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髪に八つ当たり 〜パチンコが好きな娘のショートカット〜

作者: 髪命
掲載日:2026/10/27

 午前二時。


 スマホの画面に表示された短いメッセージは、三年間という長い泥沼に打ち込んだ、最初で最後の決定打だった。


「虚構だったんでしょ!

奥さんと別れるとか、全部嘘だったんでしょ!」


 送信ボタンを押す指に、震えも未練もなかった。


 少なくとも、そのときの私はそう思っていた。



 午前九時三十分。


 会社を休んだ。


 今日は行く気になれなかった。

 どうしても。


 身支度をして家を出る。


 向かった先には、中年の男性や高齢者の男女、それにちらほらと若い人たちが行列を作っていた。


 私はその最後尾に並んだ。


――今日は勝つしか選択肢はない。



 午前十時。


 今日の戦略はこうだ。


 まずは1円パチンコに三千円を投資して、軍資金を増やす。


 次に4円パチンコへ移動し、甘デジでさらに増やす。満を持して、ハイスペック機で勝負する。


 今日は長期戦……のはずだった。


 午後零時。


 1円パチンコに一万円を投資しても当たらず、たまらず4円パチンコに移動した。


――マイナス二万円。



 午後二時。


 何を打っても当たらない。


――マイナス五万円。


 午後四時。


 負けを取り戻すには、フルスペックしかない。

 そう自分に言い聞かせて投資を続けた。


――マイナス十万円。


 午後五時。


 ストレスで頭がおかしくなりそうになり、私は店を出た。


 帰り道、何かに八つ当たりしたいような、どうしようもない気分で歩いていた。


 そのとき、視界の隅で床屋のサインポールがくるくると回っているのが見えた。



 そういえば、昔から一度、こういう古びた店で「髪をめちゃくちゃに切ってください」と言ってみたかった。


 今日なら言えるのではないか。


 そんな考えが浮かび、私は街の古びた理容室の扉を開けた。


「いらっしゃいませー」


 店の外観とは裏腹に、中にいた理容師は四十代くらいの、こぎれいで細身の女性だった。


「こちらへどうぞ」



 案内された椅子に座ると、女性は鏡越しに私を見た。


「えっと、今日はどのようにしますか?」


 間髪入れずに答えた。


「短くしてください」


 鏡越しに、女性の鋭い視線が飛んできた。


 彼女は私の長い髪を手に取り、しばらく眺めてから、ため息をついた。


「本当に切るんですか? こんなに長いのに」


「関係ありません。もう邪魔なんです。切ってください」



「うーん。そんなふうに言われても、ちょっと怖いなぁ」


「いいから、余計なことは言わないで!」


「ちゃんと考えて、今日は来てる?」


「いいから切れっつってんだろ!!」



 パチンコで負けた悔しさも全て込めて声を荒らげると、女性は眉間に深い皺を寄せた。


「あんたねぇ、そんなに追い詰められた顔をして、髪に当たってるんじゃないの?

 髪を切ったって、あんたの抱えてる問題が解決するわけじゃないよ!」


 女性の声が店内に響いた。


「あーあーあー、うるさい!」

私は思わず大声を出した。


「ああ、そう。

そこまで決めてるなら、もう止めないよ。ただし、後から文句を言わないでね!」


 彼女はハサミを手に取った。

 

