表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/49

私は、宦官です

 夕食は食堂で提供された。

 破れた提灯が天井から下げられ、その弱々しい灯の周囲を、虫が飛び交う。

 泊まっている客が皆集められ、車座になって食事を待つ。

 他の客達をあまり観察してはいけない、と思うものの、どうしても見てしまう。

 客は私たち以外に二組いるらしく、皆それぞれ事情を抱えていそうだった。

 いかにも訳ありそうな子連れの女性と、赤ん坊を連れた夫婦だ。

 赤ん坊が泣くたび、あやす夫婦の手つきはどうにも不慣れで、なんとなく二人の子ではないのでは、という気がした。かと言って、口を挟む訳にもいかない。

 事情を言いたくない身の上なのは、私も同じなのだ。


 宿は青年とその母が営んでいるらしく、二人で粥の入った椀を客に配り始める。

 欠けた木の椀に入っていたのは、水分がやたら多い黄色い粥で、匙でかき混ぜると粟のような小粒の穀物や、赤い乾燥果実の欠片が見える。

 汁物もあり、溶き卵が浮かぶ、ごく薄い味付けのものだった。正体不明の白い具が他に入っていて、ぶよぶよと弾力のある歯応えがどうにも苦手で仕方ない。

 これは何なのだろう。そもそも食べ物なんだろうか?

 俊熙にこの具は何なのか尋ねたいが、皆静かに食べているので、聞きにくい。もしかしたら宿の人に失礼かもしれない。

 口に入った未知のものを嚥下するのを、喉が嫌がる。

 食べ慣れない味と食材に困惑するが、贅沢は言ってられない。

 必死の思いで、汁の一滴、粟の一粒に至るまで完食した。




 昨夜私がいた場所からすれば、ここは別世界だ。

 藁の上に横になると、吹きこんだ隙間風が頰を撫でる。

 壁には黒く艶々とした虫が這い、外からは怪しい鳥の鳴き声が聞こえる。姿は見えないが、きっと私が見たこともないような、怪鳥に違いないと思えて仕方がない。


 私はもう何度目かの寝返りを打った。

 俊熙は藁を床に敷き、入り口の近くに寝転がっている。


「俊熙、そこ固くない?」

「大丈夫です。お気になさらずお休み下さい。明日は夜明けと共に、出発しますから」

「うん……」


 早く寝なければ、と思うのに気ばかりせいて、一向に睡魔は訪れない。

 それどころか、華王国や兄、鈴玉や義明のことを考えてしまい、俄かに腹痛が襲い始める始末。

 それに女官長はどうなっただろう?

 弟は、国王は湖東州に着いただろうか?


(お腹、痛いな……。物凄く痛い)


 目を閉じて仰臥していたが、どうにも腹痛は酷くなるばかりだ。

 身体を丸めて横になり、痛みに堪える。

 どんな姿勢でも、痛みが和らがない。寧ろ悪化する一方だ。

 額を汗がつたい、藁の上に落ちる。


(嫌だ、どうしてこんな所で?)


