びわちゃん
一生二人でいると思ってた。
決して一人にはならないと。だが本当は違ったんだ。
雪はびわちゃんの上に少しずつ積もった。
ものの上に雪は積もる。人の上にだって積もるんだから、猫の上に積もったっておかしくないよね。
あああ、悲しいね。
あああ、冷たいね、雪。
びわちゃん?なんで死んだの?
置いていくなんて約束違反だよ。
びわちゃんがいない世界なんて、わたしも存在してはいけなくなってしまう。バカなあの子はわらび餅をもってきたよ。もらって手にとって投げつけてやったよ。
いらねえよって。
わたしはね?びわちゃんと二人で生きていくつもりだったのよ。二人きりで良いと思ってたのよ?
小さいびわちゃんを優しく抱っこして、そしたらびわちゃんまだ少し震えてた。
寒くないようにあったかい毛布で包んで、
そしたら気持ちよさそうに両腕を伸ばして眠ったね。
そのときわたしはびわちゃんのお姉ちゃんになったんだ。
あれから2年。ねえびわちゃん、わたしは幸せで仕方なかったよ。朝はお寝坊なびわちゃんと二度寝して、二度寝からびわちゃんに起こしてもらうんだ。毎日だった。
びわちゃん!壊れちゃいそうできつくは抱きしめないの!大好きだから、大切だから、優しく抱っこするんだ!
絶対に嫌がることはしないよ。びわちゃんもわたしにそんなことしなかったね。たまにじゃれて爪が引っかかるのはわたしが爪を切ってあげられてなかったからね。
みて!腕にまだそのときの細い傷があるの!
どうしよう。消えてしまったら。
びわちゃん、寒くないの?雪がどんどん積もって、見えなくなってしまうよ。
いやだから、雪をはらう。でもはらいたくない。だってほら、びわちゃん硬くて冷たくて、いつもみたいに目を閉じてくれないんだもの。
お姉ちゃんも連れて行ってくれないかな?
このままびわちゃんと冷たくなれるなら、いいかなあ。って思うんだ。
だっていないのだから!ここにいるのにいないのだから!お姉ちゃんをもう二度寝から起こしてくれないなら、もう起きなくていい。
わたしはあなたみたくなりたかったよ。優しくて静かに笑うあなたになりたかった。そんなあなたと一緒に居られる自分が好きだった。でももちろんびわちゃん、あなたのことが一番好きよ。
こんなわたしのところに天使のびわちゃんが来てくれたのね。そこでもうわたしは幸せになっていて、二人になって、もっとしあわせになったよね。
あああ、悲しい。
どうして悲しいことが起きるの?幸せだったのにどうしてなんだろう。
あああ、びわちゃん雪みたい。びわちゃんは黒いから、黒い雪だね。
わたしも指が凍ってね、動かなくなっている。このままこうしていれば少しずつ死ぬことができるんだろうか。
びわちゃん、お姉ちゃんは聞くよ?
びわちゃんお姉ちゃんにも来て欲しい?来て欲しいのなら、びわちゃん。お姉ちゃんも一緒に逝くよ。
ねえびわちゃん?
返事はないのね。
びわちゃん今日も一緒のお布団で寝ようか。
でも、たぶんこれが最後になりそう。
お姉ちゃんも、まだまよっているよ。
びわちゃん。わたしの可愛いびわちゃん。
私はいつまでも雪の降るそこに立っていたかった。私の飼っていた猫が死んだ。12月のとても寒い時期に。
たった2年しか経っていないのに、突然死んだんだ。
びわちゃん、少し歩こうか。お姉ちゃん今日だけ少しぎゅってするけど、苦しくないくらいにしかしないから安心してね!だってびわちゃんのことが大好きだから。向こうの通りまで行ってみよう。
涙は凍ってもなお流れた。
そのとき私は大きな光に包まれた。
耳から音がなくなった視界も綺麗になくなった。でも、わたしの腕の中にはちゃんとびわちゃんがいるのがわかる。
びわちゃんがなんだか少し暖かい。もしかして生き返ったのかな?少し嬉しくなる。
目が開かないから顔を見てやれない。
病室は清潔な匂いがした。
目を開けたが、驚いて呼吸困難のようになる。身体のどこかが叫びたいほど痛い。
パタパタと看護師がきて、つけている酸素マスクの濃度を上げてくれた。
「目が覚めたのはつきさっき?」
わたしががくがくと細く頭を振ると、先生を連れてくるとまたパタパタ戻っていった。
わたしは交通事故にあったそうだ。
あばらが折れて、ひどく出血していたものの、回復が良く、1週間後には退院できた。
はやく帰らなければ。
焦ってタクシーに乗り込んだ。
息を吸ったが、その後が出てこない
コートのポケットにある紙を取り出して運転手に見せた。
「ここに行ってください。」
わたしは事故のショックで、記憶をなくしていた。自分の家は想像できたが住所などは思い出そうとすると頭の中が白紙になった。
家に向かう道を見ていると、そうそう、と言いたくなるような見たことのある道だった。
そのときハッとした。思い出したのだ。
わたしは猫を飼っていた気がする。飼っていたか?いや、間違いなく猫を飼っていた。
家に着くと、急いでエレベーターに乗った。だが紙を見直すとわたしの部屋は105号室らしく、1階なのであった。
こういうミスは以前からするので、あまり気にはしないが、それよりも家だ。
エレベーターを降りて突き当り、105号室を開ける。匂いで記憶が戻っていく気がした。
わたしは1週間以上家を空けていたのに。猫は大丈夫なわけがない。
わたしはあちこちに猫の姿を探す。ねこ、ねこ、ねこ。いない。
何処にもいないのだ。
部屋は割と片付いている。猫の餌の入れ物はきちんと洗ってあった。
疑問が湧いてくる。猫を飼っていた形跡だけはあるが、ここには生き物は自分しかいない。
わたしはただ一人いる友人に電話をかけたが出なかった。わたしには家族や友人がほとんどいないため、
他人に何かを確認するということは、先ほどの繋がらない電話だけだ。
ペットホテルにでも預けたか?
