2.202号室の女
「今回の勧誘はえらい粘ったわね、源さん」
先程僕が訪れた203号室の奥の部屋から女性が声をかけた。
「聞こえてただろ、今のは勧誘なんかじゃない。下に新しく引っ越してきた小僧だ」
そう言ってサングラスをかけたロングヘアーの女性の前に、クッキーの袋を放り投げた。
「何?」
「クッキーだとよ挨拶代わりの。なかなか可愛い小僧だった」
「ふーん……じゃあこれ、あたしも貰えるのね」
そう言いながら源蔵の受け取ったクッキーを勝手に開ける。
中からは人型の可愛らしい男の子のクッキーが出て来た。
「お前も挨拶すればよかったじゃないか、隣に住んでいるのによ」
「嫌よ!勘違いされるに決まってるじゃない」
「いきなり飲もうと言って上がりこんで来たのはお前の方じゃないか。あの小僧に呆られたよ、昼真っから酒飲んでって態度で」
「いいじゃない別に。本当の事なんだし」
女性は手に取ったクッキーの左手を折った。
「それよりその引っ越してきた子、完璧だったの?」
「完璧?」
「とぼけんじゃないわよ。どう考えたってこの時期に越してきた奴を使うに決まってんじゃん……」
「…………」
源蔵は両腕を抱えた。そして擦る。
「確かにお前の言うとおりかもな。でも最終的には管理人が決める事だろう」
「あの女ならやるね、絶対」
クッキーの右手を折る。ついでに両足も。
ぽきっと乾いた音と共に、クッキーの粉末が辺りに散らかった。
「こらっ!机を汚すな馬鹿野郎。カスがいっぱい落ちてるじゃないか」
「あたしには見えないわ」
「食べ物で遊ぶな!」
源蔵は女からクッキーを取り上げる。
手元からおもちゃが取り上げられると、女はつまらなさそうにまた酒を飲み始めた。
「定期的に飲みに押し寄せてくるのもやめんか。お前みたいな若い娘が、こんな親父の部屋に来るべきではないぞ」
「また説教するつもり?しょうがないじゃない、ここでは飲める相手が源さんしかいないんですもの」
そう言って残りのお酒を一気に飲み乾した。
女の足元にはもういくつかの空の缶ビールが転がっている。
「俺の娘より質悪いよ、お前は」
空の缶ビールを拾い集めながらぼやく。
「ふん、お褒めの言葉として受け取っておくわ」
女は少しずれたサングラスをかけ直した。
自分の上の住人を除いて4人、僕は挨拶をしてきた。
まずは101号室に住む管理人の水木詩織さん。
僕の隣の103号室に住む岡島隼人さん。
そして201号室の畑野曜子さん。一つ飛んで203号室の沼地源蔵さん。
「……そういえば202号室の表札には竹中って書かれていた気がするなぁ」
留守だった部屋には後程挨拶に伺おう。とりあえず今は片付けが先だ。
なんとか今日僕が寝る分のスペースは確保しないと。
僕はどこから手をつけていいのかわからない段ボール箱を、手当たり次第開けていった。日用品だけでも頑張って取り出そう。
「はぁ……それにしても管理人さん美人だったなぁ……」
隣に美人なお姉さんが住んでいる。それだけで世の中の男達はテンションが上がる。
僕もその内の一人だった。
「管理人さんは結婚してるのかなぁ……」
何となく管理人さんの顔が頭から離れない。
確か指輪はしていなかった気がするが……どちらにしろ男はいそうだなぁ。
「いかんいかん。こんな事考えてたら片付けが進まない」
僕は頭を左右に振って管理人さんを頭から追いやった。
「……よし、とりあえず必要な物は取り出せたぞ!」
僕はとりあえずガッツポーズをとりながら、多少スペースの空いた畳に寝っころがった。
肩が凝っている。昨日重たい荷物を一日中背負って歩き回っていたせいだろう。
思い出しただけでも疲れがどっと出てきた。
「ぎゅるるるるっ……」
僕のお腹の音が部屋全体に響き渡った。そういえば朝から何も食べていない。