 痛いけれど、俊熙の足手纏いになりたくない。

 身体は疲れているので、眠気がやってくる。

 必死に我慢をして、痛みと睡魔で朦朧とし始める意識の中、私は呟いた。


「鈴玉、お願い。医官を、呼んで来て頂戴……」

「詩月様? どうなさいました?」


 私を揺すり起こしたのは、鈴玉ではなく、俊熙だ。

 そうだ、ここは王宮ではない。

 小汚い小屋の中だ。

 そう気がつくと、激しく気落ちする。


「暑いのですか? 凄い汗ですよ」


 俊熙が手巾で私の顔を拭う。


「大丈夫、ちょっと色々心配し過ぎて、お腹が」

「腹痛がするのですか? どんな風に? いつから?」

「違うの、大丈夫だから」


 ここで体調を崩したら、明日出発できない。置いていかれるなんて、真っ平だ。

 痛くない、平気。

 そう思い込みたいが、差し込むような腹痛はやがて胸焼けも伴い、私は起き上がるとなけなしの胃の中身を床にぶちまけた。

 辺りに広がる胃液の臭いに、頭がくらくらする。


「ごめん、なさい……」


 ゼエゼエと呼吸する私の背を、俊熙が撫でてくれる。


「我慢せず、全部出して。謝る必要なんて、全くありませんから」


 俊熙の前でみっともなく嘔吐したくなど、ない。

 それでも胃を迫り上がるものを我慢できず、私は再び吐いた。

 少し落ち着くと、床に下りて後始末をしようとするも、身体がフラつき、まともに座ってすらいられない。


「寝ていて下さい。私が片付けますので」

「ごめんなさい、俊熙。本当にごめんなさい」


 俊熙は黙々と清掃をしてくれた。





 夜が明けると腹痛はかなりおさまっていた。

 食べ物が合わなかったのだろう、と俊熙は言ったが、体調を崩したのは客の中で私だけだったので、立場がない。



 国境を越えてから春帝国の帝都に着くまでは、かなりの距離があった。

 山あいの名もなき村に泊まりながら、平地を目指す。

 途中で俊熙は馬を驢馬(ロバ)数頭と交換した。それを乗り潰すと、彼は次々と驢馬や馬を大金をはたいて購入しては、進んだ。

 彼はどうしてそんなに大金を持っているのだろう。

 驢馬の平均価格を私は知らなかったが、彼は村人の言い値で購入しているようだった。

 道中で俊熙が支払う総額を考えるだけで、頭がくらくらしてしまう。


(困ったな。私、絶対に返せないじゃないの)


 今更ながら、森に置いてきた肌着が惜しい。

 簪の一つや二つ、持ってきても良かったのではないか。

 山脈越えが終わり、斜めに傾きっ放しだった馬の鞍が久し振りに平行になると、私は心底安堵した。

 そこからは見渡す限りの平野が続いていた。

 草原がどこまでも続き、人家も家畜も見当たらない。

 しかしながら人の往来は絶え間なくあるのか、広大な草原を(わだち)が真っ直ぐに伸び、私たちはそれを頼りに旅を続けた。


 風に揺れる草原の緑と黄の植物を見つめながら、私は俊熙に色々なことを尋ねた。


「今は春帝国の帝都に住んでいるの?」

「そう、華王国を出た後は、叔母と暮らしていました。叔母は一人息子が亡くなり、甥の私を引き取ってくれたのです。――帝都で一族が義塾をやっていて、そこに通って科挙を目指しておりました」


 科挙とは、春帝国独自の官吏登用制度の一つだ。

 華王国では、貴族の子弟が国王から官位を授かり、王宮に出仕していた。基本的には春帝国も同じなのだが、ごく一部の門戸は身分に関係なく開かれており、優れた頭脳を持つ者が出自の差別なく、官吏になれる仕組みが設けられているのだ。

 数回に渡る試験を受け、合格することで採用されるその科挙というものは、非常に合格率が低く、狭き門だと言われている。


「義塾って何?」

「学のある人が、一族の子弟向けに開設している寺子屋のようなものです。私の親戚が義塾をやっており、そのお陰で望むだけ勉強できました。最終的には、殆どの義塾生が科挙を目標に学ぶのです」

