最終話
「――ぐッ、かはッ」
微かに漂う、機械特有の香り。
その中に、僅かに鉄の匂いが混じる。
暗い室内でもはっきりと分かるディスプレイの光が、黒いコートに包まれた男の横顔をぼんやり照らした。
いつからいたのか、男のすぐ側で無表情に佇んだままのアンドロイドは、口を拭くための布を手渡すと、男の肩の後ろと膝の後ろに腕を差し入れ、負担をかけないようにして洗面台へと連れて行く。
男はぐったりと力を抜いたままで、不規則な呼吸を続ける。
「ジウ様。心拍数、脈拍共に正常値とは離れています。酸素をお持ちいたしますか?」
青ざめた顔のまま、弱々しく頷くのを確認すると、無表情なアンドロイドが素早く口を動かす。
すると、二十秒も経たないうちに小型のボンベが運ばれてくる。
口をゆすいだ後、マスクを口に当てると、また無表情なアンドロイドが男を抱え上げた。
寝室へと横たえてから、用意されてあった水差しをゆっくりと口元へ運ぶ。
一口だけ飲むと、ジウと呼ばれた男は、ゆっくり首を振った。
アンドロイドが水差しを戻すのを確認してから、天井へと目線を移す。
そこには満天の星空が広がっていた。
高い高い天井は、防弾ガラスになっていて、いつでも空を見ることができる。
ちなみに開閉可能、ガラスのさらに下に層を作る事も可能であって、雨天時であろうが昼であろうが季節に応じた満天の星空を楽しめる仕様になっていた。
「90716bは無事に前代の家へ溶け込めたようだ」
「そうでしたか」
「お土産は、きちんと転送してくれたかい?」
「はい」
平坦な声だったので、聞く者によれば何の感情の動きもないのではないかと錯覚してしまいそうだったが、ジウはこのアンドロイドがほっとしていることを悟っていた。
「前代は面白い男だったよ。子どものように聞き分けがなくて、純粋で、頑固だ」
「貴方が気に入られそうな方ですね」
そうなんだ、とジウは囁く。
アンドロイドは、ジウの血圧が下がっているのを見て取ると、目をつぶってくださいと警告する。
薄いビニールのような膜にジウが包まれたのを確認し、何か操作をすると、膜の中で光線が発せられ始めた。
熱くも痛くもないようで、目を閉じたままジウは話し続ける。
「リオナ。90693bとgrの受け入れ先はどうだ?」
「素行も収入具合もまずまずといったところです。反応も悪くないようですね。前代と比較するなら、収入は上です」
「そうか・・・・・・90718grの家も探してやらないとな・・・・・・」
「ランダムで幾つか候補を挙げておきます。今はお休みください」
その言葉に安心したようで、ジウは僅かに微笑むと眠りに入った。
無表情なはずのアンドロイドは僅かに目を細め、すでに意識がないジウに向かって一言だけ囁く。
「おやすみなさい、博士」
余命少ない自分の主に、ささやか過ぎる労わりの言葉を告げると、起きた時にジウが食べられそうな物を作っておこうと部屋を出て行く。
確かに、ここら辺の位置に、パソコンもスクリーンもないのに、透明な文書が俺には読めない文字で浮かんでいた。
「アンミツ、さっきのウィンドウの文字、読めたか?」
「少なくともアルファベットに似た文字ではなかったし、漢字でもなかったな・・・・・・ラテン語とか、ギリシア語か? どちらにしろ、俺たち側からすれば鏡文字だったからよく分からない」
「あれはデデルモナム語ですよ」
「え、深川読めたの?」
「すいません、まさか本気にされるとは思っても見ませんでした」
照れくさそうに笑う深川に、アンミツと二人して肩を落とす。
デデルモナムって、どこから出てきたんだ。しかもありそうだし。デデルモナム語。
「さあて、寝なおすか」
「自由業はいいな、時間を気にしないで良いから」
「あ、もう朝? 何か朝飯作ってやろうか?」
「「結構です」」
「何だ、二人して・・・・・・? 大丈夫、レパートリー増えたから。リッカも美味しいって言ってくれたんだぞ」
