三章04 転機
まずい。
非常にまずい。
覚悟はしていたがやはり辛くなってきた。
俺は部屋の奥から引っ張ってきたソファに身体を預けながら気を失わないように必死に堪える。だがその我慢も限界に来ており、気が遠くなっていくような恐ろしさと段々とソファに沈んでいくような気だるさしか感じない。
何が俺の身体を襲っているのかを分析するのであればそれはとても単純な現象、そう『眠気』だ。
元々従者が独房内に入り込んでくる前は全身を痛めて意識を失うように眠りコケてしまいそうな状況だったのだ。従者が侵入してきたことで吹き飛んでいたその眠気も襲って来ないと脳が認識した瞬間に再び牙を剥いてきている。
「っ!」
だが眠るわけにはいかない。
同じ独房内には人すら喰いかねない従者がいるんだ。それに意識を失いかけると部屋の隅で従者が蠢くような音がする。眠らせないという事か、あるいは眠ったら襲うという合図なのか。
空腹加減からここに入れられた時期を推測するにも意識を失っていた期間があるため断食していたような感覚があり役には立たない。感覚すらも溶けていくような化け物の居る闇の中で意識をすり減らす感覚が本当に辛くなってくる。
……ん? 何かが足に当たってきている――――なのにそれに反応出来ないくらいに意識が薄れて言っている様な――
何だ? 何か聞こえ――
「ギェエア、ァァア……」
「っぁあああ!?」
呻き声が聞こえた瞬間、意識が一気に覚醒した。
全身の毛が逆立つような感覚を覚えながら反射的に左足を思いっきり振り抜く。すると闇の中で俺の足に何か少しだけ柔らかいものが当たり、次いでそれが吹き飛ぶような音が狭い独房に響く。
「ひっ、ぁああ、ふっ、はぁっ……!」
バカな。
出来るはず無い。真っ暗闇の独房に人を喰らう化け物と一緒に閉じ込められて、眠り込んでしまうなんて。完全に眠っていたわけでは無いとはいえ、神経が擦り減ってつい眠気に意識を手放しかけたってのか。
しかも……俺が眠ってしまいそうになったのを見計らって部屋の隅でずっと動かなかった従者が襲って……いや、襲いにきたのかはわからないがともかく近づいてきた。
「はぁ、はぁ、ふぅ、かっは……くっそ……!」
心臓の鼓動がうるさい程に早まっている。
心を落ち着かせようとするが暗闇のせいかザワつくような不快感で押し潰されそうだ。
「何なんだよ……!」
起きている間は襲って来なかったというのに眠りそうになったら襲って来ただと。つまり、そう命令を受けているって事だ。起きている間は室内で大人しくしていろ、もし眠りそうになったら襲え。そういう命令だ。
可能性としては命令では無くそういう性質を持った従者なのだという可能性も捨て切れないが、どの道独房内にそういう『動作』をする従者をあの姉妹が配置したという事実は変わらない。
何のために?
眠らせないために。
何故眠らせない?
それが責め苦だから。
「っ、そういうやり方かよ……」
つまりこの休まらない鋼鉄の闇の中で、いつ襲われるかもしれない化け物とルームシェアしながら不眠不休で恐怖に耐えろと。そういう事だ。
冷や汗が首元から流れ出るのを感じ、傷付いた足首がまた痛み始めた。傷からどの位血が出ているのかもわからない、体力も着々と削られていく。身体を預けているソファだって鉄板の上に寝るよりはマシくらいだし、
「……」
狂う。
ここに入れられて既に時刻の感覚は無くなっているが多く見積もったとしても一日経っていないかそれくらいだろう。こんな状況で数日も放置されたら狂ってしまうかもしれない。いや、しまうじゃない。確実に狂う。
嫌だ。
狂いたくない、死にたくない。
逃げるんだ。でも、どうやって?
足に繋がれた鎖はとても破壊できる太さでは無いし、そもそもどうやって破壊するか検討もつかない。それに足を切断する勇気も道具も無い、更に扉には鍵が掛けられているだろう。この状態では逃げる事なんて無理だ。
だとするとここから生きて出る方法は一つだけ、様子を見に来るであろうライナに命乞いをする他に無い。ライナの言った通り泣きながら、懇願するように。
さっきまであったはずの敵対心は既に恐怖とすり替わってしまっている。怖い。怖いよ……いつライナがくるかだってわからないのに耐えきれるのか?
