5.水木詩織
携帯を片手に握り締めながら岡島隼人は走った。
診察が終わったらとにかく電話するように言ってあった。
結果がどうであれ必ず連絡をよこせと。その連絡を受けて今、近くの公園へ駆けつけた所だった。
「曜子っ!」
「隼人…………」
鼻まですっぽりと覆ったマスクをして、彼女はベンチに座っていた。
手には先程出されたであろう処方箋が握られている。
隼人は畑中曜子の隣に座ると、とりあえず呼吸が収まるのを待ってから聞いた。
「先生は……何て?」
「…………」
曜子は何も言わずに首だけを横に振った。
「もうすぐ駄目になるって…………去年のがあまり合ってなかったせいかも。とりあえず延ばせるだけ延ばしてみるって」
「そうか…………」
隼人は自分の舌を歯に当てがって確認した。
「今年は思ってたよりも早いな……俺は今の所大丈夫そうだが」
「こう言うのも失礼だけど去年は間に合わせだったからね……今年もアレ、するのかなぁ」
曜子は俯いて自分のつま先で遊ぶ。
「さぁ。俺個人的には是非して欲しいけどな。今年の質を考えてもかなり期待できそうだし」
「ふふ、一番喜んで食べてたもんね。私も最初は抵抗があったけど……隼人があんなに美味しそうに食べるんだもの、私も食べずにはいられなかったわ」
曜子はぐっと背伸びをして起き上がると、二歩進んで振り向いた。
「んー……今は何か冷たいものが食べたいかも」
「お、俺も今走ってきて喉カラカラなんだ。このままデートと行こうじゃないか」
岡島隼人は爽やかな笑顔で曜子の手を握ると、そのまま大通りに向かって歩き始めた。
「昨日は随分楽しそうだったわね、杏里ちゃん」
自分の部屋に入ろうとした所を管理人の水木詩織に呼び止められた。この女は本当突然に現れる。
足音を消す術でも身につけているのだろうか。竹中杏里は心の中で舌打ちすると、声がした方へ振り向いた。
「……どうも。管理人さん」
すたすたとこちらに近づきながら管理人は話しかけてきた。
「今ちょっと時間あるかしら?…………部屋にあがらせてもらってもいい?」
顔は見えないが、おそらく眉間に皺ができているであろう。そんな声のトーンだった。
杏里は散らかってますがどうぞと言って水木詩織を部屋にあげた。
どうせ昨日の会話を隣の部屋から聞いていたのだろう。
私は何もやましい事はしていない。言ってもいない。
白々しい顔で水木詩織の正面に座ると、水木の方から用件を切り出してきた。
「何も話してないわよね?村越君に」
「…………儀式に触れるような事は何もしゃべってないわよ。隣に見張られるのも分かってるしね」
「そう……ならいいわ。ところで杏里ちゃんの身体の調子はどう?」
「どうって、別に普通よ。今まで通りだわ」
「ふふ、あまり使ってなさそうですものね」
水木は笑いながら髪をかき上げた。
「今回は協力してくれるの?私達に」
「…………」
ここで否定すれば確実に私の居場所がなくなる。かと言ってこの女に協力する気もなれない。
杏里はしばらく黙りを通した後、付け加えるようにこう言った。
「積極的には協力しない。今回は見学だけにさせてもらうわ」
「どうして?やっと完璧になれたのにそんな使い方をして」
「……あたしにはあまり必要なかったからよ。やるならどうぞ、止めたりなんかしないから」
「今回はね、少し早くなりそうなの。先程先生から連絡があってね、曜子ちゃんがもう駄目になりそうなのよ」
「ふーん……」
あのほぼ引き篭もり女か。最近やたら鼻を啜ってたけど。
「今回は参加しない考えなのね、杏里ちゃんは」
「そうね…………あってもなくても困らないし」
「わかったわ。時間を取らせてごめんなさいね、お邪魔したわ」
水木は立ち上がると玄関の方へと向かった。そして何か思い出したように振り返った。
「あ、源さんの調子はどうかしら?」
「……さぁ。その事について何も言ってなかったから、多分大丈夫じゃないの?」
「そう、わかったわ。ありがとう」
