3.竹中杏里
「ちょっと待ってくださいよ!」
僕は思わず声をあげた。一緒に行く事になったのが不満なのか、そもそもスタイルが良くて人より足が長いせいなのか。竹中杏里は盲目とは思えない速さで歩く。
「……ちゃんとレディをエスコートしなさいよね」
「す、すいません……」
少し駆け足をしてようやく信号待ちの彼女と並んだ。
「……竹中さん、本当に見えてないんですか?歩くの速すぎですよ」
「あんたが遅いのよ。えっと……名前何だっけ?」
「……村越隆一郎です」
「そうそう」
腕を組んでいる彼女の態度は明らかに不機嫌だった。
どう考えてもこの状況に腹を立てているとしか思えない。
初対面の僕に酒を買えないのに買ってこいとか、この人無茶苦茶だ。
サングラス越しで目はよく見えないが、杖を持って出歩いているところによるとやっぱり目が見えてないらしい。……とてもそんな風には見えないのだが。
「……何か怒ってますねよね。そんなに僕と一緒に行きたくなかったですか?」
「別に…………あんた管理人さんに気があるでしょ?」
「えっ!?」
思わぬ直球に僕は声を張り上げてしまった。
「ぷっ……あははははっ!」
彼女は馬鹿にしたように声を出して笑う。僕はその様子に恥ずかしさと怒りがこみ上げた。
「……自分の立場くらい分かってますよ、管理人さんの事情も。でも素敵な女性だと思うくらいいいじゃないですか」
「素敵な女性?あの女が?…………そう思える内があんたには幸せかもね」
「?……どういう事ですか?」
「あの女には気を付けなよ。じゃ、とりあえず忠告だけしといたから」
そう言って竹中杏里はスーパーへと駆け足で入っていった。
……本当は見えているのじゃないだろうか、あの動きは。
それにしても管理人さんに気をつけろってどういう意味なんだろう……。
村越隆一郎と竹中杏里を見送った後、水木詩織は静かに部屋に戻った。
あの子……余計なことしゃべらなければいいけど。
あの様子じゃ今回は協力してくれないのかもしれない。
せっかく完璧になれたというのに、何が不満なのかしら。あの子がよく分からないわ。
洗面台に立ち、鏡で自分の顔を確認する。
……完璧だわ。やっぱり私はこうでなくては。
鏡の中の自分にニッコリすると、上機嫌で夕飯の支度に取りかかった。
「う~ん……」
沼地源蔵が目を開けると、辺りは薄暗い静寂に包まれていた。
「……また先に寝てしまったのか。あの女は底なしだから敵わん」
そう言って散りばめられた空き缶を一つ一つビニール袋に入れていく。
杏里は帰ったのか?それにしては隣が物静かだ。また遊び相手を探しに出かけているのだろう。
あの娘は変に人をからかう癖があるから面倒くさい。でもまぁそこがあの娘の可愛い所でもあるがな。
溜まってきた空き缶を捨てようとサンダルを引っかけて外に出る。
もう春とはいえ、夜はまだ肌寒い。ふと空を見上げると月が出ていた。
「……今夜は満月か」
そういえば、あの日の夜も満月だった。
もうすぐあの日から一年が経とうとしている。
源蔵は身震いすると、両腕を抱きかかえて急ぎ足で部屋に戻った。
「ただいま~」
「……それは僕の台詞ですよ」
僕と竹中杏里はお互いに買物を済ませると、何故か二人とも102号室に帰って来た。
彼女の分の買い物袋まで持たされた僕は、玄関先で思わず倒れ込む。
「ちょっと、そんな所で座らないでよ」
僕の部屋なのに……と思いながらも、彼女のために道を開ける。
杏里は持っていた杖の先を外すと、そのまま僕の部屋に上がり込んできた。
なるほど。杖も靴を履いていたのかと感心している傍ら、杏里は家の中をぐるぐるし始めた。
「…………何してるんですか?」
「調査。何処に何があるのかと思って。でも全然片付いてないわね。参考にもなりそうにないわ」
こんなに遅くなったのは誰のせいですか。僕は半ば呆れながら目の前の光景を眺めていた。
「ねぇ、今から源さんの部屋に行かない?たっぷりつまみも調達してきたし」
「源さん?……ああ、気のいいおじさんか。でも今からお邪魔しても大丈夫ですか?僕たちは春休み中だから平気ですけど、向こうは明日から仕事があるんじゃ……」
竹中杏里は僕が行く大学の2年先輩という事が先程分かった。
「……それもそうね。でも源さん以外にここの住人お酒飲めないから、つまんないのよね」
ふてくされた様にどかっと畳の上に座り込む。
「今日は大人しく部屋に戻りましょうよ、買物袋は僕が持って行きますから」
竹中杏里に早く部屋に戻るよう促すと、今度は怒りだした。
「何?あたしがいると邪魔なの?せっかく引っ越してきたばかりで寂しいだろうから、構ってあげてるのに!」
「いや……それは大変ありがたいですけど……」
心にも思ってない事を言う。
「だいたいね、あんたがこの辺分からないからいろいろ案内して遅くなったのに……それがあたしに対する態度?」
遅くなったのは誰かのわがままのせいですけど……。
結局この日の夜は、竹中杏里の酒飲みの話し相手として終わった。
翌日僕が目を覚ますと、竹中杏里の姿は無かった。
知らない間に僕は寝てしまったのだろう。肩から掛け布団がずり落ちてきた。
「ん…………」
ふと時間を見るともう昼の十二時を回っている。
昨日彼女は何時までここに居座っていたのだろうか。部屋中酒臭い。
そして空き缶が散らかっていた。僕は換気でもしようと窓を開けると、外には管理人さんがいた。
「あ…………」
「あら?……ふふ、おはようございます」
「お……おはようございます」
管理人さんは庭の掃除をしていたらしく、ほうきを持ってこちらに近づいてきた。
「今起きましたの?すごい寝癖ですよ」
僕は慌てて手で頭を覆い尽くす。
「あはは……昨日は疲れてしまって……情けないです」
「いいのよ。昨日は杏里ちゃんの相手で疲れたでしょうから」
そう言って管理人さんは笑った。
「あの子わがままだけど、本当は優しいところもあるから……時々は構ってあげてね」
「はい……」
未だ冴えない頭を掻きながら、僕は昨日の事を思い出していた。
何か管理人さんについてもぐちぐち言っていた気がするが、はっきりとは覚えていない。
「では掃除が残っていますので、失礼します」
「はい、ご苦労様です」
僕は軽く頭を下げると窓を閉めた。とにかく今日も片付けに専念しよう。
……でもその前に腹ごしらえをしてこよう。軽く寝癖頭を整えると、財布を片手に僕は明るい外へ出た。