1、義母の持論
『将来、お嫁さんになりたい!』
それがわたしの幼い頃からの夢だった。
そして、6年間の交際をへて、ようやくわたしは好きな人のお嫁さんになったのだ。
憧れていた純白のウェディングドレス。
拍手に包まれる披露宴。
…思えば、ここがわたしの人生の幸せのピークだったのかもしれない。
わたしの名前は、飯田陽葵。
30歳のどこにでもいる、ごく普通の専業主婦だ。
2LDKの決して広いとは言えないこの賃貸マンションで、夫の翔平と暮らしている。
わたしの1日は、朝6時半に起きるところから始まる。
鏡の前で、ささっとダークブラウンのセミロングの髪を束ねて、エプロンを羽織る。
朝食の準備、翔平のお弁当を作っている間に、朝の7時。
お寝坊さんの翔平を起こしに行くのが毎朝の日課だ。
「翔平、朝だよ〜」
「…ん〜〜〜…」
翔平は抱きまくらを抱きしめながら、ころんと寝返りを打つ。
しかし、なかなか目覚める気配がない。
だけど、それもいつものこと。
翔平が多少寝坊しても会社に遅刻しないように、すぐに朝食を食べられる準備をしておくのが、わたしの仕事だ。
寝癖のついた黒髪短髪の頭をポリポリとかきながら、ようやく起きてきた翔平は顔を洗いに洗面所へ。
その間に、わたしは朝食をお皿に盛り付け、テーブルの上に敷かれたランチョンマットの上に並べておく。
「…いただきます」
「いただきます」
まだ完全に起きていないのか、テンションの低い翔平の向かいに座って、わたしもいっしょに朝食を取る。
翔平は、あくびをしながら朝食のトーストをかじり、スマホをいじる。
わたしは、朝のニュース番組になんとなく目を移す。
だから、この時間のダイニングはテレビの音しか聞こえない。
まるで熟年夫婦のような朝の静けさだけれど、わたしたちは結婚してまだ1年。
世間一般で言うと、まだまだ『新婚』と言われる時期かもしれない。
決して、仲が悪いというわけではない。
でも、結婚するまで6年も付き合っていたのだから、自然とこうなっても仕方ないのかもしれない。
「翔平…!お弁当、忘れてるよ!」
「…あっ、ほんとだ。ありがとう、陽葵」
わたしは、玄関で靴を履いていた翔平のところへ慌てて駆け寄る。
ここで、いってきますのキス…。
なんてものはないけど、わたしは笑顔で翔平を送り出した。
スーツを着て出勤する翔平は、中小企業に務める、こちらもごく普通のサラリーマンだ。
歳は、わたしよりも3つ上の33歳。
年収は、年相応くらい。
特に贅沢な暮らしをすることもなく、わたしたちは普通の結婚生活を過ごしていた。
翔平と出会ったのは、今から7年前。
わたしが23歳で、翔平が26歳のときだ。
たまたま職場の同期に誘われて参加した合コン。
そこにいたのが翔平だった。
翔平の第一印象は、正直あまりパッとしなかった。
ブサイクというわけでは決してないけど、イケメンというわけでもない。
特に特徴的なところもない、どこにでもいる普通の顔だ。
だけど、話していて悪い人ではないと思った。
物腰も柔らかで、なんだか落ち着く。
しかも、趣味が読書ということや好きな作家まで同じということが判明!