そう言われて玄関のドアが閉まる音がした。やっと出ていったか、あの女狐め。
杏里は肩の荷を下ろしたように天井を見上げた。あの女と話しているとまるで生きた心地がしない。
しばらくぼーっとしていると、不意に源さんの事が気になり始めた。……源さんの方は大丈夫なのだろうか。
こうなったら今日も突撃するしかないな。杏里は一瞬村越も誘おうかと思ったがやめた。
先程注意を受けたのにまた歯向かう事になる。面倒くさいのはもうこりごりだ。
椅子に座りながら後ろ手で冷蔵庫の扉を開けると、中から缶ビールを一本取り出した。
夜までの繋ぎに一本飲んでおこう。勢いよくプルタブを開けると、そのまま一気に飲み干した。
夜になり、一通り部屋を片付け終えた僕は明日の入学式の準備をしていた。
新品のスーツを箱から取り出して、胸に当ててチェックしてみる。
……うん、やっぱり学ランとは違う。新人ビジネスマンの姿がそこにはあった。
「はぁ……こういう服もビシッっと着こなす男になりたいなぁ」
僕は何度も鏡越しに自分の姿をチェックしてみる。いくつかかっこいい顔もキメてみる。
…………管理人さんは僕のスーツ姿をどう思うのだろう。写真の中の人はどういう男の人だったのだろうか。
「…………」
僕は今、写真の中の人に嫉妬していた。
ピンポーン。ピンポーン。……不意に外の呼び鈴が鳴った。誰だろうこんな時間に。
僕がゆっくりドアを開けると、そこには管理人さんの姿があった。
「こんばんは、村越君」
「こ……こんばんは」
管理人さんの顔を見るなり、僕は先程までしていた行動に恥ずかしさを覚えた。
「これ、お裾分けです。晩御飯にでもどうぞ」
可愛らしい袋ごと僕は受け取る。中を覗いてみると、先程まで鍋に入っていたであろう肉ジャガが顔をのぞかせた。
「わぁ、ありがとうございます!僕肉ジャガ大好きなんですよ」
「ふふ、よかったわ喜んでいただけて」
「ん?……管理人さん、もしかしてヤカンに火、かけてます?……何か沸騰しているような音が」
「あら、いけない」
そう言いながら慌てて部屋に戻ると、また急いでこちらに戻ってきた。
「ありがとう村越君。私らしくないミスだわ、火を消し忘れるなんて……ごめんなさい」
「いえいえ、何事も無くてよかったです」
「それにしてもよく気付いてくれたわね……ありがとう」
管理人さんはそう言ってニッコリと笑った。……やっぱり素敵な女性だ。
今までに出会った事のない、上品で穏やかで優しい管理人さん。
僕はすっかり管理人さんの魅力に取りつかれていた。
「管理人さんは……その…………」
「はい」
今お付き合いしている男性は居ますか?……何てとても僕の口から言えそうにもない。
「あ、明日も居ますかっ?」
「…………?」
管理人さんはちょっとわからないと言った感じで首を傾げた。
「あ……えと…………明日入学式でして……その……朝、お見送りとかしてくれませんかっ?」
僕は何を言っているのだろう。穴があったら入りたい。
真っ赤になる僕を管理人さんは少し笑いながらも頷いてくれた。
「はい、わかりました。明日は何時にお出かけになりますか?」
「えと……十時から式が始まるので、九時過ぎには出ます……」
「では八時半に私の部屋に来て下さい。力の出る朝食を用意して待っていますね」
「いえいえっ、朝食まで用意しなくていいですよ。そんな申し訳ないです」
「朝のご飯が一番大事ですよ?遠慮せずに食べていって下さい。明日作ってお待ちしています」
そう言ってペコリと頭を下げた。僕も慌ててそれに合わせて頭を下げる。
何か申し訳ない注文をしてしまった。
「すみません、わがままばかり言ってしまって……」
「ふふ、甘えたい時には甘えた方がいいですよ。ではまた明日。おやすみなさい」
「お、おやすみなさい……」
僕は深々と頭を管理人さんが部屋に戻るまで下げ続けた。
どさくさに紛れて何を言っているんだ僕は。
耳まで赤くなりながらも部屋に戻り、暖かいうちに鰹だしの良く染みた肉ジャガを平らげた。