記憶は、事故にあう瞬間に向かうにつれて薄れぼんやりとしていた。
まあ、いいか。
ただ、疲れてしまったな。いつものソファに座る。が、なんだか足りない。クッションでもない。
「まだ病み上がりだからね。」
独り言を言ってみる。体がだるい。
わたしはすぐに布団に入った。
そして、
「ねるよー」と言った。
電気を消した一人暮らしの部屋で、
変な気分だ。
人間の記憶とは当てにならない。自分の記憶が遠くなり、何も感じなくなるようになれば
捨てるんじゃあないか。
痛みが伴った記憶だとしても、名前をつけて思い出にしてしまうんじゃあないか。
勝手に思い出にされた方はどうだ。まだそこに留まっているのに、置いていかれる気持ちを知っているか。
わたしのことを覚えているか!まだここにいるわたしを!
わたしはつくづく一人だった。唯一の友人とも電話は繋がらない。
記憶はなかなか戻らないが、特別な生活をしていたわけではないのだろう。困ったとこはとくにない。
朝は遅く起きて、昼には何かを食べる。
夜はリンゴ1個を食べたら満足だ。
と、冷蔵庫をあけるもリンゴがない。
「買いに行くかあ、、」
今日初めて出した声はかすれていて、年をとった女のようにがさがさだ。
年の瀬だ。わたしには関係ない。
近くのスーパーでは歳末セールと歌っている。ゆっくりと品物を見て回る。リンゴとわらび餅とペットボトルのお茶を、それぞれ3つずつ買った。たまには甘いものが食べたい。
買い物袋を左手に下げ、雪道を歩く。スーパーの袋を持つ手が冷たくなり、右手に変える。事故以来あまり手に力が入らない。
家に帰るともわっと暖かかった。
買ってきたもの冷蔵庫に入れたときだった。チャイムがなった。
客が来ることなどほとんどない家に誰が来たというのか。
返事もせずに静かにドアの覗き穴に近づく。
「綾ちゃん?」
「いいから開けてよ」
友人が来てくれた。電話も繋がらなかったものだから、わたしはとても喜んだ。
友人を招き入れ、ペットボトルのお茶をカップに移して渡す。
彼女はなんだか怒ったような顔をしているが、身体のことを心配してくれた。
もうすっかり元気!とくるくる回って見せると、彼女はため息をついた。
「まだ思い出してないの?」
なんだか急に重い空気になる。わたしは綾ちゃんと喧嘩をしていたのだろうか。
そこに居るのが気まずくなり、台所の方へ自分のカップを取りに行く。
「あ、なんとなく思い出したよー。綾ちゃんごめんね?わたし怒らせてたまんまだったよね?」
探るような適当な返事をして、わたしはソファに腰掛けた。
彼女は眉間にしわを寄せ、こちらは見ずに家の中をひとつひとつ確認するように見ていた。
あ、そうだ!