……早く来てくれ、俺が壊れてしまう前に。
______
「…………」
腹が減った。
眠らない様に気を張っているからというのもあるだろうが、あれからライナは全くと言っていい程顔を出さない。ライナが来ないという事は食料も供給されないという事、貰った謎の果物も大事に食べていたが既に芯まで食い尽くしてしまった。
それでもなお腹が空いているという事は三日、四日は経ったという事だろうか。その間何度も従者は俺が眠りそうになると近づくを繰り返してきた。
何度も。
何度も、何度も、
何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も。
「近づくな………!」
俺に覆い被さる様に接触してきていた従者を無理やり蹴り飛ばす。
もう限界だ。
体力も、精神力も底を尽きかけている。
寒い。
気温がそこまで低いという訳では無いだろうが何故か手足の先がとても冷たい。
苦しい。
見えない、眠れない、寒い、空腹、恐怖、それら全てが混ざり合ってもう何かしらのアクションを起こす力も無い。
このままここで死ぬんだろうか。
狂って、おかしくなって、自分の置かれた状況がわからなくなった辺りで鎖で自分の首でも絞めるのだろうか。俺は、どうなるのだろうか……
「流石に限界が近いみたいね」
少女の声。
幻聴、では無いようだが既にその声に過敏に反応する気力すらもう無い。
「……?」
「どうかしら、少しは心変わりしたからしら」
少女の声は少し昂ぶっているように聞こえる。俺が衰弱しているのを見て楽しいという事だろうか。
「……ぅあ」
「何? よく聞こえないわ」
「助け………て」
ライナが来ている。
助かるチャンス、懇願しなくては。生きるためになら何をしたって………
「反抗し、て、ごめんなさい………だから、たすけて………」
「泣いてるの?」
泣いている?
よくわからない。涙が出ているかどうかもよくわからない程に身体の感覚が鈍い。暗いところとか何も見えない時は他の感覚器が敏感になるはずだが、それを通り越して感覚器がオーバーヒートしてるみたいだ。
「もう逆らったりしないからぁ……」
「アハハ! 可愛い声出せるのね」
「言う事、聞くから、助けて……」
もう恥も外聞もかなぐり捨てて懇願するしかない。
「アルシアは貴女を『飼いたい』って言うものだから反抗心を失くすためにここに入れたけれど、案外効果あるものね」
「何でも、やりま……す………だ、から……」
「うん、このくらい従順になれば大丈夫ね」
自分の言っている事すらいまいちわからない程意識が混濁しているが、どうやら助けてもらえそうだ。良かった……本当に。これで助か――
「じゃあもう少し入っていてくれる? はいこれ食べ物」
「……ぇ?」
何かが室内に落とされるような音が響いた。
音的には柔らかそうなものだが、
「ま、待ってよ……!何でもするから、もう反抗しないからぁ! 出してよぉ!」
「大人しくしてればその内出してあげるから、心配ないわ」
人の気配が扉から離れていくのを感じる。
嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ。もうここから出たいのに、泣きじゃくりながら懇願すれば助けてくれるって言ったのに。このままここにいたら狂うって言ってるのに、
「ここから出してええぇぇ!!」
気配は完全に消えた。
殺そう。
いや厳密には既に死んでいる屍なんだろう?
なら殺すのではない、これは『壊す』だけなんだ。
どうせ狂って死ぬのなら、生きるために抗って死ねばいいと思う。殺されるかもしれないから攻撃出来ない? 狂ってしまうより楽だろう、何しろこの責め苦から自分の意志で逃れられるという点がとても魅力的だ。
「フッ、ヘハアハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!」
お前が悪いんだ。
お前が眠る邪魔をするからいけないんだ。
俺は何も悪くない。そもそもお前は生きていない。死んだ奴は大人しく寝ているべきだろう。
「死ね、死ねっ!、とっととくたばれよ!」
鎖を叩き付ける音が最高に気持ちいい。
肉が千切れ、骨が砕けて血液が辺りに飛び散る不快な水音が最高に脳にクる。
「安心しろよ……静かに眠れるように臓物と脳みそ綺麗に叩き潰してやるからさぁ!!」
これはもう既に狂っているのかもしれないな。
だって人の姿をしているはずの動く屍を肉塊にするために鎖を叩き付けるのがこんなに楽しいんだから。
鼻を突く死臭が脳を刺激し、全身にアドレナリンを垂れ流している。あれだけ疲弊していた身体でこんなにも動けて大声を出せるのが不思議なくらいだ。
「ああこの音……良い感じに潰れてきたかなぁ!!」
きっとこれは身体が最後の気力を振り絞っているんだろう。ついさっきまで眠れなくて極限の疲労感の中にいたわけだし、これが終わったら眠れなかった分を取り戻すように意識を失うんだろう。
段々と意識も薄れてきた。やはり全てを力を振り絞っていたんだ。気だるさがかつてない程に脳を殴りつけてくる。
「これで、これで……ゆっくり眠れる。最初からこうすればよかったじゃんか、何で……しなかったんだろう……」
叩き付けていた鎖はいつの間にか鉄と鉄がぶつかり弾ける音しか響かせなくなっている。ガンガンと鳴るその音が次第にと遠くなっていくのを尻目に俺の狂ってしまったかもしれない精神はそこで千切れるように途切れてしまった。




