髪に八つ当たり 〜パチンコが好きな娘のショートカット〜
午前二時。
スマホの画面に表示された短いメッセージは、三年間という長い泥沼に打ち込んだ、最初で最後の決定打だった。
「虚構だったんでしょ!
奥さんと別れるとか、全部嘘だったんでしょ!」
送信ボタンを押す指に、震えも未練もなかった。
少なくとも、そのときの私はそう思っていた。
午前九時三十分。
会社を休んだ。
今日は行く気になれなかった。
どうしても。
身支度をして家を出る。
向かった先には、中年の男性や高齢者の男女、それにちらほらと若い人たちが行列を作っていた。
私はその最後尾に並んだ。
――今日は勝つしか選択肢はない。
午前十時。
今日の戦略はこうだ。
まずは1円パチンコに三千円を投資して、軍資金を増やす。
次に4円パチンコへ移動し、甘デジでさらに増やす。満を持して、ハイスペック機で勝負する。
今日は長期戦……のはずだった。
午後零時。
1円パチンコに一万円を投資しても当たらず、たまらず4円パチンコに移動した。
――マイナス二万円。
午後二時。
何を打っても当たらない。
――マイナス五万円。
午後四時。
負けを取り戻すには、フルスペックしかない。
そう自分に言い聞かせて投資を続けた。
――マイナス十万円。
午後五時。
ストレスで頭がおかしくなりそうになり、私は店を出た。
帰り道、何かに八つ当たりしたいような、どうしようもない気分で歩いていた。
そのとき、視界の隅で床屋のサインポールがくるくると回っているのが見えた。
そういえば、昔から一度、こういう古びた店で「髪をめちゃくちゃに切ってください」と言ってみたかった。
今日なら言えるのではないか。
そんな考えが浮かび、私は街の古びた理容室の扉を開けた。
「いらっしゃいませー」
店の外観とは裏腹に、中にいた理容師は四十代くらいの、こぎれいで細身の女性だった。
「こちらへどうぞ」
案内された椅子に座ると、女性は鏡越しに私を見た。
「えっと、今日はどのようにしますか?」
間髪入れずに答えた。
「短くしてください」
鏡越しに、女性の鋭い視線が飛んできた。
彼女は私の長い髪を手に取り、しばらく眺めてから、ため息をついた。
「本当に切るんですか? こんなに長いのに」
「関係ありません。もう邪魔なんです。切ってください」
「うーん。そんなふうに言われても、ちょっと怖いなぁ」
「いいから、余計なことは言わないで!」
「ちゃんと考えて、今日は来てる?」
「いいから切れっつってんだろ!!」
パチンコで負けた悔しさも全て込めて声を荒らげると、女性は眉間に深い皺を寄せた。
「あんたねぇ、そんなに追い詰められた顔をして、髪に当たってるんじゃないの?
