【姫】 不可解な揺らぎ
「待ちなさい。」
意識せずに自身の口から放たれた言葉に一番驚いたのは他でもない私だった。手紙を書き終える意味でも、状況的にも退散してくれることはありがたい限りだ。なのに。
そんな動揺を表情には一切出さずに、振り返るラグナスを見上げた。呼び止められることは予想していなかったのだろう。そんな顔をしている。何だと目が問う。……本当に不遜な奴。
「……近々、領地視察に私も行くわ。そのつもりで準備をしておいて。」
領地視察はやはり遠征になる。護衛の配置や荷造りなど準備することは多い。咄嗟の口実としては良かったとは思うが、わざわざ呼び止めて今言うことでもない。それはラグナスも感じたのだろう。窺うような視線と共に距離が1歩縮まった。つい目を逸らす。問われても困る。自分自身が何故呼び止めたのかわからないのだから。
「止めて悪かったわね。……手紙を書くわ。」
「なんだ、構ってほしいのか?」
言いたいことは言ったと先程とは逆に此方も踵を返す。けれど、こんな不自然な言動をラグナスが見ないふりをするはずもなく、後ろからグイッと腰に手を回され引き寄せられた。顔を仰向けるようにして睨み付ければ余裕たっぷりの、寧ろ面白がるような表情が浮かんでいて、いつものことだけれど苛立った。
「……そういう顔をたまには外でも見せればいいわ。そうしたら煩わしい結婚話も減るし、妙な性癖があるんじゃなく性格が悪いんだってわかるわよ。」
「却下だ。俺は勤勉で優秀な護衛騎士だからな。」
さも当然と言うように嫌味としか思えないセリフで主人の言葉を切る従者のどこが勤勉で優秀な護衛騎士だというの。確かにこうしてプライベートの空間以外では文句のつけようのないことは否定できない。だからこそ気に喰わないのだけど。
「優秀ならさっさと出て行くのね。手紙の返事、そろそろ出さないと兄様が帰って来るわよ。返事が来ないから倒れているんじゃないか、とか言ってね。」
「やりかねんな。」
うんざりと呟いて何事もなかったように隣室へと踵を返した背を見送る。扉が閉まり思わずホッと息をついた。今宵はなんだかおかしい。釈然としない気分のまま椅子に座り、手紙の続きを再開しようとしてため息をついた。
「風邪でもひいたかしら。」
胸が遣えた様に重苦しい不快感。理由がわからないというものほど始末に負えないものもない。今優先すること、考えなければいけないことに意識を集中させる。王族たる者、そう簡単に心を乱してはいられないのだ。些細な不調で支障を来たすなど。
任されている領地は3つ。横並びに並んでいるが、そこに行くまでの距離が馬で半月かかる。これはクロノイアのやり方を真似ているのだが、最低限の装備でギリギリまで先触れを出さずに向かうことになる。
領地周辺からの噂も決して無視できない。もてなす表の顔だけを信用していては本当の領地の状態は把握できない。充分に情報を集めた上で来訪の意を告げるのだ。何と言っても正直曲者揃いなのだ。3つの領地の領主達は。
3つとも中規模の地方都市でメラウェン国の北部に属している。言い返れば辺境だが、国の威光から遠いこともあって伸び伸びとしている雰囲気がある。何より、それぞれ領主が力を入れている分野が異なるから興味深い。
そういえばクロノイアの領地のひとつが近かった。楽しいから1番最後になんて言っているあたり国の膝元というのはやっぱり窮屈な面があるのかもしれない。
そうだ、手紙だ。ロスしてしまった時間を取り戻すべく猛然とペンを走らせる。この部屋の向こうには早く書けと言いながら、無難な手紙を完成させろと考えているラグナスがいる。あまり時間がかかって様子見に来られると面倒だ。
ご機嫌伺いと返事と近況、これからの予定……書き漏れはない。封蝋の刻印も問題ない。あとは朝一でこれを手配してもらえばいい。便箋などを片付け、席を立ったタイミングでノックの音が響く。動いた気配に気付いたのだろう。敏いというべきか、地獄耳というべきか。いずれにしてもタイミングは良い。
「入りなさい。」
「書き終わったか?」
「ええ、朝一でお願い。」
部屋に入って扉を閉めるまでは完璧な礼儀で、扉が閉まった途端がらりと口調が変わる。今更そこにいちいち目くじらを立てるのも馬鹿らしい。さっさと手配しに行けと言わんばかりに机に置いたままの封筒を目で示した。




