7話 メリーさん⑤
何事もなく夜は更けていく。
時刻は午前0時。
ダメ元で用意したシュークリームが、机の上に出しっぱなしになったままだ。
互いに会話のネタも尽き、僕らは微睡みの中へと落ちていく。
もう、メリーさんの着信なんてかかってこないだろう。……そう思った、そのとき。
――ジリリリリリリ。
けたたましい着信音で、僕と新野先輩は跳ね起きた。
新野先輩はすぐさま、他のサークルメンバーにメッセージを入れる。
僕は、一呼吸入れ既に見慣れてきた“非通知”の電話に出た。
「わたし、メリー。今、森の中にいるの」
森の中――それは十中八九、部室周辺の森のことだろう。
途中でメリーさんと鉢合わせしないよう、できるだけ惹きつけてから逃げないと。
“非通知”
「わたし、メリー。今、家の前にいるわ」
新野先輩の部屋は2階。ベランダの窓は開いている。逃走経路の確保は万全だ。
“非通知”
「わたし、メリー。今、玄関前にいるわ」
粘り気のある唾を何とか飲み込む。
僕と新野先輩の間に、張り詰めた緊張が走る。
――しかし、それ以上、着信音が鳴ることはなかった。
もしかして、背後を取らせないという作戦がうまくいったのか?
――ザクッ。
小気味よい音とともに、左耳が熱を帯びる。
「……ッつ」
振り返っては駄目だ。
そう思いながらも、視線は自然と背後の壁へと向いてしまう。
壁から、布切りばさみのような鈍色の刃物が突き出ていた。
その刃は小刻みに動き、次第に壁に空いた小さな穴が広がっていく。
僕も新野先輩も、想定外の状況と恐怖に縛られ、身動きが取れない。
小さな穴から覗く蒼い瞳。感情のこもらない、無機質な瞳だ。
「わたし、メリーよ。今、あなたの目の前にいるわ」
そう告げると、メリーさんは壁を突き破り、ベッドへと飛び乗ってきた。
「灰原! 逃げろ!」
新野先輩の叫びで、ようやく体に力が入る。
僕は勢いよくベランダから飛び降りた。
「くっ……!」
二階からの落下は甘くなかった。アスファルトに足を取られ、転がるように倒れ込む。右足に鈍い痛みが走った。
くそっ……動け!
足を捻ったのか、痛みでうまく立ち上がれない。
なんとか這って前へ進むものの、背後に何かの気配を感じる。
もう駄目だ……。
意を決して振り向くと、あのフランス人形――メリーさんが布切りばさみを手に、僕の足元に立っていた。
――バキッ!
次の瞬間、激しい破壊音とともに人形が吹き飛ぶ。
気づけば、新野先輩がメリーさんを蹴り飛ばしていた。
「灰原、走れ!」
「新野先輩こそ! 僕のことはいいですから、逃げてください!」
いくら標的ではないとはいえ、メリーさんが新野先輩に危害を加えない保証など、どこにもない。
隣家の塀に激突したメリーさん。
しかし、人形のボディには一切の傷がなく、関節が軋む不快な音を立てながら、容易く立ち上がる。
やはり、メリーさんは紛れもない怪異だ。
「……まったく、来てみて正解だったな」
渋めの声とともに、見覚えのある体格の良い青年が駆け寄ってくる。
「ジャイアン先輩!」
「郷田だ! 一年、後で覚えとけよ」
郷田先輩は僕を軽々と持ち上げ、肩に担ぐ。
「新野! あとは俺に任せて、お前は逃げろ!」
「うるさい! こいつ、絶対に許さん!」
アドレナリンが出ているせいか、新野先輩の闘争心は最高潮だ。メリーさんの前に立ちはだかると、半身を引いて腰を落とし、見慣れない構えを取る。
「狙いは僕です。郷田先輩、急いで作戦場所まで行きましょう。そうすれば、メリーさんも新野先輩を無視して僕を追ってくるはずです」
一か八かの賭けに出る。
「確かに、それもそうだ」
郷田先輩は僕を背負ったまま、勢いよく駆け出す。
走り出してから5分、作戦場所はすぐに見つかった。
目的地点の木にはイルミネーションが飾られ、やけに明るい。