僕はうるさく騒ぎ立てるお腹に手を当てて抵抗する。……この辺りに食べるところがあったかな。
『ピンポーン』
何を食べようか考え始めた矢先に、突然呼び鈴が鳴った。
『コンコン……管理人の水木です。村越君居ますか?』
管理人さんだ!僕は今までに見た事ないような速さで起き上がるとドアを開けた。
「はい、何か御用ですか?」
そこにはエプロン姿の管理人さんが立っていた。
「お昼はもうお済ですか?よろしければこれから引越し祝いにお蕎麦でも作ろうと思いますけど……一緒にどうですか?」
トントントントン……。
僕は今、隣の101号室。つまり管理人さんの部屋にお邪魔している。
女の人の部屋に上がる機会なんて今までなかった僕には、全くの未体験ゾーンだった。
こんな僕のためにお蕎麦を作ってくれて、しかも一緒に食べようと言ってくれたのだ!なんて優しいのだろう管理人さんは。
彼女のエプロン姿が見られただけでも僕は大満足だった。
「もうすぐ出来ますから、あと少しだけ待っていてくださいね」
「はっ、はいっ」
声が思わず裏返る。変に緊張して否応が無しに辺りをきょろきょろと見回した。
管理人さんの部屋は全体的に白で統一されていて、所々に花模様が散りばめられている。
典型的な女性の部屋と言っていいのだろうか。僕の抱いている管理人さんのイメージにぴったりだった。
「ん?……」
小さいキャスター付きの引き出しの上に、写真立てが置いてある。
その中で若い男がこちらを優しそうな顔付きで見ていた。……誰だろうあの男の人は。
もしかして管理人さんの恋人じゃ……。
「できましたよ」
管理人さんが御盆を持って畳の部屋に上がる。
僕は管理人さんの手伝いをした後、お互いに向い合って食べ始めた。
「んんっ!美味しいです。これならいくらでも食べれそうです!」
「ふふ、お蕎麦一つでこんなに感動してもらえるなんて嬉しいわ。まだこちらに来たばっかりですから、スーパーの場所も知らないと思いまして。……ご迷惑じゃなかったですか?」
「とんでもない!こんな美味しいお蕎麦ご馳走して頂きありがとうございます」
僕は箸をわざわざ置いて深々と頭を下げた。
「ちょっと大袈裟よ、村越君」
管理人さんは笑って僕の体を起こした。ああ、何て幸せなのだろう。
こんな美人な人が僕の彼女だったらなぁ…………僕は先程見つけた写真の中の男をチラリと見やると、思い切って管理人さんに聞いてみた。
「あの……写真の人は……?」
「え?……あぁ、うちの主人よ」
しゅっ主人!?……やっぱりこんな素敵な女性が結婚してないはずないよなぁ。
「でも……一年前に先に逝ってしまったの。……病気で」
「えっ…………」
「このアパートの管理人もね、もともとうちの主人がしていたのよ。主人が亡くなって一度は出払おうとも考えたけど…………やっぱり居心地が良くてね。私が代理で管理人を務めさせてもらっているのよ」
「そう……だったんですか……」
もう一度写真の中の男を見た。今も管理人さんの近くで見守っているのだろうか。
「すみません、僕が管理人さんの事情も考えもせず変な事聞いてしまって……」
「いいのよ。もう過ぎた事ですし……そういえばこのアパートに、裏庭があるのはご存知かしら?」
「はい、桜の木が一本ありますよね」
僕が知っているのを確認すると、管理人さんは立ち上がって南側の窓を開けた。
春風と共に桜の花弁が数枚、部屋に舞い落ちる。
「あの桜、うちの主人が大切に育てていたのよ。このアパートが建つ前からあったみたいで」
「そうなんですか……あれ、幹の所に字が彫ってある………サリー?」
「えっ……凄い村越君!よくあんな所に書いてある字が読めたわね!」
