【騎】 違和感の行方
昨晩預かった文の返信を朝一で手配した後、俺はアイシャの元へ向かっていた。
領地視察の件もあるが、あの時一瞬、呼び止められた不可解さが残っていて。
あいつがおかしな態度を取るのは特に珍しくもなかったし、後になってみれば大した事ではなかったという事も間々あったから、今回もそうだとよいのだが。如何せん、立場が立場である姫様。万一の可能性を考えて思い至ったのが、昨日俺がドレイクに呼び出されていた頃、あいつを見ていたのが彼女だったという事だ。
彼女ならば、何か異変があれば些細な事でも報告してくるだろうし、昨日の時点でそれが無かったというのも見落としたとは考え難いから、彼女でも気づかなかった何か、という可能性も有り得るか。普段隠している顔があるからこそ、俺にしか解らない機微がある。そう思いながらも可能性を一つずつ潰すべく、そして視察の準備の件もあってアイシャの下を訪れるのだ、が。
不可抗力。思い立って最も早いタイミングでの来訪をして此の結果なのだから、そうとしか言いようが無い。何故こんな時に――あからさまに鬱陶しがる内心は包み隠して、俺は隊の詰所へ向かう途中で廊下の向こう側から歩いてきた3人の人影を見止めた。大人が二人、子供が一人。大人の方は男女が一人ずつ、女の方はよく知った顔で俺の部下――というか、今まさに訪ねて行こうとしていたアイシャ本人である。他の二人も何度か会った事がある。彼女の夫と息子だ。
アイシャの夫は文官で、職種こそ違えど城勤めでもあるから、同じ城内で出くわしても不思議はないのだが、それにしても子供を城まで連れ込んでいるのは珍しい。何かあったのかと思うと同時、あまり得意ではない感覚に胸中で嘆息しつつ「アイシャ」と簡潔に部下の名を呼ぶと、
「隊長、おはようございます。お疲れ様です」
家族の前だからだろうか、平素よりも若干柔らかい表情の彼女が答えた。
「この人、昨日は城に泊まりだったんです。そうしたらマニが、迎えに行くって言ってきかなくて…」
経緯を説明するアイシャの視線の先に、背の高い温厚そうな男と、生意気そうなチビの姿。成る程、アイシャが出勤したのと入れ替わりに、父親が勤めを終えて帰宅するという事か。それにしても、夜勤明けだとしたらその後続けて子供の面倒を見るなど骨だろうに。そこは体を張るのか使用人に任せるのか、他人の家庭の事情に口を出すつもりは無いので想像に留めておくが、俺が意識を向けていたのはアイシャよりも彼女の夫よりも、チビガキの方だった。さっきからアイシャの後ろにこそこそ隠れているくせに、視線だけは妙に刺さる――これが、面倒だと嘆息せざるを得ない居心地の悪さの正体だ。
そんな俺の胸中を知ってか知らずか、柔和な笑みを携えて父親が一歩前へと出てくる。
「妻が、いつもお世話になっています。ほら、マニ。お前もラグナス様にご挨拶なさい」
表情に違わぬ柔さで、息子にも己に倣うように言うのだが、ちっこい影は母親の背後から一向に出てくる気配を見せない。どころか、何故かその目だけは口ほどに一丁前で、猫のように此方を威嚇してくる始末だ。……このガキ。俺の何が気に入らないのか知らんが、良い度胸だ。
と、間違っても表情には出さず腹の中であれこれと渦巻かせていると、今度は思わぬ方向から横槍が入る事となる。
誰かが歩いて来る気配は感じていたのだが、その気配、足音から見なくともわかったし、違えようもない人物。
その身分で、城内を闊歩すれば誰もが頭を垂れる――メラウェン国第三王女・リシュレイア姫。というか、俺はこいつの為にアイシャの元へ向かっていたのだった。そもそもの発端に内心溜息を吐きつつ、主へ目礼をしておく。
「あら? アイシャに…イブンさん。おはようございます」
やがて城内では珍しい組み合わせに気付いたレイアは、にこりと姫の微笑みを浮かべて挨拶した。
それに夫妻が一礼と共に返し、先程と同じく子のマニを促す。まさか俺だけでは飽き足らず、一国の頂点に名を連ねる者に粗相など、この両親が許さぬとは思うが――まあ、相手は子供だ。子供だから何もかも許されるというのは納得いかないが、それでもレイアなら笑って許容するだろう。
そんな事をぼんやりと頭の隅に流しつつ、しかし俺の心配をよそに、マニはとてとてと母親の後ろから進み出ていた。そして、
「ひめさま! レイアひめさま!おはようございますっ!」
子供の特性を最大限に生かした屈託のない笑みで、俺への態度が嘘のように朗らかに挨拶をするのだ。……このクソガキ。機会があったら確実にシメる。礼儀というものを教えてやる。
そう心に誓う俺をよそに、夫妻とレイアは近況などの世間話を始めたようだ。アイシャに昨日の事を尋ねるタイミングは完全に失してしまったらしい。




