二
周りが静かになった。
なんでここに、どうして私が、という問いが頭の中で渦を巻く。わけも分からないまま視界を塞がれ
――ぐぐぐぎゅるぎゅるぐぐううう。
どうしようもこうしようもなく腹が減ってしまってろくに考えることもできない。そこそこに長い間、切なく空きっ腹を持てあまし布団の中でじたばたしていたような気がしたが実際はさして時間が経過していなかったらしい。
「マレビトちゃん、お待たせ!」
男たちが戻ってきた。
あたたかいご飯。根菜と出汁の絡む味噌汁の湯気。魚の脂がぱちりと弾けて香ばしいにおいが辺り一面に広がる。和定食だ! このにおいは干物ですか!
――ぐぐぐぎゅるぎゅるぐぐううう。
「分かった分かった、今起こしてやるから。腹が減ってるんだな? 今食べさせてやるから泣くな、洟垂らすな」
スプーンで運ばれる食事をひたすら口にしてもぐもぐ食べる。男が「うまいぞお」と胸を張ったのは見栄でも嘘でもなく、実際たいそううまかった。実家の母が料理自慢なのでちょっとやそっとの料理上手じゃ感動しない程度に耐性があるのだが、少しずつ口に入れられる料理はどれもこれもきっちりと手間のかけられた味がした。
「坊主、なかなかいい喰いっぷりだな」
「おいじいいいい。おいじいでずうううう。おがーじゃんのごはんみだいでずうううう」
「はいはい、食べるか泣くか、どっちかにしようねー。しょーちゃん、平たい顔系ゲストさん用の食器が初めて役に立ったね」
「初めてって……まあ、そうだな。――坊主、次は鯵がいいか、おしんこがいいか?」
「おみぞじるぐだたい」
「――ああ、味噌汁な、その前に洟拭こうな」
洟を拭ってもらい、食事を口に運ばれ、まるで子どものように世話を焼かれた。不思議なことをいう人たちだし、迷惑そうにされても不思議じゃないのにとても親切だ。
視界が塞がれた私ができるだけ困らないように、との気遣いからだろうか。口もとに運ばれたスプーンで軽く唇に触れ、口を開けるよう促す。おかげで食べ物の気配を追って口をぱくぱくさせることなく食事することができた。
そして何より、おいしいご飯は偉大だ。
小さく切ってあるがんもの煮しめを噛むとじゅわり、出汁がしみ出る。しっかりと熟成された鯵の干物は身がふっくらするちょうどよい火の通り加減だ。ほんのりと酸味がのった浅漬け、これは白菜だろうか。昆布の旨みが塩気と甘みを引き出し、柚子の香気と違和感なく混ざる。ご飯はひと粒ひと粒がしっかりとして香り高くもっちりと炊きあがり、おかずの旨みを受け、舌にとどめる。
どうでもよくなったわけではない。ここがどこで、どうしてこうなっていて、なぜ自分が、何もかも納得できない。不安だ。でも空腹とないまぜになって暴発しそうだった心がおいしいご飯で慰められ、いったん落ち着いたのは事実だ。与えられたのがなじみ深い和食だったことも大きい。相手が親切でしかも言葉が通じているのに今ひとつ話が噛み合わない、そんな不思議な状況でも同じものを食べて同じようにおいしいと思える人たちが相手だったら今よりひどい状況にならない。根拠はないけれどそんな気がする。
ひとまず状況を知ることから始めよう。だばだばと涙と鼻水が止まらなくなるほどの感情の高ぶりがおさまり、なんとかそう考えることができるようになった。
ストローでお茶を飲み、一息入れたところで雰囲気が改まった。視界が塞がれていても何となく分かる。私も背筋を伸ばした。
「あんたの名前を聞く前にまずこちらから名乗ろう。俺は黒木昭三だ」
「僕は白井健太だよ。きみのお名前は?」
いい名前だな。おなかが満たされたというのにまたぞろ、駅前商店街にある赤白看板に福々しい眼鏡おじさんのファーストフードチェーンを思い出した。あれ、大好物なんだよなあ。おっと、今は揚げ鶏に思いを馳せている場合ではない。
「高橋ひばりです」
がたがたっ、と椅子が動く慌ただしい気配がした。後ずさりした……のかな? うろたえるほど変な名前かな。この世に二つとない、素晴らしい私の身体と心を表した真の名前、名付けした両親に心から熱烈に感謝を捧げよう、おーっほっほっほっほ、というほどではないが、バードウォッチング好きな親の思い入れが感じられて気に入っている名前なのでちょっとむっとする。
「うわ……なかなか大胆なお名前だね」
「部族の名を持ってくるとは……。駄目だ、そのまま呼ぶことはできんな」
「そうだね。バリ子ちゃんはどう?」
「なんだそれ、バリーでいいんじゃないか?」
「じゃ、バリーちゃんで。きみ、高橋バリーちゃんね」
やだ。絶対やだ。
「なんですか、その高橋バリーって。そんなの、私の名前じゃありません」
「仕方ないだろうよ。雲雀さん一族は誇り高い農耕集団なんだよ」
どうも私の名前を一族の名とする人々がいるらしい。
農産物の中でも穀物、さらに特に病害、虫害に強い品種を作り出すバイオテクノロジーと農場経営のノウハウを持った人々なんだそうだ。雲雀さん一族とやらのおかげで米や麦を作るのに向かないとされていた土地でも穀物を生産できるようになったとかで、人々の尊敬を集めているらしい。それはすごいな。でもそんなにすごいのに聞いたことないよ? 私のその問いはいらぬ波紋を投げることになりそうなのでひとまず呑みこんだ。
「俺らの間では一族の名前をつけたりしない習慣がある、そう思ってくれればいい」
「そうそう。バリ子ちゃんとバリーちゃん、どっちがいい?」
どっちも嫌だ。
「んなもん、『子』なんてつけたらますますけったいな名前になっちまうだろうがよ。バリーでいいよバリーで。男らしくていい名前じゃねえか」
え? 首をかしげているうちに昭三さんのいうまま私の名前は高橋バリーに決定してしまった。
「夜になったら包帯を外せるかもしれない。僕たちまだ仕事が残ってるから待っててくれる?」
「まあ仕事っつっても客なんぞろくに来ねえけどな。それでも店空けるわけにいかねえからよ。様子見に来るからいい子で待ってな、バリー」
昭三さんと健太さん、交互にぐりぐりかいぐりされ、布団に押しこまれた。
変な名前付けられた。男に間違われた。鳥を食べず、ひばりという私の名前を忌む変な人たちに。でも気さくでとても親切だ。包帯を外すと目が見えなくなるといわれ、動きようがない。今のところ生命の危機を感じないから逃げるつもりもないけど。
どうしたものか。認めたくないけど、ここは私の知っている日本、東京郊外にある大学の近くではないような気がする。
再び困惑に心が乱れそうになった。でも同時になんだか眠くなってきた。おなかがくちくなって、しかも布団の中でぬくぬくしているのだから仕方ない。