わたしたちは、その場で意気投合。
わたしも当時はまだ社会人1年目だったから、年上の社会人の男の人がなんとなくかっこよく見えたのも事実だ。
だから、仲よくなるのにそう時間はかからなかった。
何度かデートを重ねて、すぐに交際に発展した。
わたしたちのお付き合いは、順調だった。
たまには、翔平の一人暮らしの部屋にお泊りに行くことも。
しかし、そこで新事実が判明する。
キッチン周りに残されたカップ麺やコンビニ弁当の容器の数々…。
シンクに溜まった洗い物。
そう。
翔平は、社会人になってから一人暮らしをしているというのに、料理や家事ができないのだ。
仕事終わりのスーツ姿や、デートのときにはきれいめな服を着てくるものだから、てっきり身の回りのことはきちんとできる人だと勝手に思い込んでいた。
ちょっとくらい自分でやりなさいと思いつつも、わたしは料理や家事が嫌いというわけではない。
だから、散らかっている部屋を見ると、どうしても1人で片付けてしまいたくなる。
それに、翔平も喜んでくれるから俄然やる気が出てしまうのだ。
「陽葵、いつも片付けしてくれて助かるよ!それに、今日のメシもうまそうだな!」
翔平が笑顔だと、わたしもうれしい。
だから、ついついやってあげたくなってしまう。
いわゆる、これが『母性』というやつかもしれない。
あの頃のわたしは本当にかわいかった。
翔平のためなら、なんでもしてあげたくなるのだから。
しかし、今になってよくよく考えてみたら、わたしにとっての『母性』は…。
翔平にとっては、ただの『家政婦』としてしか思われていなかったのかもしれない。
家事は嫌いというわけではなかったけど、べつにわたしだって結婚してからも『家政婦』になりたかったわけじゃない。
できることなら仕事を続けたかった。
今の生活のように、『専業主婦』を望んだことなんて一度だってない。
ふと、棚に飾っている結婚式の写真が目に入った。
ウェディングドレスを着たわたしの隣に、グレーのタキシードを着た翔平。
2人とも、満面の笑みだ。
幸せそうな…わたし。
だけどこれが、わたしの人生の幸せのピークだったのかもしれない。
朝の9時過ぎ。
突然、わたしのスマホが鳴る。
この音は、電話の着信音。
スマホを手に取り、画面に目をやる。
そして、そこに表示された名前を見て、わたしはため息をつく。
【お義母さん】
…朝から、なに。
出たくない。
でも、出なければ出るまで何度も着信がある。
〈…もしもし〜〉
わたしは、裏声を使い分けて電話に出た。
〈もしもし、陽葵さん?〉
この、若干の早口で話すのが、翔平の母親――。
つまり、わたしの義理の母親だ。
名前は、飯田恵美子。
20歳を過ぎて、7歳年上のお義父さんと結婚して、23歳のときに翔平を生んでいる。
現在、56歳。
朝からなんの用だと思って電話に出てみたら――。
〈次はいつ、こっちにきてくれるのかしら?〉
そんな、メッセージで済むような内容の電話だった。
お義母さんも専業主婦で、わたしも専業主婦。
わたしのことも暇とでも思っているのか、そういったどうでもいい電話は度々ある。
〈…そうですねぇ〜。まだ翔平さんと話せてなくて…。予定が決まりましたら連絡させてもらいます〉
…って、3日前にもそう言ったんだけどな。
わたしは聞こえないようにため息をつくと、電話を切った。
翔平の実家までは、車で1時間ほど。
孫がいるわけでもないのに、月に数回顔を見せにいかなければならない。
翔平曰く、お義母さんも寂しいんだとか。
翔平には、3つ下――。
つまり、わたしと同い年の弟がいる。
名前は、哲平くん。
早くに結婚して子どもも2人いるけど、仕事の都合で家族揃って今はアメリカに住んでいる。
そっちはさすがに気軽に会える距離ではないから、こうしてわたしたちにくるようにと催促の電話がかかってくるのだ。
正直なところ、…面倒くさい。
だけど、実家好きな翔平にそんなことを言えるわけもない。
それに、わたしだってわざわざお義母さんと不仲にはなりたくはないから、このことは心の中にそっと閉まっている。
しかし、お義母さんが面倒くさいと思ったことは、今に始まったことではない。
初めて思ったのは、結婚の挨拶として翔平の実家へ行ったときだ。
無口なお義父さんとは反対に、よくしゃべるお義母さん。
結婚については喜んでくれているようだけど、まるで警察の取り調べかと思うほど、わたしの身辺についていろいろと質問してくる。
挨拶というよりは、尋問のようだった。
でも初対面だし、これから家族になるのだと思って、わたしも笑顔を絶やさずに受け答えをしていた。
そのうち、わたしの仕事の話になり――。
「となると、陽葵さんはいつお仕事を辞められるの?」
まるで、結婚したら仕事を辞めるのは当然と言ったような口ぶりだ。
「…あっ、いえ。仕事は結婚しても続けるつもりです」
「え?どうして?べつに、翔平のお給料だけでも暮らしていけるでしょ?」
いや、それはそうなんですが…。
口をついて出てきそうになった言葉をなんとか飲み込む。
お義母さんの言うように、翔平の給料だけでやっていけないことはない。
でも、将来子どもが1人、2人と増えたらお金もかかるし、マイホームだって建てたいし。
そうなると、わたしも仕事を続けることに越したことはない。
幸い、わたしの会社は産休育休制度も整っているし、翔平ともそうしたほうがいいねと話し合って決めたのだ。
「母さん、今どき共働きなんて当たり前だよ?」
「あら、そうなの?でも陽葵さん、仕事もしながら家のこともできるの?」
正直、あまり翔平には家事は期待していないけど――。
「そこは、翔平さんと分担して…」
と言いかけたとたん、お義母さんの顔色が変わった。
「もしかして…あなた、夫に家の手伝いをさせるつもりなの…?」
眉をひそめ、じっとわたしに視線を送るお義母さん。
地雷を踏んでしまったことは、すぐにわかった。
「結婚したら、家を守るのが女の務めよ」
お義母さんは自信満々に、『私はそうしてきたから、あなたも同じことをして当然』とでも言いたそうな表情だ。
なにも言えないわたしに、お義母さんは続ける。
「夫は外で働いて疲れてるんだから、それを労うのが妻の役目なんじゃないの?それなのに、夫にまで家事をさせるなんて…、これだから今どきの若い人はっ…」
ま…待って。
疲れて帰ってくるのは、わたしも同じ。
だから、家事は分担しようということで、わたしたちの中では話はついていたのに…。
反論するわけにもいかず、顔が引きつるわたし。
そこに、翔平の助け舟が…!