「リッカはアンドロイドじゃないですか・・・・・・鉄の胃袋持ってるんですよ」
「俺たちを殺す気か」
「頭きた! ならお前たちでなんか作れ! 人の家の台所で、人様の冷蔵庫から取り出して、勝手に食え!」
「材料を買ってきたのは俺だ」
「置かしてやってるのは俺だ!」
「なら買って来ないほうがよかったか」
「そ、それは・・・・・・」
「はいっ、はいはいはーい。先輩方。オレが何か作りますから。何がいいですか?」
「オムライス!」
「子どもか」
「いいじゃねえか。男はずっと少年の心を持ち続けるモンなんだよ。お前は無味乾燥な大人に育っちまったみたいだけど」
「オムライス食べたらオレたちすぐに家を出ますから、すいませんが皿を水に浸けておいてもらえますか」
「オッケー」
リオナと呼ばれたアンドロイドは、途切れることなく指示を飛ばし、他のアンドロイドの点検、整備、修理を手早く済ませると、それらとともに研究所であり棲家でもあるこの場所を手分けして掃除し始める。
しばらくするとリオナはいつもならジウが常に見ているモニターの前に陣取り、よどみない動きで両の指を動かす。
すると、サブモニターには幾つものリストが上げられた。
90716bと表示されているリストに、リッカの名前を入れておく。
上書き保存し、前代家と、未聞のデータが詳細に書かれているリストを一緒に付けながら完了フォルダへとコピーした。
90716bの受け入れ先、前代未聞――何度読み返してみてもふざけた名前だ。
今まで聞いたこともないくらいに、変わったことの意を示す四字熟語。
何を思って前代の親はミモンなんて名前を付けたのだろうか。
前代の親が何を考えていたのかまではデータに入っていないため、リオナは僅かに眉を顰めた。
唯一つ本人にとって救いといえるのは、音読すればゼンダイミモンではなく、マエシロミモンになることだろう。
暫く双方のデータを読み直していたが、思ったより時間が経っている事に気づいて、メインモニターを見やった。
幾つもリストが照合されては消えていく。
条件に当てはまったリストが138件。
それらをランダムでコンピューターに選ばせて、10件に絞り込む。
それから後の作業はジウの仕事だった。
最後はジウ本人がリストを見直してから、ゆっくり時間をかけてアンドロイドの受け入れ候補者を探すのだ。
シナリオはこう。
何かしらのきっかけで自分の手元にあるアンドロイドを候補者の家に行かせる。
いくらか月日が経つと、ジウが出向いて非情にアンドロイドを扱っていることを仕草や態度で示す。
その時に候補者が同情し、尚且つアンドロイドだという事実を知ってもアンドロイドを引き取るだけの覚悟があるかを見る。
そうして、ジウは嫌われ憎まれ蔑まれたまま、消えていく。
アンドロイドにすら真意を告げないままで。
いつも同じだ。
電源を切ってただの人形になっているAvi - dobo 90000ナンバーが何十体もいる部屋で、「お前たちに必ず家を見つけてあげる」と語りかけていたのは、ニ、三回の話ではない。
これを知っているのはジウを除けばリオナだけだ。
どのアンドロイドにも――たとえ比較的可愛がっていた90716bにも教えるつもりはなかった。
アンドロイドの口から計画が漏れないという可能性だってゼロとはいえないのだ。
「・・・・・・けれど、もしかしたら前代は感づいているかもしれないな」
リオナはジウによく似た、楽しそうで悲しげな笑みを浮かべながら囁いた。
「皿、よし。スプーンよし」
水にきちんと浸けておく。
玄関扉が施錠されていることを確認し、家の窓の鍵も念のために確認しておく。
歯磨きとトイレを済ませ、二人揃って寝室へ行くと、ベッドの横にある小さな棚に、何か置いてあるのが見えた。
毒。
「毒かよ・・・・・・」
人体にもアンドロイドにも有害な薬品です。
けれど、六花が非常事態の時に飲ませたら、もしかしたら効能があるかもしれないね。
ほら、日本のことわざでも「毒を以って毒を制す」っていうだろう?