と、わたしは先ほど買ったばかりのわらび餅を思い出した。
冷蔵庫に戻り、小皿にわらび餅を入れる。黒蜜をかけて、最後にきな粉をたっぷりかけた。おいしそう。わたしはもともとわらび餅が好きだったのではないか。
なんだか気持ちがうきうきした。一つ自分を知れたような。
友人の元へ持って行こうと振り返ると、台所の入口に彼女は立っていた。
ものすごい形相で睨んでいる。
「わらびもち…」
わたしが小皿を彼女の方へ差し出した瞬間、彼女はわらび餅を素手で掴んで私の顔に向け思い切り投げつけた。わらび餅は飛び散り、きな粉が舞って黒蜜は鼻に入った。
床に散らばったベトベトのわらび餅を彼女は何度もわたし投げつけた。泣きながらなげつけた。わたしはきな粉が目に入り、彼女を見ることができなかった。
「こんなもんいらねえよ」
彼女はそう吐いて出て行った。
わたしはなんでかわからず泣いた。きな粉をが涙と一緒に流れて床に何度も落ちた。
べたべたの床を掃除するか、シャワーに入るか迷った。なんでこんなことをされたんだろう。以前の私はそんなにひどい人間だったのか。
服を脱ぎ捨ててそこの上を歩くようにしてお風呂場に行った。目の中にまだきな粉が入っていてぼやけている。
思えばわたしはいつも1人だ。寂しくなどない。ひとりだった。
シャワーから出て、泣きながら台所を掃除した。こんなことするなんて最低だ。
綾ちゃんなんてきらいだ。他人は嫌いだ。
前もこんなことがあった気がする。
綾ちゃんを怒らせて、わたしはふてくされていた。あの時は確か猫に慰めてもらったんだったかな。
そういや猫はどうしたんだろう。もう綾にも聞けなくなってしまった。
事故と友人との一件と、わたしは精魂尽きていた。なんでこんなことになったのか。わたしはもともとうまく人と付き合えないタチだが、これまで多少は知り合いや友人がいた。
家族とはかなり前から疎遠である。
自由奔放に好きなことばかりしてきた。そのつけが回ってきたのだろうか。やりたくないことはどうしてもやらなかった。癇癪を起こしてでも、腕を掴まれているなら切り落としてでもやりたくないことはしなかった。
自分を異常だとは思わなかったが、そのかわり周りをつまらない奴らだと思っていた。下等なやつらだと。
性格が捻じ曲がっていることは重々承知だったが、直すつもりはない。そういうことを考えることすら面倒なのであった。
だからわたしは綾ちゃんには謝らない。まず謝る必要もない。考えても見ろ、呼んでもないのに家に来て、わたしはせっかくだから甘いものでも出そうと思っただけだ。それなのにひどい仕打ちを受けた。
イライラする。
なんでわたしには幸せがないのだ。
彼女は交通事故に遭った。
下を向いて道路に出た彼女が、乗用車にぶつかった。連絡が来た時には、彼女は意識を戻していたそうだ。
ただ、飼っていた猫の死骸を抱いて発見されたと聞いた時にはなぜ事故にあったのか合点がいった。
彼女には家族がいない。いわゆる一般の家族というものはもともとなかった。私とは中学からの友人で、家庭環境などで卑屈に育った彼女をわたしはうんざりしながらも見捨てられずにいた。
彼女の生活は荒れたものだった。家に引きこもっては毎日毎日酒を飲み、記憶を飛ばすことはしょっちゅうで、酔って電話をかけてくる彼女がわたしは嫌いになりかけていた。
会ったら会ったで顔色ばかり伺う子だった。彼女いわく、見えてなければいないと同じなのだそうだ。何かを大切にすることが困難だと、酒に酔ってもらしていたことを覚えている。
そんな彼女が猫を拾ったと嬉々とした声で電話をして来たのは2年くらい前だろうか。
あんたみたいな人が大丈夫なの?と心配した私をよそに、彼女は猫に文字通り溺れるほどの愛情を注いで行った。
それからというもの、以前とまるで違う人間かのように彼女は変わっていった。
以前ならば私が電話をすると、2コールほどで出ていた彼女が、音信不通となっていた。心配になり部屋を訪れても、猫の話と、猫と話をするばかりで、私から見れば狂っていた。
びわちゃんと名付けたその猫は黒猫で、瞳の色がわらび餅のようだから、びわちゃん。と訳のわからない説明をされた。
『わらびもち』を逆さから呼んだ挙句、呼びやすいように文字を減らすというのはつくづく変わっている彼女らしさを感じた。
その猫が死んだ。
彼女が事故にあった時に抱えていたものは、おそらくびわちゃんと名付けられた、死んだ猫だ。
その前日、猫が死んだと動転している彼女から連絡が入り、私は猫に備えるつもりでわらび餅を買って部屋へ行った。
彼女は穏やかな顔をして、涙を一定に流し続けながらわたしにわらび餅を投げつけた。
