1.あいさつ
3月末日のとある日曜日。進学のために田舎から都会へ上京してきた僕は、これから新しく住むこのアパートの住人に挨拶周りしようと思っていた。
新しく住むとは言ったものの外見はちょっと古めかしい。
軽く調理出来そうな流し台と、4畳半のスペースに押入れ1つ。
今やそのスペースすら段ボール箱で殆ど占領されているが。
とりあえず必要な物を取り出してから挨拶に行こう。
本当は昨日の内に、このアパートの管理人さんだけでも挨拶しておきたかったのだが、僕がここに着いたのが夜中の11時過ぎとめっぽう遅かった。流石にその時間帯に挨拶するわけにはいかない。
「タオルとかはありきたりだからクッキーにしてみたけど……皆さん喜んでくれるかなぁ」
僕はあぐらをかきながら、割れてはいないかと1つ1つ慎重に吟味を始めた。
僕は4月からこの近くの大学に通うことになった田舎者だ。実家は農業を営んでおり、昔から大学進学は難しいと親に言われていた。しかしどうしても都会に憧れた僕は、東京の大学に受かる事を条件に家を出た。
最初、東京の大学に受かった時は夢にまで見た大都会、東京での一人暮らしに胸を踊らせた。
だが今はすっかり大都会の波に飲まれていた。あまりの人の多さと、電車の乗り換えの多さで僕はここに着く事もままならなかった。
昨日このアパートにたどり着く前、僕は何人かの人に道を尋ねたが、中には僕の事を無視したり、軽く煙たがったりする人もいた。この田舎者がとでも言いたげに。
東京の人は冷たいとよく耳にするが、昨日身をもってそれを体感した所だった。
「ここの住人はそんな人達じゃないといいけどなぁ……」
まだ見ぬ住人の事を考えながら、僕はクッキーの袋を5つ提げて部屋から出た。
僕が住む部屋はこのアパートの102号室。
1階と2階に3部屋ずつの計6部屋がこのアパート全体の構造であった。
管理人さんの居る部屋は隣の101号室だ。僕はまず昨日挨拶に来られなかった事を詫びようと自分に誓ってから、ドアの隣にある呼び鈴を2回押した。
しばらくしてぱたぱたと足音が聞こえ、部屋のドアが開けられる。
「あら……貴方が引っ越してきたお隣の村越隆一郎君かしら?」
ドアを開け、僕のことを見るなり女性がそう言った。僕は驚いた。
管理人さんと聞いていたのでてっきり年配の方かと思いきや、恐らく三十代前半だと思われる美しい女性がそこには立っていたからだ。
「あ……はい、昨日挨拶に来ようと思ったのですが、何せこちらに着いたのが真夜中になりまして…………すみません」
お恥ずかしいと言わんばかりに僕は頭を下げる。
「そうだったのね。私は水木詩織。ここの管理人をしております。……何か分からないことがあったら、気軽に訪ねてきて下さいね」
セミロングの茶髪を耳にかき上げながら、ニコッと管理人の水木詩織は微笑んだ。
……何て綺麗な人なのだろう。この貧粗なアパートが一瞬にして高級マンションに見えてしまった。
「あ……これ挨拶がわりのクッキーです。普通はタオルとかですけど……こっちの方が選り好みしないし、邪魔にならないかと」
「ふふ、ありがとうございます。後で紅茶と一緒に頂きますね」
そう言って管理人さんはクッキーを大事そうに抱えた。こんな美人が管理人とは僕はなんてついているのだろう。
隣の住人が美人なお姉さんだと知り僕は胸が躍った。
「では失礼します」
そういって管理人さんは部屋に戻っていった。
僕も一礼してからその場を立ち去る……すごくドキドキした。
あんな美人がお隣さんだとは!いけないことを考え始めた自分に、まだ4人も挨拶に回らないといけないと叱りつけると、再び身を引き締めて今度は反対側の103号室の呼び鈴を押した。
『……はーい』
しばらくしてから声が聞こえた。声からすると男性みたいだ。
僕は怖い人ではないようにと祈りながらその人が出てくるのを待った。
「すみません遅くなって。少し片付けをしていたもので」
そう言って出てきたのは、若くて背の高い爽やかな青年だった。
僕はその爽やかオーラに圧倒されながらも自己紹介を始めた。
「お隣に越してきた村越隆一郎です。よろしくお願いします」
