欲があるのを、ご存知で?」
そんなの、知るわけがない。
首を小刻みに左右に振る。
すると俊熙は何の躊躇もなく、言った。
「去勢された時期によりますが、人によっては男だった頃より、盛んになるらしいですよ」
知らなかった。
でもそんな話を聞かされても、どう反応すればいいのか。
それにどこか他人事なその言い方に、違和感を覚える。
「そんな無防備な姿を晒して、宦官に狙われたいのですか?」
「そんなこと、考えたこともない……」
首を思いっきり振って否定する。
だが俊熙は私の顔の横の壁に手をつき、更に身を寄せた。
彼の吐息が、私の額にかかる。
あろうことか、それがまるで絹糸に撫でられているかのように、心地よい。
「体格は男と変わらない宦官も多いのです。――こんな風に追い詰められたら、逃げられますか?」
「俊熙……!」
俊熙の身体がグッと寄せられ、胸や腹が密着する。なんとか押し返そうと両手で彼の肩を押すが、ビクともしない。
「分かった。俊熙、分かったわ。気をつけるから……」
自分の甘さは理解できた。
だから身体を離して欲しい。
そう言ったつもりだが、俊熙はまるで動いてくれない。
それどころか俊熙の手が動き、私の後れ毛に触れる。彼はそれをやたら緩慢な仕草で私の耳にかけると、続けて私の耳に触れた。
ゆっくりと耳朶を指先で撫でられ、たまらず目を閉じる。
耳朶というささやかな場所に触れられているだけなのに、全身が緊張する。
「俊熙。離れてよ。――離れなさい……っ」
「私のことはここでは蔡侍従と呼びなさい」
「はい、はい。分かりました。蔡侍従、お離し下さい」
全然離れてくれない。
俊熙はただ無言で私を見下ろしている。
何か言ってくれる方が余程いい。
俊熙の沈黙が、余計に恐ろしい。
俊熙はそうして長いこと私に触れた後、唐突に身体を離した。
「明日も仕事が山積みでしょう。もうお休み下さい」
それまでの指先に感じられた、熱など一切感じさせない冷静な口調でそう言うと、俊熙は私に背を向けて元来た道を戻って行った。