 ザク、ザク、ザク、ザク。



 長い髪が、思い切りよく切り落とされていく。

 濡らすことも、コームを通すこともなく切られて、想像していた以上に短い。


 さらに理容師は切り進める。


 ザク、ザク、ザク、ザク。



 床に落ちた毛束を見て、私は思わず声を上げた。


「ちょっと、短すぎるでしょ!」


「は? 短くしてくださいって言われたので」


 女性は悪びれもせずに答えた。


 その言葉に腹が立ったはずなのに、私はそれ以上、何も言わなかった。


 もっと短く。 



 もっと軽く。



 過去も、未練も、何もかもなくなればいい。



 そんな思いが、頭の中をぐるぐると回っていた。


 女性は黙々とカットを進めた。


 長さを整え、耳の周りをすっきりさせ、後ろの髪も短く仕上げていく。

 ハサミの音が、静かな店内に一定のリズムを刻んでいた。



 やがて、鏡の中には首筋の見えるショートカットの女が座っていた。



 私は自分の頭に手を触れた。


 思い描いていた解放感はなかった。


 代わりに、胸の奥にぽっかりと穴が開いたような気がした。


「……バカだねぇ、あんたも」


 女性が呆れたようにつぶやいた。


 その言葉を聞いた途端、私はとうとう耐えられなくなった。


 三年間のこと。


 信じていた相手のこと。


 何も残らなかった自分のこと。


 言葉にするうちに、堪えていた涙があふれた。


 女性は何も言わず、私の背中をさすってくれた。


 その手は、驚くほど温かかった。


「……お母さんになってくれる?」


 自分でも、どうしてそんなことを口にしたのかわからなかった。


 女性は目を丸くしたあと、私の顔をのぞき込んだ。


「あんた、ずいぶん寂しかったんだねぇ」


 そして、そっと私を抱きしめた。



「今日は、ここでゆっくりしていきな」


 私はその胸に顔を埋めた。


 その瞬間、ようやく帰る場所を見つけたような気がした。


* * *


 それから私は、ときどき理容室を訪れるようになった。


 女性は私が落ち込んでいると、遠慮なく小言を言った。

 それでも、帰り際にはいつも「またおいで」と声をかけてくれた。


 ある日、私はようやく彼女の名前を教えてもらった。


 野村紀子。


 ここは実家の理容室で、最近、先代から店を譲り受けたのだという。


 私は彼女を、いつしか「お母さん」と呼ぶようになっていた。


 お母さんと出会った日から…..


 私はパチンコを1度もしていない。


* * *


 ある日の午後。


 店の奥で、野村が髪をほどいていた。


 長く伸ばされた髪が肩を越え、背中へと流れ落ちる。

 白髪はカラーリングで丁寧に手入れされ、髪には艶があった。


 野村は縮毛矯正をかけ、トリートメントも欠かさなくなっていた。


「ねえ、お母さん。髪、触ってもいい?」



「いいよ。変なことをしないでね」 

 野村は笑っていた。


 私は毛先をそっと指で持ち上げた。


「綺麗だね」



「もう若くないのにね。

 毎日トリートメントしてるの…..」


 野村が照れくさそうに笑った。


 その笑顔を見たとき、胸の奥に説明のつかない感情が湧き上がった。


 この人には、私の知らない時間がある。


 私と出会う前の人生があり、私の知らない人たちとの思い出がある。


 私がどれほどこの人を必要としても、この人の人生すべてを手に入れることはできない。


 そんな当たり前のことが、急に耐え難く思えた。


 私はテーブルの上に置かれていたハサミに目を向けた。


「……少しだけ、切ってみてもいい?」


「え? そんなことをさせられるわけないじゃん」


 野村は笑いながら首を振った。


 けれど、私はその言葉を素直に受け取れなかった。


 私の髪は、この人に切ってもらった。


 あのとき、私はすべてを失ったつもりだった。


 それでも、お母さんは私を受け入れてくれた。


 だったら、この人も。


 そんな考えが頭をよぎった。


 私はハサミに手を伸ばしかけた。


「やめなさい」


 お母さんの声が、今度ははっきりと響いた。


 私は手を止めた。


 野村は笑っていなかった。


「髪はね、その人のものなんだよ。あんたがどうしたいかじゃない。私がどうしたいかなの」


 私は何も言えなかった。


「……ごめんなさい」


「まったく。何を考えてるんだか」


 野村はそう言って、私からハサミを遠ざけようとした。


 その瞬間、私は彼女の長い髪に手を伸ばした。


「えっ?」


 次の瞬間、ハサミが動いた。 



 切り落とされた髪が、床に落ちた。


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 野村は何が起きたのかわからないというように、しばらく立ち尽くしていた。


