別れ話をしているのにフードファイターが話しかけてくる
閉店1時間前のカフェ。人のまばらな3階の喫煙スペース。暗い顔の女が映る窓の外を見れば、分厚い雪がしんしんと降り続いている。
私は窓際の席で両手の指を絡ませ、唇を固く締めてマグカップを見つめていた。
約束の時間をすでに1時間過ぎている。果たして彼は来るのだろうか。
その時、階段をゆっくり登ってくる足音が聞こえてきた。私はより一層、タバコ痕の残る両手を固く握りしめる。
今日こそは、今日こそははっきり私たちの関係を終わりにしなければならない。
「話って何?」
足音の主は私の向かいの席にドカリと腰を落とし、胸ポケットから取り出したタバコに火を付けた。
私はゆっくりと顔をあげる。
長い金髪、眉間に深いシワのある厳つい顔立ち、ダッフルコートの袖からのぞくタトゥー。
私はこの男、ヒデキと別れるためにここへ来た。
「ヒデキ、別れよう」
3年前のクリスマス。花屋でアルバイトをしている時、「どうしてそんなに暗い顔をしているの?」と声を掛けられたのがヒデキと私の出会いだった。
当時高校3年生だった私は進路のことで何度も親と衝突していた。
結婚して家業を継ぐのか、それとも夢だったウェディングプランナーになるため専門学校へ通うのか、決めかねて苦しんでいた
誰も私を分かってくれない。私の気持ちなんて誰も理解してくれない。親も先生も、ただただ自分の主張を押し付けて来るだけだった。
そんな私の悩みをヒデキは親身になって聞いてくれた。
ヒデキだけが、私を理解してくれた。それがとても嬉しかった。
それから頻繁に会うようになって1ヶ月後、「俺と暮らそう。絶対に幸せにする」とヒデキは私の手を握りしめて言った。
ちょうど今と同じく雪の降りしきる夜、このカフェの、この席で。
涙が溢れてきた。やっと、私の進路が決まった。これで幸せになれる。
だけど卒業後、一緒に暮らすようになってヒデキは変わってしまった。
それまで働いていたホストの仕事を辞め、給料日のたびに私に金の無心をするようになった。
とてもそれまでのバイトだけで2人分のお金を稼ぐことなんて出来ず、私は限界までシフトを入れ、バイトも増やしてお金を工面した。何よりヒデキの喜ぶ顔が見たかったから。
だけどヒデキは次第に大金を求めるようになった。給料日の翌日にはパチンコで全額使い果たしてしまうことだってあった。
そしてとうとう耐えられなくなって金の無心を断ると、私の顔を拳で殴り「風俗に行ってでも稼いでこい」と吐き捨てた。
暴力は日に日に激しくなる一方で、うずくまる私を何度も蹴り上げ、タバコを押し付けることもあった。
それでも3年間、今まで別れずにやって来たのはヒデキの笑顔が見たかったから。そして「俺にはお前が必要なんだ」というヒデキの言葉に縋ってきたからだった。
だけどもう限界だ。別に幸せになれなくも良い。
普通に働いて、普通の生活を送りたい。それだけなんだ。
「別れられるとでも思ってんのか?」
ヒデキの表情は一気に険しくなっていく。怒鳴り散らし、暴力をふるう時と同じ目付きだ。
真冬にもかかわらず全身から汗が噴き出すのを感じた。
「痛い目に遭いたくなかったら、もう二度と別れようなんて口にするんじゃねえぞ」
散々ひどい目に遭わされてきたはずなのに、もう二度と痛い思いなんてしたくないはずなのに、一言脅された瞬間私の決意は鈍ってしまった。
無理だ、今の私に殴られる恐怖に打ち勝って、別れを押し切る勇気なんて無い。
ああ、私は馬鹿だな。馬鹿で弱虫だ。こんな馬鹿はこのまま一生、不幸でいるべきなのかもしれないな。
ふと窓の外を見ると、先ほどよりも大粒の雪がふわふわと地面に落ちていく。
そして窓に映った涙でぐしゃぐしゃになった女の顔、その私の後ろを天井から降りて来る工事用エレベーター。
……エレベーター?
店内に振り返った私は一気に涙が止まるくらいに驚いた。
先ほどまでは確かに閉じていた天井が開いて、そこからミュージシャンのライブパフォーマンスのように、エレベーターがゆっくり下がってきていたからだ。
乗っていた男がタンクトップに短パンという、到底この真冬を乗り切れるとは思えない装備をしていることもおかしい。だが何よりおかしいのは彼の前に置かれた折りたたみ式机の上に、ハンバーガーが山盛りに乗せられている事だ。
「俺の名前は畠。フードファイターをしている」
ここで謎の自己紹介をかます髭面の男。
あまりに異質な状況で私もヒデキも喋れないでいると、再び畠さんが口を開いた。
「俺はただの背景だ。続けろ」
いや無理ですよ。
「と、とにかく、今までの事もあって俺が中々信用出来ないのかもしれないが」
と、ヒデキが何とか話を戻そうとした時だった。
ハグッハグッハグ!