「あはは。僕昔から目は良い方なので……サリーってもしかしてあの木の名前ですか?」
「そうよ。主人が勝手に命名してたけど……今年は去年にも増して満開ね」
管理人さんが春風と共に髪を掻き上げる。その仕草が何とも切なくて、僕は胸を締め付けられた。
「…………何か、男手の必要がある時は言って下さい。こう見えて僕、力のある方だと思いますし」
そう言いながら、何とも頼りない力こぶを管理人さんに見せつけた。
「ありがとう村越君。そうね……ここでの生活が慣れてきたら、草むしりでもお願いしようかしら」
僕と管理人さんは微笑み合ってしばらくの間桜を眺めた。
「…………帰るわ」
そう言うなりサングラスの女は立ち上がった。
源さんは酔い潰れてしまったのだろう、近くから大きな寝息が聞こえていた。
自分の置いた缶ビールの配置を想い描いてから、2歩下がって右を向いて5歩進む。
ここには棚があるから左に2歩進んで前に4歩。あった。日頃のお供のステッキ君。
ちなみに名前はまだ無い。
「レディより先に潰れるなんて、駄目な男」
捨て台詞を吐いて女は部屋から出た。出た瞬間に左から誰かが階段を上がってくる足音が聞こえる。
……このリズムは今まで聞いたことが無い。誰だろう。勧誘の人でもなさそうな感じだ。
女は部屋に入らずにじっと待ち構えていると、遠くの方で「あっ」と声が聞こえた。こちらに向かって走ってくる。
「……あなた誰?」
「僕は下の階に引っ越してきた村越隆一郎と言います。お会いできてよかった。これ、つまらない物ですがどうぞ……」
ああ、下に越してきたクッキーの人か。
「どうも。あたしは竹中杏里。残念だけどあなたの顔が見えてないの。これ、中に何が入ってるの?」
手にした袋を外からごそごそと確認するフリをする。
「え……あ、クッキーですよ。お口に合うといいですが……」
「ふーん……ありがとう」
杏里はそのまま部屋に入ろうとして、でも面白い事を考えついたのでやめた。
「あ、そうだ。あんたお酒は飲めるの?」
「僕ですか?……ごめんなさい未成年ですので……」
「じゃああたしの代わりに買ってきてくれる?おっさんみたいなガラガラ声出せば買えるはずだから」
杏里はそう言って財布の中から千円札を一枚取り出した。
「ええっ……未成年はお酒も買えないですよ?」
「じゃああたしが買いに行けというの?片手しか使えないのに?」
そう言ってわざとらしく杖をぶらぶらさせる。
「そ……それは……」
男のたじろむ姿が目に浮かぶ。ああ、何ていい反応をしてくれるんだろう!私は腹の中で笑いながら、目の前の男が困る様を耳で楽しんでいた。
「……あ!じゃあこうしましょう。二人で一緒に買い物に行きましょうよ」
「いやよ。何であたしがあんたと一緒に道端を歩かなきゃいけないの?」
「何でって……僕だけじゃお酒は買えないし、そもそもスーパーの場所も知らないですし……」
「…………」
そりゃそうよ。だから無理言ってその様を楽しんでるっていうのに。
「あら、二人で行ってきたらいいじゃない」
「あ、管理人さん……」
声のした方を向くと管理人がつかつかとこちらにやって来ている。階段を上がる音なんて全然しなかった。いつからいたのよこの女狐は。
「また杏里ちゃん意地悪してたのね。駄目よ村越君を困らせちゃ」
ちっと心の中で舌打ちをかます。一番厄介な奴が出てきた。せっかく人がからかって楽しんでいたのに。
「……悪かったわよ。じゃあ一緒に行きましょ」
この女には逆らわない方がいい。杏里は杖で男の足元をつつくと、早く行くように促した。
「じゃあ管理人さん、行ってきます」
「はい、気をつけて行ってらっしゃい」
管理人のにこやかな顔が目に浮かぶ。杏里はふんとそっぽを向いて、近くのスーパー目掛けて足を速めた。