「科挙は受けたの?」

「――一度だけ、受けました」


 俊熙は合否については言及しなかった。

 それを敢えて聞くのも、どうかと思われるので黙っている。




 やがて小さな街に到着すると、私たちは乗り合いの馬車を利用した。

 その頃になると、俊熙は私に服を買ってくれて、ようやく大きすぎる彼の服から卒業できた。

 また借りができてしまった……。


 馬車の車窓を私は興味深く眺めた。

 春帝国は聞きしに勝る大国だった。

 農村の家々まで頑丈そうで、清潔感に溢れて貧困とはほど遠い。

 大きな規模の集落は、周囲を城壁で囲まれていた。城壁には四方に門があり、人々はそこから出入りするようだった。

 華王国の農村は藁葺き屋根の、小さな家が多かった。だが春帝国では、小規模の集落にすら高楼が(そび)え、遥かに豊かに見える。



 帝都に入るとそこは目を見張る大きさで、白いしっくいと石を組み合わせた壁に、灰色の瓦が載る屋根を持つ家屋が累々と続いている景色は壮観だった。

 中心部に近づくにつれ、建築物の様式は豪華さを増し、窓枠や門扉に繊細な彫刻が施されている家がたくさん見られるようになった。

 道はよく整備され、街路樹も立派。

 行き交う人々も、品の良い綺麗な衣服に身を包んでいる。

 華王国の王都もなかなかなものだと思っていた。でも、春帝国は何もかもが桁違いだった。


 やがて馬車を降りると、そこから俊熙は大通りを歩き始めた。

 彼の後を追いながら、帝都の市井の様子を観察する。

 通りには所々屋台が軒を連ね、食べ物を売っていた。饅頭か包子でも売っているのか、屋台に並んだ蒸篭(セイロ)から、湯気がもくもくと立っている。

 背中に銀色の大きな樽を背負った男が通りを練り歩き、時折人々から声を掛けられ、何かを売っている。樽から柔らかな管が伸びており、その先から琥珀色の飲み物を杯に注いでいる。

 どうやら冷茶を売っているらしい。

 大通りを抜け、一本横道に逸れると、その先には石畳の狭い通りが広がっていた。


「この辺りが、貴女のお祖母様の生家がある地区になります」


 大きな門構えの家が建ち並ぶ。

 祖母には、小さい頃に数えるほどしか会ったことがない。

 胸が早鐘を打つ中、豪華な建物をいくつか通り過ぎる。


「ここですね。旧親王邸の一つです」


 俊熙が足を止めたのは、随分古い邸の前だった。

 木造の門扉は古びて棘だらけになり、隙間なく閉じられた門に貼られた「招福」の文字が書かれた布飾りが半分千切れている。


「お祖母様は、ここに?」


 人の気配を感じられない。

 緊張の為に速くなっていた鼓動が、痛いほど強く打ち始める。

 俊熙は数歩後ろに下がり、門を見上げた。


「私も何度か訪ねたことがあります。……貴女のお祖母様はここの最後の当主で、私が春帝国に来る少し前に、どこかに引っ越してしまっていました」

「そんな……! どこに?」


 俊熙は分からない、と首を振った。

 再び目標を失い、私は冷静ではいられない。


「俊熙、そんな。知っていたならどうして、森を出るときに教えてくれなかったの!?」

「……あの時お伝えしていたら、貴女が生きる気力を失いそうだったからです」

「そんな……。でも、これじゃあ私、行くところがないわ」


 確かめずにはいられず、私は門を開こうと錆びた取手に手を掛けた。

 だが施錠されているのか、びくともしない。

 仕方なく拳で木の門を叩く。

 手入れがされていないのか、扉の表面は乾燥が進み過ぎて、棘が出ている。痛いけれど、これで祖母が出てきてくれるのなら、安いものだ。


「お祖母様! いらっしゃらないの!?」


 中からは物音一つしない。

 諦めきれず、先程より強く拳を打ち付ける。


「お祖母様っ! 私です、詩月が参りました!!」

「詩……珠蘭、おやめなさい」


 叩き続ける私の拳を、俊熙が押さえる。


「離して」

「そんなことをしても、無駄です! この邸はかなり前から、空き家なんです」

「ああ、なんてこと」


 門を見上げたまま、ふらふらと後ずさる。

 生まれ育った王宮は敵国に奪われた。

 両親は既にいない。

 勇兄は頼れるはずもなく、他の兄弟姉妹にも見捨てられている。

 残された唯一の寄る辺が、ここまで来てもうなかったなんて。


「私の家にお越し下さい。お貸しできる部屋なら幾つかあります」


 俊熙の話は耳に入っていなかった。

 鈴玉と義明と、皆で早朝に馬で駆け出した瞬間に引き戻されていた。


(お祖母様を頼って、ここまで頑張って来たのに!)