髪を切ったって、あんたの抱えてる問題が解決するわけじゃないよ!」
女性の声が店内に響いた。
「あーあーあー、うるさい!」
私は思わず大声を出した。
「ああ、そう。
そこまで決めてるなら、もう止めないよ。ただし、後から文句を言わないでね!」
彼女はハサミを手に取った。
ザク、ザク、ザク、ザク。
長い髪が、思い切りよく切り落とされていく。
濡らすことも、コームを通すこともなく切られて、想像していた以上に短い。
さらに理容師は切り進める。
ザク、ザク、ザク、ザク。
床に落ちた毛束を見て、私は思わず声を上げた。
「ちょっと、短すぎるでしょ!」
「は? 短くしてくださいって言われたので」
女性は悪びれもせずに答えた。
その言葉に腹が立ったはずなのに、私はそれ以上、何も言わなかった。
もっと短く。
もっと軽く。
過去も、未練も、何もかもなくなればいい。
そんな思いが、頭の中をぐるぐると回っていた。
女性は黙々とカットを進めた。
長さを整え、耳の周りをすっきりさせ、後ろの髪も短く仕上げていく。
ハサミの音が、静かな店内に一定のリズムを刻んでいた。
やがて、鏡の中には首筋の見えるショートカットの女が座っていた。
私は自分の頭に手を触れた。
思い描いていた解放感はなかった。
代わりに、胸の奥にぽっかりと穴が開いたような気がした。
「……バカだねぇ、あんたも」
女性が呆れたようにつぶやいた。
その言葉を聞いた途端、私はとうとう耐えられなくなった。
三年間のこと。
信じていた相手のこと。
何も残らなかった自分のこと。
言葉にするうちに、堪えていた涙があふれた。
女性は何も言わず、私の背中をさすってくれた。
その手は、驚くほど温かかった。
「……お母さんになってくれる?」
自分でも、どうしてそんなことを口にしたのかわからなかった。
女性は目を丸くしたあと、私の顔をのぞき込んだ。
「あんた、ずいぶん寂しかったんだねぇ」
そして、そっと私を抱きしめた。
「今日は、ここでゆっくりしていきな」
私はその胸に顔を埋めた。
その瞬間、ようやく帰る場所を見つけたような気がした。
* * *
それから私は、ときどき理容室を訪れるようになった。
女性は私が落ち込んでいると、遠慮なく小言を言った。
それでも、帰り際にはいつも「またおいで」と声をかけてくれた。
ある日、私はようやく彼女の名前を教えてもらった。
野村紀子。
ここは実家の理容室で、最近、先代から店を譲り受けたのだという。
私は彼女を、いつしか「お母さん」と呼ぶようになっていた。
お母さんと出会った日から…..
私はパチンコを1度もしていない。
* * *
ある日の午後。
店の奥で、野村が髪をほどいていた。
長く伸ばされた髪が肩を越え、背中へと流れ落ちる。
白髪はカラーリングで丁寧に手入れされ、髪には艶があった。
野村は縮毛矯正をかけ、トリートメントも欠かさなくなっていた。
「ねえ、お母さん。髪、触ってもいい?」
「いいよ。変なことをしないでね」
野村は笑っていた。
私は毛先をそっと指で持ち上げた。
「綺麗だね」
「もう若くないのにね。
毎日トリートメントしてるの…..」
野村が照れくさそうに笑った。
その笑顔を見たとき、胸の奥に説明のつかない感情が湧き上がった。
この人には、私の知らない時間がある。
私と出会う前の人生があり、私の知らない人たちとの思い出がある。
私がどれほどこの人を必要としても、この人の人生すべてを手に入れることはできない。
そんな当たり前のことが、急に耐え難く思えた。
私はテーブルの上に置かれていたハサミに目を向けた。
「……少しだけ、切ってみてもいい?」
「え? そんなことをさせられるわけないじゃん」
野村は笑いながら首を振った。
けれど、私はその言葉を素直に受け取れなかった。
私の髪は、この人に切ってもらった。
あのとき、私はすべてを失ったつもりだった。
それでも、お母さんは私を受け入れてくれた。
だったら、この人も。
そんな考えが頭をよぎった。
私はハサミに手を伸ばしかけた。
「やめなさい」
お母さんの声が、今度ははっきりと響いた。
私は手を止めた。
野村は笑っていなかった。
「髪はね、その人のものなんだよ。あんたがどうしたいかじゃない。私がどうしたいかなの」
私は何も言えなかった。
「……ごめんなさい」
「まったく。何を考えてるんだか」