『いらねえよ』と発せられたその言葉には、自分の世界にはあの猫しか要らないという意味も含まれていたであろう。わたしは黙って踵を返し部屋を後にした。
異常なほどの溺愛の果てに失った悲しみなどわからないが、私は彼女を哀れんだ。
入院中の彼女には会いに行く気にはなれなかった。恐ろしかったのだ。
一度に色んなことが起き、彼女自身がどうなってしまっているのか、確かめることなど出来なかった。彼女は恐ろしい魔物のような、臆病なうさぎのような人だ。きっと心が狂ってしまっている。そんな気がしてならなかった。
私が見舞いに行こうか考えあぐねている頃、彼女から着信があった。私は出ることを迷っていると、留守番電話に変わったようで、メッセージが残っていた。それを聞いて背筋がぞっとした。
とても明るく、どこか楽しそうな彼女の声だ。『記憶があまりないの』彼女はそう言った。
それがどういう意味なのか、私にはすぐに分かった。彼女は、びわちゃんという異常なほどに大切にしていた猫のことを忘れてしまっている。
人間は大事なものから忘れていくという話を聞いたことがあるが、そんな残忍なことがあるのか?世の中には悪魔しか居ないのではないかと思いたくなる。
あの子は記憶と体の怪我を引き換えに、愛猫が亡くなった悲しみを失った。愛猫に注いだ愛情や、思い出を失った。それはかつて、ひとりぼっちだった彼女に幸せを与えた猫だ。
彼女の幸せそのものだったはずだ。それなのに。
彼女の家を訪ねることにした。まだ逢うのが怖いが、身体のことも心配であったし、私くらいしか話し相手は居ないのだからと言う歪んだ使命感から彼女の部屋のチャイムをならした。
なかなか出てこないが、すり足でこちらに向かっている音がする。バレバレの確認だ。
すると「綾ちゃん!」と声がした。
いいから開けて入れてくれ。
ドアの向こうの彼女は、ある意味少し若返っていた。猫を飼う前の、人になんでも合わせようとするこの感覚は、このひとの記憶から落っこちたものの大きさを感じさせる。
部屋は相変わらず、綺麗というか部屋で特に何もしていないことがわかる。
クッションに座る。彼女はパタパタと台所へ行ったりと忙しない。
部屋の隅には猫用トイレや、ご飯を乗せるトレーなど、あの猫を思い出させるようなものにあふれていた。けれど彼女には、それがどれだけの意味を持ったものなのか気づいていない。
わたしが複雑な心情で部屋を見渡していると、昔のように何もなくとも謝ってきた。
わたしの機嫌や顔色を伺っては、ペコペコ謝る。人に嫌われたくないのだ。そんな態度が嫌いだった。
彼女ははっとなにか思い出したように台所へ向かった。なにか思い出したのかもしれないと、あとから台所へ続いた。
わたしは驚愕した。驚愕というより悪寒のような、とにかく気持ちが悪いと感じた。
わらび餅を私に出そうとしていた。
おい、そのわらび餅で思い出してもいいんじゃないのか。私に投げつけたわらび餅。お前が必死に溺愛していた猫のことじゃあないか。へらへら笑ってこっちを見てるな!
怒りと気分の悪さ、とにかくこのヘラヘラした笑顔を消し去りたくて、こちらへ伸ばした小皿に乗ったわらび餅を手で掴み、彼女の顔に思い切り投げつけた。
きな粉の粉塵。柔らかいわらび餅は散って、あの時のセリフをお返しに吐き捨てて私は部屋を出た。
気づかなかったが私は泣いていた。
あの子はバカな女だ。ほんとうに、、
頭の中の、消す記憶を選ぶやつは悪魔のような顔をしているだろう。
そしていたずらに記憶を蘇らせる。
もしも彼女の記憶が、びわちゃんという猫のことを死を思い出したとしたら。彼女は2度愛猫を失うことになるだろう。
また愛情が溢れ出て、そして失った悲しみに打ちひしがれる。断末魔のような声をあげ、彼女はきっと、心がこわれるだろう。
きっと私は見ていられない。だから今も、猫のことは教えていない。
あの日。あの事故のあったあの日。
乗用車に正面からぶつかったとき、抱えていた猫の死骸が衝撃を緩和したために彼女は助かった。猫の死骸はバラバラになり、見るも無残だった為に、警察が処理をしたそうだ。
あの黒猫もまた、彼女を愛していたんだろう。死してなお、飼い主を助けるだなんて。
偶然だろうが、あれだけの異常な程の愛情を受けていれば、そういったことも可能性はゼロではないように思う。
その後わたしは彼女との連絡を絶った。
なんどか彼女らしい中身のないごめんが詰まったメールを受け取ったがみ返信のままだった。
仕事が終わり、帰路の間に何気なくそのメールを開くとまだ下にスクロールできるようだった。
続きには
『びわちゃんの場所へ行ってきます。内緒にしてるなんて、いじわる。さようなら。』
と書かれていた。
私はその場で胃液を吐き出した。