 王宮を飛び出してからの疲労が、一気に全身に押し寄せる。

 がくん、と足から力が抜けて、私は門の前に座り込んだ。

 立っていられない。

 寧ろ、なぜ今まで自分が立っていられたのか、不思議なくらいだ。

 人生でこれほど動き回ったことはなかった。


「棘が刺さっているではありませんか。――お手をこちらに」


 俊熙は座り込む私の隣に膝をつき、右手を取ると、両手で自分の胸元に引き寄せた。

 そうして私の小指を見つめながら、親指の爪を使って皮膚を摘まむ。

 チクリ、と摘まれた所が痛くなり、思わず引っ込めそうになる。


「お待ちを。もうすぐ抜けます」


 そうして指に刺さった棘を抜いてくれる俊熙を見ていると、ふと子どもの頃の記憶が蘇った。

 庭園の木を登って、棘が腕に刺さると、たいてい兄がそれを抜いてくれた。

 あの頃と、何と多くのものが変わっただろう。


「抜けましたよ」


 俊熙は棘を放ると、私の手を優しく握った。


「立って下さい。しっかりなさいませ」


 俊熙が手を伸ばし、両脇に手を入れ、立たされる。そうしてふらつく私の身体を支える。


「私、やっぱりせめて肌着から小さな指輪の一つや二つ、毟り取って持ち出せば良かったわ。一銭のお金すらない」

「よく聞いて下さい。こちらを――私の目を見て」


 俊熙を見上げると、息がかかるほどの近さに彼の顔があった。

 その漆黒の瞳は吸い込まれそうなほど美しく、白い肌は別れた頃と変わらず染み一つなく、石英のようだ。

 でもいつも私が見下ろし、彼が膝をついて私を見上げていた二人の位置関係は、今は逆転していた。


「私の家にいらして下さい。貴女に仕事も斡旋します。ですから、何も心配いりません」


 そんなに俊熙に迷惑をかけられない。

 とはいえ、ここで野垂れ死ぬ覚悟も、勿論ない。

 私は大人しく俊熙についていった。






 俊熙は大通りを進み、脇道に入った。

 両脇を高い建物に挟まれ、通りは日中だというのに薄暗く、圧迫感がある。

 狭い通りをいくつか抜けると、急に大きな白い門の前に出た。

 漆喰の塀の上に、波型の甍の屋根が乗り、実に立派な門構えだ。


「ここが私の家です」

「えっ、ここ?」


 俊熙はこんなに立派な門がある家に住んでいるの?

 いや、もしかしたら門の先には物凄く小さい家が建っているのかもしれない。

 そんな失礼な想像で、予防線を張る。


 ところが、その先には想像もしないものがあった。

 敷地は広く、すぐ手前には楕円形の人工池。

 その後ろに、大きな屋敷が聳えていた。

 木と煉瓦を組み合わせたその様式は独特で、二階建ての家屋の窓の全てに、精緻な木彫りの格子が付けられていた。


「凄いわ、俊熙。貴方こんな所に住んでいたのね」

「以前は帝都の外れの方に住んでおりましたが、叔母は四年前になくなりまして。この辺りは中心部ですので、なにかと便利なので二年前に引っ越しました。……一人で住むには、広いですね」


