9.その後の挑戦
映画は素晴らしい出来栄えであった。ロケ地の鎮江市からは歴史的遺産であるとまで評価された。ところがバブルが弾け、又しても作品はお蔵入りしてしまった。日本経済のドタバタは中国の人達には分からなかったと思う。
その後私は映画シナリオ3部作を書いて製本して配った。しかし,日本中が不況であり、映画を作る雰囲気は消えていた。誰にも遊び心は残っていなかった。不動産業界もバブル崩壊後、30年近く沈んだままである。
2006年、私は60歳になって、毎朝硬式テニスの壁打ちを始めた。どんどん上達した。そして、硬式テニスの打ち方の本を出すことにした。中学校2年から高校時代に軟式テニスをしたことが有ったが、壁打ちだけでマニュアルの本を出すなんてことは考えられない。
私には自信があった。口ずさみで作曲し、レコードを出して、有線放送で流した。中国まで行って、映画を作った。主題歌の作詞、作曲もして、脚本、監督もした。中国テレビで放映の誘いまで受けていた。素人であることが怖くなかった。
<硬式テニス新打法>の本を出版した。内容には自信があったが、売れなかった。体調も壊してしまい、実演して廻ることもできない。又、挫折である。
私は老後、小説家になろうと思い、本も7冊出版した。全く売れない。食ってはいけないが、一応小説家にはなった。
「食べられないなら、趣味です。アマチュアです」と言われそうだ。
私にはやり残したことが有る。
「自分でレコ―ディングすれば良いのに」と何度か言われた。
レコード会社のプロデューサーからも言われた。
「私には無理です。声が良くない」
「そんな事はないですよ」
私はそう断ってはいたが、内心レコーディングしてみようと思っていた。勿論、プロになる気はない。それでも自宅で毎晩、我流で練習をしていた。
カラオケ1000曲の歌集を全部歌った。過って作詞をする為に読んだ歌集を今度は声を出して歌った。もともと古本屋で買った歌集なので、ずいぶん古い曲ばかりである。それでも知らない曲の方が多い。知らない曲は、メロディを想像しながら歌った。
それは立派な作曲だった。最初1か月かかった作曲が、今では、詞を読み終えると同時に曲がイメージできるようになっていた。
私はカラオケ屋の常連になった。
「何曲歌えるだろう?」から「挑戦2万曲」に進んでいる。
私は79才になってしまった。2025年11月現在で18,000曲を超えている。先ず、歌手を選び、<あ>から降順に全て歌っている。殆ど知らない曲である。イントロを聴いただけでメロディを想像しながら歌うのです。
1回、2時間、30曲、私は全ての曲をレコーディングするつもりで歌っています。新曲を提供された歌手の気持ちになって歌います。
「それ、言いすぎだろ」
一人カラオケなのでそう言ってくれる人もいない。
最近、AIが普及して来た。Geminiに訊いてみた。
「カラオケで歌います。30曲で2時間の映画と同じ時間です。ドラマ仕立てで30曲選んで下さい」
即、30曲が提供された。カラオケ屋に行って歌ってみた。映画の起承転結を考えながら、即興で歌った。殆ど若者の曲で知らない曲であったが、私は映画の挿入歌としてアドリブで作曲しながら歌った。全く違和感がなかった。
「一体、どこの誰がこんなカラオケの歌い方ができるだろう?」
又、1つの高みに到達したと思った。
これが我が人生塞翁が馬の最終章である。




