6.畑中曜子
翌朝。僕は早めに起きると朝からシャワーを浴びて髭を剃り、髪型をキメて昨日お披露目のスーツを着る。
……うん、中々いい感じだ。時計を見ると約束の時間まで少しある。
僕は一通り持ち物をチェックして、ついでに鏡の前で自分もチェックしなおしてから家を出た。
一歩外に出るといい匂いがする。隣の管理人さんの部屋からだ。この匂いはアサリの味噌汁に鯖の塩焼きって所かな。
甘くて優しい香りが漂ってきている。僕は軽く咳払いをしてから呼び鈴を押した。
「おはようございます」
「はい。おはようございます」
再びエプロン姿の管理人さんが僕を出迎えてくれた。
管理人さんの後ろではぐつぐつと完成を待ちわびる音が聞こえる。
「もうすぐ出来ますので、座ってお待ち下さいね」
「はい!」
僕は料理を器に盛る管理人さんの後ろ姿をドキドキしながら見守った。
あぁ、まるで新婚さんのようではないか!僕は思わずにやけて緩んだ顔を叩きなおした。
「お待たせしました。どうぞ召し上がれ」
管理人さんはご飯と、あさりのお味噌汁と、鯖の塩焼きを乗せたお盆を僕の目の前に置いた。
「うわぁ!こんな豪華な朝食、実家でも食べたことないですよ!」
「ふふ、村越君は大袈裟ね。冷めない内にどうぞ」
「はい、いただきます!」
僕はもう産まれてきた事に感謝でもしているような勢いで朝食を食べ始めた。
口にする物全てが美味しい。こんなに幸せな事が存在してしまって良いものだろうか。
「おかわりもありますから、遠慮せずに言って下さいね」
「はい、ありがとうございます」
管理人さんが後片付けをしている傍ら、僕は部屋の中をきょろきょろし始めた。
朝のニュース番組が天気予報を伝えている。写真の中の男は今日もこちらを見て微笑んでいた。
……あれ、この写真もう少し右側になかったかな?というか写真が置いてあるキャスター自体が動いている。
その証拠に畳に動いた形跡が残っていた。
「……どうかしたの?村越君」
「あ……いえ、何でもないです。…………管理人さんは手話でも勉強してるんですか?」
僕はたった今視界に入った本棚から、管理人さんに似付かわしくない手話の本を指して言った。
「え……ええ。友人に聞こえの悪い人がいてね。簡単な日常会話くらいしか出来ないけど」
「すごいなぁ。管理人さんは何でも出来て羨ましい」
「そうでもないわよ……実は自分の事が一番出来てないのよね。ふふ」
後ろ向きのまま管理人さんは答えた。家具を動かす事ぐらいあるだろう。
僕はさほど気にすることなく朝食を食べ終えた。
「ご馳走様でした。凄く美味しかったです!」
「ふふ、そう言ってもらえると嬉しいわ。入学式頑張ってね」
「はい、ありがとうございます。それでは行ってきます」
僕は管理人さんの姿が見えなくなるまで何度も手を振った。本当に優しい人だ。
僕は上機嫌で駅へと向かった。
村越隆一郎の姿が見えなくなった途端に、水木は部屋に戻った。
先程彼が見つめていたキャスターを思いっきり動かす。すると壁にスイッチが現れた。
「何か感付かれたかしら…………でもまぁ流石にここまでは分からないわよね」
テーブルを動かし、ついでに下のカーペットもひっくり返す。
畳二帖分のスペースを確保すると、水木は壁のスイッチを押した。
めきめきと軋むような音を立てながら、畳がゆっくりと上に引っ張り上げられる。
畳の下からは地下へと続く階段が現れた。
「ふぅ……やっぱり定期的に綺麗にしておかないと落ち着かないわ。曜子ちゃんの事もあるし、常に完璧な状態にしておかないとね」
水木はエプロンを外すと暗い、湿った空気が漂う階段へと足を運んだ。
「曜子?……おかしいなぁ」
岡島隼人は201号室の呼び鈴を何度か押した。
今日は落ち込んでいる曜子を気晴らしにと映画館へ誘っていた。
約束の時間通りに呼びに来たはずなのだが、ドアの向こうでは物音一つしてこない。
「ちょっと!何度も何度もしつこいわよ!」
代わりに隣の竹中杏里が叫びながらドアを開けた。
隼人はサングラスをかけていない杏里の形相に、一瞬びっくりしたもののすぐに事情を説明した。
「どうも曜子が部屋に居ないみたいなんだ。今日は映画館に行く約束をしていたのに……」
「だからって、あたしを起こす事はないでしょ」
「すまない、悪気は無かったんだ……なぁ、曜子が何処にいるか知らないか?」
二日酔いでもしているのか、頭を抱え苛立ちながら杏里は吐き捨てた。
「知らないわよ。電話はしてみたの?」
「ああ、でも電源が入ってないみたいなんだ……何かあったのかな」
俺は不安を隠せずに杏里に訴えた。無論その表情までは分かってもらえそうにもないが。
「多分部屋に居るわよ。去年もこんな事あったでしょ、どいて!」
杏里はいらいらしながら曜子の部屋の前に立つとドアを激しく叩いた。
「またそうやって引籠るの止めなさいよ!こっちは朝から起こされていい迷惑なのよ!分かってんの!?」
