4話 メリーさん②
ふと目が覚めると、デジタル時計は午前1時を示していた。
――結局、帰ってすぐに寝落ちしてしまったらしい。
ぼんやりとした頭で部屋を見渡す。
何も変わった様子は――ない、はずだった。
その瞬間。
――ジリリリリリッ!
甲高い着信音が、静寂を引き裂くように鳴り響いた。
「うわっ!」
胸の奥が跳ね、喉から乾いた悲鳴が漏れる。
そんな…。
スマホは常にマナーモードに設定している。大学の講義や電車にも乗るからだ。
それに、こんな音――古い電話のような、耳障りなベル音など、着信音に設定した覚えはない。
恐る恐る画面を確認する。
“非通知”
表示されたその文字に、背筋がじわりと冷たくなる。
着信音は止まらない。
まるで「出るまで終わらせない」と言わんばかりに、部屋中に鳴り響く。
意を決して、応答ボタンを押す。
「……もしもし」
返事はない。ただ、ザザッという耳障りなノイズ。
それに混じって、かすかに聞こえる――
「わ…し……、…り………」
言葉の断片。意味は読み取れないが、明らかに誰かの“声”だ。
悪質ないたずらかと思い、通話を切る。
しかし、数分も経たないうちに、再び“非通知”で着信があった。
「……わたし、メリー。今、駅にいるの」
女の声が一方的に告げ、ブツリと通話は切れた。
心臓が早鐘を打ち始める。
僕は震える手でスマホの電源を切り、思わずベッドの上に投げ捨てた。
「ウソだろ……? メリーさんなんて、都市伝説のはずだろ……」
駅…通学でいつも使っている、M駅のことか?
――ジリリリリ!
ありえない。切ったはずのスマホが、また鳴り出した。
恐怖で指が動かない。
気がつけば、勝手に通話が繋がっていた。
「わたし、メリー。今、あなたの家の前にいるわ」
鼓動が耳を圧迫する。
僕はとっさにベランダへ駆け出した。
ここは201号室。ここからならアパートの前が見えるはずだ。
月明かりだけがぼんやりと地面を照らしている。
「……っ」
その光の中に、ぽつりと浮かび上がる小さな影。
――フランス人形が、こちらを見上げて立っていた。
足元が冷たくなるような錯覚。全身に鳥肌が走る。
再び、着信音。
反射的にスマホに目を向けてしまう。
通話が自動で繋がる。
「わたし、メリー。今、玄関の前にいるわ」
再び視線をアパート前に戻す。
――いない。
影は、もう消えていた。
そして、最後の着信音が鳴る。
恐怖が喉元に突き刺さり、声も出せない。
「わたし、メリー。今、あなたの――うしろにいるの」
声はスマホからではなかった。
……すぐ背後から聞こえた。
「うわぁああああっ!」
悲鳴と同時に、反射的に体が動く。
僕はベランダの柵を飛び越え、そのまま闇の中へと飛び降りた。
何も考えられなかった。ただ、逃げなければならなかった。
僕は裸足でひたすら走り続けた。
…どれだけ走ったのか、覚えていない。
気づけば、としけんの部室の前に立っていた。
がたがた震える手で、木製の扉を激しく叩く。
「……すみません! 誰か……助けてください!」
こんな夜更けに、誰かがいるはずなどない。
それでも、藁にもすがる思いで叩き続ける。
やがて、扉の奥からか細い声がした。
「……どちら様ですか?」
きしむ音と共に、扉がわずかに開く。
黒髪ロングの小柄な女性が、少し困ったような顔をして立っていた。
「昨日、入部見学に来た者なんです。泉先輩は……いますか?」
女性は眉をひそめ、眠そうな声で言う。
「今、何時だと思ってるんですか。泉先輩なら……家で寝てると思います」
その当然の指摘に、僕はようやく現実に引き戻される。
「……すみません。取り乱してました」
少し落ち着いたところで、ある疑問が浮かぶ。
「えっと……こんな時間に、どうして部室に?」
よく見ると、彼女の髪は乱れ、パジャマ姿にスリッパ。
……まさか、ここで暮らしている?
「それ、お答えしないといけませんか?」
ぴしゃりと言われて、何も言えなくなる。
他人のプライベートに土足で踏み込むつもりはなかった。
「……すみません、ご迷惑をおかけ――」
その途中で、急に視界が揺らいだ。
足元から力が抜け、意識が遠のいていく。
――ッつ。
それからどれだけ時間が経っただろうか。
鋭い痛みで、意識が戻る。
「ごめんなさい。……痛かったですよね。もう少し、じっとしててください」
目を開けると、先ほどの女性の膝の上に横たわっていた。
額に当てられた冷たい感触と、やさしい声。
「え……? えっ!?」
あまりの状況に、声が裏返る。
「こんな場所で申し訳ないけど……男の人を運ぶの、結構大変だったんですよ」
周囲を見渡すと、どうやら部室の玄関内の上がり框らしい。
「急に倒れたからびっくりしましたよ。頭、少し打ってましたし。
裸足で足も傷だらけ……いったい、何があったんですか?」
「それが……何て言えば……」
いま起きた出来事が、夢だったのか現実だったのか、自分でも分からない。
彼女はそっと笑って、僕を見下ろした。
「まあ、大きなケガじゃなかったので大丈夫。
今、消毒して止血してるところです」
「……本当に、ごめんなさい」
突然押しかけ、勝手に倒れて。恥ずかしさで顔が熱くなる。
体を起こそうとしたが、足に力が入らない。
「まだ動かないで。血が止まったばかりですから」
彼女の言葉に従い、大人しく応急処置を受ける。
張りつめていた気持ちが、ふとほどけた。
いつの間にか、僕の意識は再び、ゆるやかな闇に沈んでいった――。