 玄関から入ると、内部は驚くほど明るかった。

 入るとすぐに大きな中庭があり、天井の吹き抜けからは燦々と陽の光が降り注いだ。

 一階は水回りと中庭兼居間があり、二階に各部屋があるようだった。

 居間を囲む太い柱には、昇竜の彫刻がされている。天井にも真鍮の飾り板が打ち付けられ、壁には毛筆で書かれた美しい漢字が並んだ、掛け軸が下げられていた。

 中庭の中央部分を避けて置かれた椅子たちは、全部で八脚あった。

 私が知らない、俊熙の知り合いたちがここを訪れたりするんだろうか。

 彼はこの国で、私が想像もしなかったほど色々なものを手に入れてきたようだ。

 それを知るのは、誇らしいような、少し寂しいような、複雑な心境だった。


「俊熙、貴方この国で大成功を収めたのね」

「思い描いていた通りにはいきませんでしたがね。――私は三年前から宮城(きゅうじょう)で働いております」

「えっ、それは科挙に受かって、官吏になったということ?」


 俊熙はそれに答えず、上階へ伸びる階段に向かった。


「後宮の女官の人事に関しては、色々口出しできる役職に就いております」

「後宮の女官?」

「やってみますか? 王宮にいた貴女なら、ある程度馴染みがあるでしょう?」


 私は国を失ったのだ。

 働かなければ、この先生きていけない。


「私は普段、宮城で寝泊まりしております。この自宅には滅多に帰りませんので、一緒に宮城に上がって頂く方が私も安心です。――お一人には致しかねます」

「私に、女官が務まるかしら……」

「貴女が街中の飯屋や酒楼で働くのは到底無理ですよ。それに女官の方が遥かに安全ですし、月給も高い。初任給だと、十万銭くらいになります」


 十万銭の月給が果たして高いのか安いのか、恥ずかしながら私には見当がつかない。

 二階に上がると、彼は南側に位置する一室の扉を開いた。


「この部屋をお貸しします。一階も自由にお使い下さい」


 戸惑っていると、俊熙は笑った。


「元王女さまは、ご自分の下男だった男の家を間借りするなんて、お嫌ですか?」

「そんなこと、思うはずがないでしょう。感謝の気持ちしかないわ」






 夕食は俊熙が作ってくれた。

 中庭に卓と椅子を出し、そこに料理を並べる。

 俊熙が作ってくれたのは、鶏肉の団子餡掛けと、野菜炒め、それと炊きたての白米だった。


「凄いわ、俊熙。とても美味しそう」

「春帝国はかなり辛い味付けが多いのです。控え目にしましたが、お気をつけて」


 大根の千切りを炒めたものだと思って頬張ると、たしかに辛かった。

 口に入れた瞬間だけでなく、後から来る辛さもある。


「この大根、変わった食感ね」

「それは大根じゃなくて、万寿果(パパイヤ)です。南の州で取れる果物です。熟したものは甘い菓子のようで、未完熟の青い果実は料理に使えます」


 これが果物だなんて、驚きだ。

 シャキシャキとした、かなり繊維質な歯応えがあるのに。

 華王国にはないものが、ここにはあるようだ。

 



「明日、私は宮城に出仕します。一緒にいらっしゃいますか?」

「俊熙は宮城のどこで働いているの?」


 少しの沈黙の後、俊熙は静かに言った。


「後宮です。私は内侍省に勤めている宦官なのです」

「内じ……宦官……?」

「そう、私は宦官になりました」


 俊熙の口から飛び出た衝撃の事実に、二の句が継げない。

 宦官とは、去勢を施された官吏のことだ。

 華王国には存在しなかったが、春帝国では何世紀も前から続いている風習だと聞く。


「俊熙が……宦官に……?」


 尋ねる声が震えてしまう。

 子どもの頃からずっと一緒に過ごした、あの俊熙が?