と今まで聞いたことのない音を立てながら畠さんがハンバーガーを頬張り始めた。まるで掃除機のようにハンバーガーを吸い込んでいく。
「おいオッサン、飯食うんなら他所でやってくれよ」
ヒデキが畠さんに向かって怒鳴る。しかし畠さんはカッと見開いた目でヒデキを凝視しながらこう言った。
「ハガバファ!」
「食うの辞めろや!」
「パラバァ!」
「何言ってんのかわかんねーんだよ!」
しかし畠さんは食べるのを辞めず、とうとう机の上のハンバーガーを全部食べきってしまった。
またしばらくの沈黙が私たちを包む。
「あの、どうしてハンバーガーを食べてるんですか……?」
恐る恐る聞いてみる。
「ハンバーガーじゃなくてチーズバーガーだ」
知らないですよ……。
「それで話は戻るんだけど」と畠さんを無視してヒデキが話し始めた時、今度は油の弾ける音が聞こえてきた。
なんと机の上にホットプレートを置き、素早く肉を並べている。
「何してんだテメェ!」
「肉を焼いているんだ」
「分かってんだよそんな事は! なんで俺の邪魔をするのかって」
「うるせええ!!!」
キレたら手に負えないヒデキを更に上回る勢いでキレる畠さん。
「何が気に入らないのか知れないが俺は肉を焼いているだけだ。それとも何か? 俺が肉を焼いていたら不都合な事でもあるのか?」
凄くいっぱい有りますよ。
しかし畠さんの勢いに気圧されたのか、ヒデキは一度舌打ちをしてから私の方へ振り返った。
「もういい、イズミ、とにかくまた一からやり直そう」
しかし今度は叫びながらMPの下がりそうな踊りを始める畠さん。
「美味しくなぁれええええ! 美味しくなぁれホオオオオイ!」
「ああもう! うるせえって言ってんだろうが!」
ヒデキは本当に我慢の限界に達したらしく、畠さんに飛びかかって胸ぐらを掴んだ。
しかし畠さんは動じず
「ハラミという肉は」
と落ち着いた声で話し始める。
「内臓の一つだがジューシーで柔らかく、内臓系が苦手な奴でも食べやすい部位だ」
「……」
「……」
「だからどうしたんだよ!!!」
「ハフッハッフ!」
「俺の話聞けぇええ!」
ヒデキは机の上に置かれていたホットプレートを持ち上げて地面に叩きつけた。
肩で息をするヒデキ。右手で箸を持ったまま静止する畠さん。
かと思うと畠さんの表情が一気に強張り、ヒデキを自分の背に乗せて一気に叩き落とした。
い、一本背負いだ……。
「食い物を粗末にする奴はぶっ飛ばす」
畠さんは机の上に散らばっていた肉を口に運びながら言った。
ヒデキは気を失っているのだろうか、一切起き上がってくる気配がない。
「おい女」
急に話しかけられてビクッとする。
「あの、何でしょうか」
「お前に正常な判断が出来ないのは、ちゃんとメシを食わないからだ。もっと食え」
そんな何から何までイレギュラーな人に言われても……。
「さて、シメに牛丼でも食って帰るか」
帰るって天井裏に戻るのだろうか。というかまだ食べる気なのかこの人……。
「あ、あの、畠さん」
階段を降りようとしていた畠さんは私の方を向いた。
「私、奢ります。牛丼屋さんに行くんですよね」
「良いのか?」
「はい。お礼を、させてください」
私は畠さんに向けて、できる限りの笑顔を作って見せた。笑ったのは何年ぶりだろうか。自分でも表情筋が強張って、頬が引きつっているのが分かる。
だけど私の表情を見た畠さんも笑顔で言った。
「じゃあ特盛10杯奢ってもらおう」
「3杯までにしてくださいよ……」
バッグを肩に掛けて急いで席を立とうとした私はふと窓の外を見た。
先ほどまで降り続いていた雪はほとんど止んでいて、町のネオンが輝いて見える。そして窓に映る女の表情は、最初よりほんの少しだけ和らいで見えた。
終わり
お読みいただきありがとうございました!
※フードファイトは危険ですので絶対に真似しないでください。