No.9
「先輩、明日仕事じゃないんですか?」
「まあな。一応此処でも支度は整えられるし、車だから家に寄っても、直接会社に行ってもいい。何にせよ、今日こいつが一人っていうのも危なっかしい気がする」
「だからお父さん、なんて言われるんスよ」
「お前は? 学校には間に合うのか?」
「あー、かなり早く行けばってとこでしょうねー。大丈夫ッス、自転車ですから」
車に対抗できるのは小回りが利くところだ。
ささやかに笑ってみせると、天満も同じように僅かに微笑んでみせた。
そうしてから天満と深川は手分けをして家の戸締りと、この家の主やリッカの世話を済ませると、それぞれ床についた。
口に出さずとも、思うことは同じ。
安らかに眠れますようにと。
目が覚めてしまった。けれど視界は真っ暗。
いつから世界はこんなに暗くなったのだろう? そんな、ばかなことを考えられているうちはまだ大丈夫。
いつも椅子に座っているせいで癖になってしまった背伸びをしたが、気だるさが体に残っている。
隣ではすうすうと規則正しい、リッカの寝息。
頭を撫でてやると、そのリズムがほんの少しだけ乱れて、僅かに口元が上がる。
最近は真夜中に起きてしまうなんて事はなかったのに、一体どうしたのだろう。
酒を飲みすぎてしまったのだろうか?
とにかく水でも飲もうと、台所へと向かう。
抜き足、差し足、忍び足。
そろりと部屋を抜け出し、水の流れる音を聞くだけで気分が落ち着いてくる。
流し場から立ち去ろうとすると、ガサリと妙に響く音がして、思わず身を硬くした。
「・・・・・・ったく、脅かしやがって」
B級ホラー映画ならこの後すぐに狼男でも出てきそうな台詞を呟いたが、なんのことはない。
自分の足がプラスチック製品を入れたゴミ袋を蹴ってしまっただけのことだ。
気を緩め、満月はとうに過ぎてしまったが、それでもまだ明るい光を放つ月を窓越しに見上げる。
窓枠に囲まれた世界。
草木と月光に照らされる薄暗い雲をまるで一枚の絵のように彩り、それを縫いとめているかのように、月が重く見えた。
木の葉の影が段々大きくなるような気がして、目をそむける。
らしくないけれど、なんだか気分が重くなっているらしい。
早いところ寝てしまいたい。
けれど、こういうときに限って眠気というのは訪れない。一体俺の神経はどうなってるんだか。
一人ため息をつく。
そうして部屋をゆっくりと見渡す。
電気を落としているせいで全体は薄暗いが、ゴミの影はほとんどない。
「リッカのおかげだろうな」
実を言うと、我家は汚かったのだ。ものすごく。
衣服、食器、寝具。
汚いまま放置して、本気で限界だろうという頃合になると、ようやく重い腰を上げて大掃除を始める。
そんな自堕落な生活をして過ごしていたのに、(本気でやばくなったら深川が掃除してくれたりもしたが)今ではリッカがいるのでそうもいかない。
なにしろ、とある国の王子様です、と公言すれば百人中九十八人くらいは信じそうな美少年だ。
美しいものは美しいまま眺めたい。
駆け出しとはいえ、イラストレーター兼小説家としては、美意識を取り戻してくれる貴重な存在だ。
それに、埃で死ぬ事はないだろうが、アレルギーになってしまったら可哀想だし、俺みたいに不健康な生活をしているヤツの側にいる上、乱れた食生活をさせてこれ以上健康を害させてはいけない。
なにより食器を重ねて置きっぱなしにすると、引っかかった拍子に食器が割れて怪我!
なんてことになったらもっと可哀想だ。
そんなわけで、ちょこちょこと掃除するようになった。
最初の頃は美少年らしくなく、風呂を嫌がる素振りも見せたリッカだったが、今では嬉しそうにしていて、一緒に入ることもある。
大分お互い慣れてきたようだ。
良い傾向だ。
「いや、まて。別に好きだからとかそういうことじゃなくて、ただ単に仕事に役立つし、その、家事をやってくれるんだから大切にしなくちゃいけないというわけでェ・・・・・・」
このとき。
聞いているはずがない誰かに必死に言い訳をしていた俺は気づかなかった。
後ろにぬうっと立っている影の事を。
奴は、すぐ傍まで来ていたのだ。