野村はそう言って、私からハサミを遠ざけようとした。
その瞬間、私は彼女の長い髪に手を伸ばした。
「えっ?」
次の瞬間、ハサミが動いた。
切り落とされた髪が、床に落ちた。
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野村は何が起きたのかわからないというように、しばらく立ち尽くしていた。
「……え?」
私は、手に残った髪を見つめた。
もう、元には戻せない。
そうわかっているはずなのに、私はその場で立ち止まることができなかった。
野村が振り返り、私の手元を見た。
「ちょっと、何をするの!」
私は答えなかった。
長く伸ばされた髪に、ハサミを入れてしまった。
止めなければいけない。
謝らなければいけない。
それなのに、頭の中では、もう一度だけ、もう少しだけという声が繰り返されていた。
「やめて!」
野村の声が響いた。
私はようやく顔を上げた。
彼女の表情には、戸惑いと怒り、そして信じられないものを見るような悲しみが浮かんでいた。
それでも、私はすぐにハサミを置くことができなかった。
床には、切り落とされた髪が少しずつ広がっていた。
肩を越えていた長い髪は、左右の長さが不揃いになり、後ろにも大きな切り込みができていた。
鏡に映った自分の姿を見て、野村の顔色が変わった。
「何するのよ!」
声が震えていた。
私は答えられなかった。
目の前にいるのは、私を叱り、慰め、温かく迎えてくれた人だった。
その人の髪を、私がめちゃくちゃにしてしまった。
「返してよ……」
野村の声が弱くなった。
「私の髪……」
私はハサミを握ったまま、立ち尽くしていた。
床には、長年伸ばしてきた髪が散らばっている。
鏡の中の野村は、自分の姿を見つめたまま、唇を噛み締めていた。
やがて、彼女は長いため息をついた。
「……もういい」
その声には、諦めが混じっていた。
「こんなにされたら、元には戻らない」
野村はゆっくりと椅子に座った。
鏡を見つめたまま、静かに言った。
「最後までやりなさい」
私は無言でうなずいた。
それは許しではなかった。
彼女がどんな思いでその言葉を口にしたのか、私は考えようともしなかった。
素人ながらに耳の周りを整え、襟足を短く詰める。上の髪も短く切り揃えていく。
ハサミの音が、店の奥に響いた。
私はただ、目の前の髪を短くしていった。
十分ほどが過ぎた。
床には、長年伸ばしてきた髪が広がっていた。
そして鏡の中には、首筋の完全に見えるベリーショートの野村がいた。
長かったロングヘアは、もうどこにもなかった。
野村は震える手で頭に触れた。
指先に伝わる短い毛。
その感触に、彼女は静かに目を閉じた。
「本当に……切っちゃったのね」
部屋には、静寂だけが残っていた。
私はようやく、自分が何をしたのかを理解し始めていた。
* * *
数日後、私はもう一度、野村の店を訪ねた。
謝りたかった。
あのとき、どうしてあんなことを考えたのか、自分でもわからない。
ただ、失いたくないものを前にして、また失うことを恐れてしまった…?
扉を開けると、彼女の髪は短くなっていた。
その姿を見た途端、私は胸が締めつけられた。
「……お母さん」
「……あんた、もうしばらく来ないで」
野村は静かに言った。
「その呼び方も、今はやめて…」
私は何も言えなかった。
怒鳴られるよりも、その静けさのほうが苦しかった。
「私はあんたを心配していたし、放っておけなかった。でも、あんたの気持ちを全部引き受けることはできないんだよ」
「ごめんなさい」
「謝れば、すぐに元どおりになるってもんでもない….」
野村はそう言って、店の扉を閉めた。
私はしばらく、その場を動けなかった。
あの温かい腕も、「あんたは私の娘だよ」と言ってもらえる未来も、もう戻ってこないのかもしれない。
私は駅前のパチンコ屋さんに吸い寄せられた….。
案の定、1万負け、2万負け、3万負け。
投資金額が増えていく。
5万円が無くなった時、私は店をでた。
イライラしながら歩いていると、あの時のように床屋のサインポールが見えた。
ーーー新しいお母さんと出会えるかもしれない。
店のドアを開けて、
「すいませーん、と声をあげる。
ーーー奥から……
床屋のおじさんがでてきた。
思い返すと私はお母さんに自分の名前を伝えなかった。
明子。
ただそう呼んでほしかった。