「俺は岡島隼人。近所の大学に通う3年生です。よろしくね」
「あ、僕も4月からそこの大学に通う1年生です。……先輩ですね」
僕たちは互いに笑いながら握手を交わした。
同じ大学の人が隣に住んでいるのは僕にとって頼もしい限りだ。
聞くところによると学部は違ったけど、この人とは仲良くやっていけそうだ。
「これ、挨拶代わりのクッキーです。お口に合うかどうかわかりませんが……」
「……わざわざありがとうございます」
岡島隼人は舌なめずりをしてからクッキーを受け取った。
「また大学の事とかで聞きたい事があったら遠慮なくおいでよ。相談とかにものるからさ」
最後まで爽やかな彼はそう言って部屋に戻っていった。すごく良い人そうだ。
ここへ来る間に道を尋ねた人達とは雲泥の差だった。
「いいお兄さんって感じの人だなぁ」
とりあえず隣の住人が優しい人達でよかった。僕は胸を摩りながら2階への階段を上がった。
201号室と書かれた部屋の呼び鈴を強く押す。
「はい……」
これまた僕と同い年くらいの、今度は女性が現れた。
前髪が長くて眼鏡に少し被さっている。
そして顔に似合わずとても大きなマスクをしていた。花粉症か何かだろうか。
少ししか部屋のドアを開けない所を見る限り、僕の事を警戒しているようだった。
「あの……何か?」
女性が訝しげに僕の事を睨みつける。
僕はさっさと済ませてしまおうと自己紹介を手短にした。
「……そういえば管理人さんが新しく下に越してくるって言ってたわね。貴方がそうなんだ……」
女性は僕の事をじろりと見るなり、ふーんと独り言のように呟いた。
「はい、昨日こちらに越してきました。よろしくお願いいたします」
「……こちらこそ。私は畑野曜子と言います。」
相変わらず数十センチの隙間から彼女は一礼した。
僕もそれに合わせて一礼をする。
「あの、これ挨拶代わりのクッキーです。よかったらどうぞ……」
彼女は鼻を啜りながら片手で受け取る。
「……ありがとうございます」
彼女は礼を言うなりさっさと数十センチの隙間を閉ざしてしまった。
僕は最後まで彼女に警戒されていたみたいだ。
何だか少し暗い感じの人だったなぁと思いながら、続けて隣の呼び鈴を押した。
「……あれ?」
ピンポーン。ピンポーン。……何度押しても呼び鈴の音だけが虚しく響くだけだった。
どうやら僕の上に住む202号室の住人は部屋にいないらしい。
しょうがない、面倒だがまた夕方くらいにでも来よう。僕はクッキーの袋を2つ提げて最後の部屋へと向かった。
ピンポーン。僕が呼び鈴を押すなり、男が慌しく出て来た。
「何だ小僧、何か用か」
眉間にシワを寄せて、お世辞にも穏やかな人とは言えないおじさんだった。
僕はいきなり怒鳴られた事にびっくりしながらも、下の階に引っ越して来た事を告げた。
「何だ、新しく引っ越してきた小僧か。いきなり怒鳴ってすまなかったな。昨日新聞の勧誘が来たもんだから、今日も懲りずに来たのかと思っちまったぜ」
五十代くらいの、割と体格のいいおじさんが僕の頭を撫でた。先程の厳つい態度とは裏腹に穏やかな表情だ。
僕は何だかお父さんに頭を撫でられている様な感覚を覚えた。
「俺は沼地源蔵。この近くの建築会社に勤めている男だ……まぁ今日は休みで家にいるがな!」
僕はこれ以上このおじさんに絡まれまいと、一歩退いて挨拶をする。
が、おじさんは尚僕の肩を抱いて絡んできた。
「村越君年はいくつだね?よかったら今日の晩にでも一杯飲もうじゃないか」
「あはは。お誘いは嬉しいですが僕、未成年ですので……」
口から酒の臭いがつんと鼻にくる。こんな昼間からもう飲んでいるのか、この人は。
僕は多少の呆れを覚えながらクッキーをさっさと渡した。
「お、小僧気が利くじゃないか。……ん?何だクッキーかよ」
酒のつまみを僕に期待されても困る。
「……それではこの辺で失礼します。まだ片付けが残っていますので」
僕が軽く一礼すると、おじさんはつまらなさそうな顔をして僕を見送った。
……もう少しくらいかまってあげても良かったかな。いやいや、あんな酒飲みにかまっていたら、今日中に終わるはずの片付けも終わらなくなってしまう。
僕は一息ついてから自分の部屋に戻った。