第十話 梢と一樹・1
朝。
彼女は前日に選んでおいた服に着替え、使っている年数のわりには傷の多いランドセルを背負った。起きた時に倒れた目覚まし時計が七時半を回る。家を出る時間だ。
梢はいつもの通り無言で家を出た。
「あ、うん、と、えっと、いってらっしゃい!」
梢は無言であっても、マリーは笑顔で彼女を送り出す。梢はそんなマリーの顔をすこしも見ることなく出て行くのが常だった。
梢の態度がいかなるものでもマリーが笑顔を絶やすことはない。その光景を一樹は家に帰ってからというもの毎日目に映していた。梢が見ないようにしていた母親の表情を一樹は毎日見ていた。
母親は、あの時以来まるで人が変わったようであった。
姉が学校に行く時、朝起きて姉を玄関まで送っていく。今までであれば、朝起きていることや、姉に声をかけることすらなかった。それどころか、朝起きれば毎日母親がいる、こんなことは一樹が記憶している中でもまれなことだ。
あの日、入院して再会をしてからまるで別人のよう。そう、別人。外身は同じだが、中身だけが変わってしまったかのよう。
煙草を吸わなくなり、酒を飲まなくなった。家にいることが多くなり、長い時間家を留守にすることもなくなった。
酒を飲み、唐突に怒鳴られ、叩かれることもない。
それに……。
一樹は母親の目が特に気になった。
母親の目が、自分に向いている。気がつくと、その目と目が合うことが多かった。それは今までにないことだった。
以前の彼は、姉が出かけるのとほぼ同時に家を出ていたが、今は母親に興味があった。
一樹は部屋の隅で膝を抱え、母親から少し離れた所から観察することが多くなっていた。
姉のいない間の時間の大半を母親の観察に費やしている。
「あっ……」
「……」
また母親と目が合った。母親は一樹にも笑いかけると、いつもの通り部屋の掃除を始めるのだった。その手つきはどこかぎこちない。
しかし、一樹にはその動きが不自然なものだということがわからなかった。母親がそんなことをしている姿を見たことがなかったからだ。
ここのところ日課になっている掃除も一樹にとっては物珍しい光景の一つなのだ。
一面ゴミの山、クシャクシャになった洗濯物が渓谷を作り、異臭漂う足場の悪い洞窟のような場所だった部屋が、今は、床が見え、洋服は洗われ、綺麗に畳まれ収納されている。何もまたがずに歩け、足元に注意を払わなくてもよい。
湿気を吸ってひんやりとしていた布団も干され、今では心地よいお日様の匂いがしている。
「……」
これが、常にイライラして、横になりながら煙草を吸っていたあの母親と同じ人物なのだろうか?
今までは、その目は自分たちに向くことはなく多くの時間は携帯に向いていた。今、その携帯を触っている姿もほとんど見かけない。むしろ電源が入っているのかも怪しいぐらいだ。
マリーはじっと見つめている彼の視線に気がつくと、彼に向かいまたにっこりと笑いかけた。その笑顔に一樹は思わず目を反らす。
その行為にどう返したらいいのかわからなかった。するとマリーは作業の手を止め、目を反らした彼に勢いよく抱きついた。
まるで猫の親子がじゃれ合うような行為に一樹はただ体を硬直させる。
「!?」
驚く一樹にマリーはさらにニコニコと笑って見せる。
「笑顔笑顔……笑って笑って」
「……?」
マリーの言葉に戸惑いながら、一樹は母親に抱きしめられクラクラした。こんなにも柔らかく、母親の匂いに包まれたことがあっただろうか?
マリーは固まっている彼の顔を両手で無理矢理笑顔を作る。彼はされるがまま顔を笑顔にしたが、それは顔だけ形を作ったに過ぎなかった。
「よしよし」
それでも母親は一樹の頭を撫でた。
マリーは一樹が笑ったことを喜んでいた。猫同士は言葉を交わさず、表情だけであいさつすることが多い。
それを人間で行うと、この顔なのだとマリーは人間になって知った。
これが上手く出来ない猫はいじめられたり、仲間はずれにされてしまうことがある。もしかしたら人間でもそうかもしれない。
一樹はうまくできていないが、だからこそ彼に教えられることがマリーはうれしかった。本当の親子のように生きる術の一つを教えられたのだから。
本当は、自分が母にしてもらったように一樹と遊んだりしたかったのだが、生憎と今のマリーにはしっぽがなかった。
子育てのうまい母猫がしっぽを揺らして、子猫を遊ばせている姿にマリーは憧れていた。そのため、まだパートナーもいないのにしっぽを揺らす練習をしたほどだった。
元気よくしっぽを追って遊んで、狩りの基礎にだってなる。
って、人間は狩りはしないか……。
マリーが考える「生きていくための技術」は猫のもの。人間とは違う。マリーもそのことは理解しているつもりだ。
人間は、狩りはしないし、食事の調達法も野良で生きていた自分達の常識ではない。教えられることも、与えられることも少ない、とマリーは子どもたちと過すようになって痛感していた。