「……え?」


 私は、手に残った髪を見つめた。


 もう、元には戻せない。


 そうわかっているはずなのに、私はその場で立ち止まることができなかった。


 野村が振り返り、私の手元を見た。


「ちょっと、何をするの!」


 私は答えなかった。


 長く伸ばされた髪に、ハサミを入れてしまった。


 止めなければいけない。


 謝らなければいけない。


 それなのに、頭の中では、もう一度だけ、もう少しだけという声が繰り返されていた。


「やめて!」



 野村の声が響いた。


 私はようやく顔を上げた。


 彼女の表情には、戸惑いと怒り、そして信じられないものを見るような悲しみが浮かんでいた。


 それでも、私はすぐにハサミを置くことができなかった。


 床には、切り落とされた髪が少しずつ広がっていた。


 肩を越えていた長い髪は、左右の長さが不揃いになり、後ろにも大きな切り込みができていた。



 鏡に映った自分の姿を見て、野村の顔色が変わった。


「何するのよ!」


 声が震えていた。


 私は答えられなかった。


 目の前にいるのは、私を叱り、慰め、温かく迎えてくれた人だった。


 その人の髪を、私がめちゃくちゃにしてしまった。


「返してよ……」


 野村の声が弱くなった。


「私の髪……」


 私はハサミを握ったまま、立ち尽くしていた。



 床には、長年伸ばしてきた髪が散らばっている。


 鏡の中の野村は、自分の姿を見つめたまま、唇を噛み締めていた。


 やがて、彼女は長いため息をついた。


「……もういい」


 その声には、諦めが混じっていた。


「こんなにされたら、元には戻らない」


 野村はゆっくりと椅子に座った。


 鏡を見つめたまま、静かに言った。


「最後までやりなさい」


 私は無言でうなずいた。


 それは許しではなかった。


 彼女がどんな思いでその言葉を口にしたのか、私は考えようともしなかった。


 素人ながらに耳の周りを整え、襟足を短く詰める。上の髪も短く切り揃えていく。



 ハサミの音が、店の奥に響いた。



 私はただ、目の前の髪を短くしていった。



 十分ほどが過ぎた。


 床には、長年伸ばしてきた髪が広がっていた。


 そして鏡の中には、首筋の完全に見えるベリーショートの野村がいた。



 長かったロングヘアは、もうどこにもなかった。


 野村は震える手で頭に触れた。


 指先に伝わる短い毛。


 その感触に、彼女は静かに目を閉じた。



「本当に……切っちゃったのね」


 部屋には、静寂だけが残っていた。


 私はようやく、自分が何をしたのかを理解し始めていた。


* * *


 数日後、私はもう一度、野村の店を訪ねた。


 謝りたかった。


 あのとき、どうしてあんなことを考えたのか、自分でもわからない。


 ただ、失いたくないものを前にして、また失うことを恐れてしまった…?


 扉を開けると、彼女の髪は短くなっていた。



 その姿を見た途端、私は胸が締めつけられた。


「……お母さん」


「……あんた、もうしばらく来ないで」


 野村は静かに言った。


「その呼び方も、今はやめて…」


 私は何も言えなかった。


 怒鳴られるよりも、その静けさのほうが苦しかった。


「私はあんたを心配していたし、放っておけなかった。でも、あんたの気持ちを全部引き受けることはできないんだよ」


「ごめんなさい」


「謝れば、すぐに元どおりになるってもんでもない….」


 野村はそう言って、店の扉を閉めた。


 私はしばらく、その場を動けなかった。


 あの温かい腕も、「あんたは私の娘だよ」と言ってもらえる未来も、もう戻ってこないのかもしれない。


 私は駅前のパチンコ屋さんに吸い寄せられた….。


 案の定、1万負け、2万負け、3万負け。

 投資金額が増えていく。



 5万円が無くなった時、私は店をでた。


 イライラしながら歩いていると、あの時のように床屋のサインポールが見えた。



ーーー新しいお母さんと出会えるかもしれない。


 店のドアを開けて、

 「すいませーん、と声をあげる。


ーーー奥から……


 床屋のおじさんがでてきた。


 思い返すと私はお母さんに自分の名前を伝えなかった。


 明子。


 ただそう呼んでほしかった。

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ユーザーネームが髪命さんであり、本編も髪を大切にする人の断髪だけならまだしも、noteも断髪小説だとか、徹底されていますね。こんな異色な作家と小説は初めてお目にかかりました。実に興味深い。 好きこそも…
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