第二話 橘すみれ
「ここに彼女の子どもたちがいる。これからあなたの子になるのよ」
「は、はい」
私の言葉に彼女は両手を胸の前でキュッと握りしめる。熱いシャワーでも浴びてきたかのように顔を紅潮させながらうなずいた。
彼女は黒目がちな大きな瞳をさらに大きく開き、探し求めていた世界でたった一つしかない宝箱でも見つめるようにドアノブに視線を向けている。その熱い視線に彼女の胸の高鳴りがとなりにいる私にまで聞こえてきそうなほどだ。
そんな彼女とは対照的に、私は冷静に観察をしていた。
彼女は興味深い存在だ。いや、特異な存在であると言った方がいいか。
精神科医として彼女に関わり、接するうちに、好奇心を大きく刺激された。
この先にいる子どもたちは正真正銘、彼女、山村さくらの子だ。
今の彼女と子ども会わせることはおそらく十中八九適切な判断とは言い難い。それはおそらく確かなこと。
私がもし第三者で、彼女の事に関わっていなければこの件に反対したに違いない。
もちろん、彼女は彼女の子どもに会うことを希望している。この表情だ。楽しみや嬉しさ以外のどんな感情を想像することができよう。
彼女の希望……というのは理由の半分。半分は私の好奇心だ。
そう、私は知りたかった。純粋に、何が起きるのかを。
ただ言いわけをするならば、子どもには母親が必要なものではないだろうか? その上、この子どもたちには父親がいない。だとすれば、これは子どもたちのためでもある。
「あ、あの、すみれさん、名前は? 名前はなんていうんでしたっけ?」
「お姉ちゃんが梢ちゃん、弟が一樹くんね」
「はい、梢ちゃんに一樹くんですね……」
彼女はふっくらとした唇で音を紡いでは、慣れない音を自分のものにしていく。彼女はその音に慣れていないが、口は慣れているはずだ。すぐに自分のものにするだろう。やがて音は繋がり、抑揚が生まれ、音は名前になった。
「彼らはあなたの子どもになるけど、彼らからしたらあなたは今までと何らかわらない母親よ。だから、決してあなたがマリーであると悟られてはいけないわ」
私の声が届いているのかいないのか、彼女はうつむき加減のままうなずいた。
その視線はドアノブから動かない。胸の前で握られた手が今にもドアノブに伸びていってしまいそうだ。
「マリー」
私はもう一度、努めて優しい口調で彼女に呼びかけた。
明るい染められた髪は、生え際から黒い髪が伸び始めて来ている。
二人も子供がいるとは思えないほど、小柄で、化粧をしなければそのあどけなさに驚きを覚えるほど。顔立ちは美人というよりも可愛らしいという言葉の方がしっくりとくるだろう。
それとも今がマリーだからか?
呑気で、お日様の匂いでもまとっていそうな天然な性格が自然と顔にまで出てきているのかもしれない。
「うまくやってね」
私はゆっくりとヒンヤリとしたドアを開けた。開けながらマリーの顔を見た。誕生日やクリスマスプレゼントの包み紙を開く子どものようにマリーは身を乗り出し、何ともいえない表情を浮かべている。
ガランとした部屋の奥に二つの子どもの影。
まだその表情は見えない。窓から差し込む光が逆光となって二人の姿を隠す。
私は、そこにいるのが本当にあの子らなのか確認するために目が慣れるまで待たなければならなかった。
しかし、それは一瞬の出来事。すぐに目は慣れる。おそらくマリーだって、そうなるはずだ。そう思ったときにはすでにマリーは歩き出していた。何かに引き寄せられるように一歩、その部屋に足を進めていた。
二歩、三歩と近づく。警戒心はない。
「あっ……」
二人の顔が見えた。そして二人にも彼女の顔が見えた。
お互いの視線は合わさりマリーは思わず笑顔になると次の瞬間、マリーは二人に駆け寄り彼らを抱きしめていた。
まるで、それが当然の行為であるかのように。その時、子どもたちがどんな顔をしていたのか、マリーの影になって私には見えなかった。