「おい、まるで借金の取り立てみたいじゃないか!やめろよ」
隼人は杏里をドアの前から引き離すと部屋に戻るように仕向けた。
が、そんな事で言う事を聞く相手ではなかった。
「あんた彼氏でしょ、こういう迷惑かけないようにちゃんと見張っときなさいよ!」
「なんだよその言い方は……お前こそ二日酔いでイライラしているのは知らないが、こっちにまでとばっちり寄こすなよ。いい迷惑だ」
「何ですって!」
杏里が手を振りかざして殴りかかろうとしてきたので、隼人はとっさに手首を抑えた。
しかし尚突進してこようとする杏里に暫く応戦していると、ドアの向こうから声が聞こえた。
「やめて……こんな所で喧嘩しないで……」
「曜子?部屋に居るのか?どうして開けてくれないんだ」
隼人はドアに耳をあてて曜子の小さな声を必死に聞こうとした。後ろで杏里が鼻で笑う。
「ほら、やっぱり部屋に居たじゃない」
「ごめんね隼人……ここからちょっと出られない」
「曜子…………」
隼人は何で曜子が出てこられないのか知っていた。去年もそうだっのだ。
先に曜子の方が駄目になった。だけど早過ぎる。やっぱり合わなかったせいなのか。
「曜子…………開けてくれ。このまま曜子の顔が見られないのは嫌だ。そんなに進んでしまっているのか?」
「ううん、少しだけだけど……私の部屋、多分香水臭いから」
「香水……?とにかくここを開けてくれないか?」
「…………」
ドア越しに曜子に話しかけると、暫くしてドアの鍵が開く音が聞こえた。隼人は後ろにいる杏里に確認する。
「ドア、開けるぞ。お前は部屋に戻っていた方がいいかもしれない」
「嫌よ。これでも曜子の事は心配してるのよ。顔ぐらい見ていくわ」
その顔ぐらいが見られないだろうが……と突っ込みたかったが、隼人は杏里の言葉にわかったと言って頷いた。
ドアノブを捻り、ゆっくり手前に引く。わずかに開いた隙間から、香水のきつい香りが顔全体を覆った。
隼人は思わず目までしっかり閉じると、一気にドアを開けた。
バラの匂いであろう塊が一気に部屋から放たれる。玄関先に座っていた曜子を、真っ先に抱きしめた。
「大丈夫か……?」
「うん…………ごめん、香水きつかったよね」
「これくらい平気さ……曜子、お前マスクはどうした?」
見ると曜子はマスクをしていない。しかしその代わりに鼻が少し紫に変色していた。
「もう意味ないから……今年は思ってたよりも早かったね」
「それにしてもどうしてこんなに香水ばらまいてるのよ。換気してよ換気」
杏里は鼻を押さえてつかつかと部屋に入って来ると、勝手に窓を全部開けて、換気扇までつけてみせた。
顔を窓から出してパタパタと大袈裟に仰ぐ。
「匂いをもう感じなくて…………でも今日映画館に行く約束もしていたから、香水つけて誤魔化そうとしたけど歯止めがつかなくなって……」
ふと見ると曜子のそばには香水の空瓶が転がっていた。どれだけ乱用していたのかこの鼻が証明していた。
「あんたちゃんと薬は飲んでたの?ここにもいろいろ転がってる見たいだけどさ」
杏里は足の爪先で処方箋の袋を踏みつける。
「飲んでたわよ……でも酷い花粉症にもなったから、そっちの薬も飲んで…………」
「はぁ?自業自得じゃない」
「おい!」
「いいのよ……杏里ちゃんの言う通りだから。ごめんね、朝から不快な思いさせちゃって」
曜子が杏里に謝ると、杏里はそっぽを向いて別にと答えた。
「あの女にはもう言ってあるんでしょ?何とかしてもらえないの?」
「……進行を遅らせる事は出来るって言ってたけど…………どの道すぐに駄目になるわ。もともと合ってなかったもの」
「そうだな……でも遅らせる事が出来るのなら、頼んでみようよ」
「ううん、止めとくわ。あまり迷惑もかけたくないし……あともう少しの辛抱だから」
そう言って曜子はニコッと笑った。
無理矢理な作り笑いだとしても、隼人には心強く思えた。
「今年は……いつやるんだろうな。去年より早めにやってくれるとは思うが」
「あはは、自分が駄目になったらに決まっているじゃない。あの女の事だもの、自分第一に決まってるわ」
「そうよね……まぁそれが当たり前なんだけどさ」
曜子は自分で立ち上がると、そろそろ換気出来たかなと呟きながら換気扇を止めた。
「もうこんな時間だし……今日はここで映画鑑賞会でもしようよ」
そう言って曜子はテレビの前を片付け始めた。
「いいわね、あたしもビール片手に鑑賞しようじゃない」
「お前は鑑賞できないだろうが。そもそも上映の妨げになるから出てってくれ」
「何ですって!」
再び隼人に食いかかろうとした杏里を曜子がまぁまぁと言ってなだめた。
「後でビールのお供くらい持っていってやるよ。今日は起こしてすまなかったな」
「ふん、ちゃんとよこしなさいよね」
そう吐き捨てて杏里は出て行った。隼人と曜子はお互い杏里の態度に笑った。
「あいつは優しいのか冷たいのか、よくわからない奴だよなぁ」
「ふふ、あれでも私は優しいと思っちゃうのよね」