入学式以来会っていなかった桃さんが、その木の下で跳ねながら手を振っている。
「ここだよ〜!」
桃さんに促されるまま、郷田先輩は僕を地面に降ろす。
右足の痛みに耐えながら、地面に突き立てられた杭の前に立つ。
「この杭を背にして」
言葉通りに杭に背を向け、桃さんの指示に従って位置を調整する。
「自分は新野の様子を見てきます」
そう言い残して、郷田先輩は再び駆けていった。
その間も桃さんは杭を抜き、僕の背後で何やら準備を進めている。
泉先輩と果穂さんも、緊張した面持ちで少し離れた場所からこちらの様子をうかがっていた。
「よしっ、準備できたわ。いい? 何があっても絶対に動かないでね」
桃さんがどすの効いた声で念を押す。
それは、たとえメリーさんが迫ってきても、動くなということだ。
……あとは、足の痛みと恐怖に耐えるだけ。
僕のせいで新野先輩を危険に晒してしまった。
ここは、意地でも踏ん張らないと。
森の中を静寂が支配する。
木々のざわめきのなか、不穏な気配が忍び寄る。
その直後――聞き慣れた少女の声が、僕の背後から耳に届いた。
「わたし、メリー……っ! ぎゃあああっ!」
次の瞬間、けたたましい怨嗟の悲鳴が森中に響き渡る。
慌てて振り返り、足元を見る。
なぜか、メリーさんが地面に半ば埋まっていた。
人形のボディには御札のようなものが巻き付けられている。
すかさず、桃さんが掌印のようなものを結び、なにやらお経のような言葉を唱える。
「ナウマクサンマンダ バザラダンカン……」
「ナウマクサンマンダ バザラダンカン……」
次の瞬間、無数の御札がメリーさんの体を完全に覆い、不穏な気配が一瞬で消え去った。
「よしっ、もう大丈夫よ」
桃さんの言葉を合図に、泉副代表と果穂さんが駆け寄ってくる。
僕がバランスを崩しそうになると、果穂さんが慌てて肩を貸してくれた。
「ごめんね、果穂さん。ありがとう」
「いいんですよ。私にはこれくらいしかできませんから」
桃さんは御札に包まれたメリーさんを軽々と持ち上げ、泉先輩に手渡す……かと思いきや、まるでぬいぐるみでも投げるように、ぽいっと放り投げた。
「桃さん、助かりました。実はすごい人だったんですね」
僕は深々と頭を下げる。
「なに、いいってことよ、少年」
桃さんは誇らしげに鼻を鳴らした。
「正直、状況をよく理解してないんですけど、何をしたのか訊いてもいいですか?」
僕に伝えられていた作戦は、このイルミネーション地点までメリーさんを誘き出すところまでだった。
作戦の全容は知らされていない。泉先輩曰く、「不要な情報は咄嗟の判断に支障をきたす」からとのことだ。
「簡単に説明すると、杭の打ち込んであった地点――少年の背後に、人形の重さでも落下する小さな落とし穴を掘っていたの。穴の周囲を御札で固めて、逆結界で封印したってわけ」
桃さんの説明で、なんとなく全体がつかめてきたが……。
そんな手段で本当にメリーさんを封じ込められるなんて…。
「メリーさんの“必ず最後に背後を取る”ってルールを逆手に取って、罠を張ったんだ」
泉先輩の言葉で安心したのも束の間――
ジリリリリリリ。
あの聞き慣れた着信音が、泉先輩のスマホから鳴り響いた。
僕は、恐怖のあまり体を強張らせる。
「そんな……どうして……」
「ぷっ……ごめんごめん」
泉先輩が突然、吹き出す。
「この音が、メリーさんの着信音か確かめたくてね。噂で言われていた音をいくつか試してたんだけど、灰原くんの反応を見て、これで間違いなさそうだ」
「ちょっと、副代表。冗談が過ぎますよ!」
桃さんが、ややキレ気味に叱責する。
果穂ちゃんも、苦笑いを浮かべていた。
泉先輩は頭をかきながらスマホの電話に出る。
だがその表情は、すぐに真剣そのものに変わっていく――。