 宦官になっているだなんて、想像すらしなかった。

 俊熙は表情ひとつ変えない。


「今は内侍省の、内常侍をしております」


 内常侍とは、官位でいえば、五品の官吏ということだ。たとえ科挙を首席合格したとしても、この若さで勤められるのはせいぜい九品官くらいだ。

 数多いる官吏の内、九品以内の者が上級官吏――いわゆる流内官、と言われる。

 そう考えると俊熙は途方もなく出世している。

 華王国で下男をしていた俊熙が、内常侍をしているなんて。


「でも、なぜ宦官なんかに……」


 なんか、などと言ってはいけない。

 頭では理解しているけど、衝撃が強すぎて失礼な言い方をしてしまう。

 華王国で生まれ育った私には、宦官なんて考えられない。

 食事が終わった俊熙は、立ち上がると私の隣に歩いて来た。

 動揺して見上げるしかない私の肩に、彼は手を置いた。


「怖がらないで下さい」

「怖がってなんかいないわ。でも、驚いているの」


 俊熙は肩に置いていた手を上げ、私の顎に触れた。

 そうして口元を緩め、小さな笑みを零す。


「米粒が付いていますよ。子どものようですね」


 彼の人差し指が頤に当てられ、親指が顎先の米を擦り取る。

 親指が離されると、そのまま俊熙は指についた米粒を口にした。

 どきんと心臓が跳ねる。

 私を見下ろす漆黒の瞳が、見慣れたそれのはずなのに、初めて知る俊熙を前にしているようで、微かに緊張を強いられる。


「私は何も変わっておりません。――何も。ですからご安心なさいませ」


 何が変わり、何が変わらなかったのだろう。

 寧ろ私たちの間では、変わっていないものの方が少ない気がする。









 翌日、私は俊熙に連れられ、馬車で春帝国の宮城に向かった。

 宮城は俊熙の邸からそれほど離れていなかった。


「あれが春帝国の宮城です」


 俊熙がそう言い、窓の外に聳える巨大な建築物を指差す。


 帝都の真ん中に聳える宮殿――宮城は、圧巻の大きさだった。

 広い敷地の向こうに大きな赤い建物が聳え、私たちは馬車をおりると真っ直ぐにそこへ向かった。その大きな建物を見上げながら、これが宮城かと思ってその大きさに気圧されていると、なんとその建物はただの城門だった。

 しかも、数ある城門の一つに過ぎない。

 門の一つが、城かと思えるほど大きいのだ。

 それを知った時、腕に鳥肌が立った。


 城門を通り過ぎて中に入ると、広い敷地に出る。

 独立した宮が幾つもあり、その建物一つ一つが、壮麗だ。陽の光を浴びて黄金に輝く甍は、欠けたところ一つなく、軒には色鮮やかに装飾がほどこされ、欄干に彫られた小さな像に至るまで手抜かりなく作り込まれていた。

 どの宮も屋根に四霊を象った装飾が乗せられており、麒麟や鳳凰、亀や龍が飾られていた。屋根を見上げつつ歩いていると、一つとして同じものはなかった。


 宮城の中は、長い土塀で区画が仕切られており、あちこちに設置された門を通ることで、行き来ができる。


「宮城の南側は外廷で、皇帝陛下が政を行われます。陛下や妃嬪たちの住まいである内廷は、北側にあります」


 大まかな作りは華王国と変わりないようだか、規模がまるで違う。

 時折、揃いの青い衣装の男たちとすれ違う。

 官服は色や形が全て揃えられていて、袖の装飾や帯に打たれた鋲の数で、役職や官品の上下を表しているらしい。


「俊熙、宦官の官服は紺色なの?」


 隣を歩く俊熙の衣は紺色だ。

 彼は無言で頷いた。


 宮城は内部に一つの王国ができそうなほど広大で、そこからもかなりの距離を進んだ。

 中央を大きな道路が走り、宮城を南北にわける。

 その北側に通じる門はひときわ頑丈そうで、左右に宮城を守る禁軍の武官が立っている。


 俊熙が勤める内侍省は、内廷の東北に位置していた。

 建物の中に入り、入り口近くにある小さな房に連れて行かれると、俊熙は私にそこで待つよう指示をし、どこかへ行ってしまった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