悪いけど世話をよろしく。
―― 緑青
そんな文章が、あの時と同じ薄いベージュ色の紙に、褪せた黒インクで書かれていた。
違うのは、ろくでもないということだけは一致している内容ともう一つ、オマケがあることくらいだろう。
赤いリボンがいかにも毒々しい小瓶が、封筒の横にちょこんと置かれている。
ラベルには見た目に反さず、「毒。」の一言のみ。
劇薬をこんなところに置くんじゃねえ。何かあったらどうするんだ。
それに・・・・・・
「もしかしたら効能があるかもって」
曖昧すぎるだろう。
寝付けない様子だったので、今日だけ特別だぞといいながら一緒のベッドへと潜りこませる。
熱を確かに感じながら、うとうとし始めていたリッカに、一つだけ聞いてみた。
「なあリッカ」
「なんだ?」
「何でお前、最初に来たときにリッカって名乗ったんだ? お前、緑青から番号で呼ばれてただろ」
「・・・・・・博士が言ったんだ」
「お前の名前はリッカだって?」
「違う」
―― 今夜は冷えるなあ。
知ってるかい? 寒い時にふる、白くて冷たい小さな氷。
あれを僕たちは「雪」と呼ぶけれど、花のようだから「六花」と呼ぶ国があるらしいよ。
「博士が、降り始めた雪をみながら『りっか』と言った時のことを、ふと思い出したから」
「アイツ・・・・・・しっかり名前を付けてんじゃねえか」
「ミモ?」
「いーや、何でもない」
「だからミモと会った時、正式な名前が『りっか』だって答えた」
「ふうん」
「そして、ミモが名前を呼んでくれた時、『りっか』が多摩氏の名前になった」
「待て待て。何の名前? また新たな識別番号か?」
「違う。いつか番号じゃなくて本当の、タマシの名前が贈られるだろうって、博士が言ってたんだ」
「そりゃ魂だ」
「タマッシー」
「ネッシーじゃないんだから」
「ネッシー?」
「いや、もういい・・・・・・。ほら――六花。もう寝ろ」
「うん」
大人っぽい口調と、まるで子どものように無邪気な口調が混在する美少年は、いつもよりも深く眠っている気がした。
「っていうか今時、『六花』なんて言葉、日本人だってほとんど知らないってェ。・・・・・・なんだか緑青らしいな」
緑青の何を知っているのかと言われれば、それまでなのだけど。
銅の表面に発生する、有毒とされてきた緑色の錆。
そんな捻くれた名前を名乗る奴にも、人並みの心があったということなのだろう。
「ぐっすり眠ったら、いいアイデア浮かびそう・・・・・・」
とてつもなく頭が良いのに可哀想なくらいに不器用な科学者。
お菓子作りが得意で、いろいろと気が利くけど口煩い大学生。
容姿は完璧なのに、ぽつりと漏らす一言が無神経な無表情男。
見た目生意気な美少年なのに、雪の異称をもつアンドロイド。
だめだ、ろくな顔が浮かばない。
けれど、その顔たちはくるくる俺の中で軽快に回り、すぐに空の上へと放り上げられていった。
当の俺は何をしているのかといえば、小川のほとりで草原に寝転んでいる夢だ。
その傍らでは、六花に似たような顔をした美少年や美少女たちが集まって、緑青と一緒に空を見上げては嬉しそうに笑うのをいつまでも見つめている、そんな夢だった。