「仕方ないだろー、母さん」
よかった。
これで、翔平がなんとか説得してくれるはず。
そう思っていたんだけど…。
「陽葵も仕事を続けたいみたいなんだから、陽葵の好きにさせてあげたら」
…なんか違う!
これじゃあ、まるでわたしが翔平との結婚生活よりも仕事を優先したいような言い方。
わたしが求めていたのは、『2人で話し合ってそう決めたから』。
そういうニュアンスの言葉を伝えてほしかったのに!
「仕事と家事は、両立できるようにがんばりますので…!」
お義母さんの顔を見るに、絶対に納得していない。
だけど、とりあえずそういうことで場を凌いだのだった。
まさか翔平のお義母さんが、『結婚したら女は家に入る』という典型的な専業主婦の固定概念の持ち主だとは思わなかった。
共働きなんて当たり前。
今ではそれがよく見る光景なのに、考え方が昭和で止まっていることに驚いた。
その日の帰り。
「母さんって自分の意見をすぐ口に出すから、ちょっとびっくりしただろ?」
そう話す翔平に、わたしは隣で苦笑いを浮かべていた。
…いや、“ちょっと”どころではないけどね。
わたし、お義母さん…苦手だな。
初対面のときに、そう思ってしまったのだった。
だが、これはまだ序の口にすぎない。
それから、約1ヶ月後。
2人が付き合った記念日に、婚姻届を提出しよう。
そう決めた日にちが、いよいよ数日後に迫っていた。
わたしと翔平の記入欄は、すでに記入済み。
あとは、証人の欄だけだ。
そこには、だれに書いてもらうか予め決めていた。
お互いの両親だ。
先にわたしの実家へ行き、お母さんに書いてもらった。
お父さんは、恥ずかしくて書きたくないんだとか。
そして残るは、あと1人の証人。
…しかし、それは言うまでもない。
翔平の実家へ行き、婚姻届を見せると、お義母さんはわたしたちの話を最後まで聞かずに、証人欄に署名した。
もしかしたら、哲平くんのときにも書いたのかもしれないけど、躊躇いもなく書くその姿は、まるで自分が書いて当然というような雰囲気が漂っていた。
「これでいいのかしら?」
「ありがとうございます…!」
お義母さんは再度、婚姻届の見直しをする。
「…んっ……?」
そして、左ページを凝視しながら眉間にしわを寄せる。
婚姻届の左ページ…。
そこにあるのは、わたしと翔平の記入欄。
何度も確認したはずだし、書き間違いはないはずだけど…。
「陽葵さんって、お会いしたときから変わった名前だと思っていたけど、漢字も変わっているのね」
お義母さんが見ていたのは、わたしの名前。
確かに、わたしの名前の漢字をお義母さんが見たのは、これが初めてかもしれない。
わたしの名前『陽葵』には、7月生まれのわたしのために、明るい太陽と、それに向かって元気よく咲き誇る『向日葵』の意味が込められている。
「太陽の『陽』に、『葵』だなんて、これで『ひまり』って読むのね。…正直、まったく読めないわ」
「…そうなんですっ。周りからも、珍しいねって言われるんですけど――」
「珍しいというより…、こういった当て字をつけるのは、私にはちょっと理解できないわ」
「…あはは。そうですね〜…」
わたしは顔を引きつらせながら、そう言うしかなかった。
そのあとは、『翔平』と『哲平』はだれでも読めるような漢字にして――。
と、聞いてもいない名前の話をされた。
その間も、わたしは笑顔を崩さなかった。
でも、心の中ではモヤモヤが膨れ上がる。
…ひどい。
わたしのお父さんとお母さんが一生懸命に考えて、わたしのためにつけてくれた名前なのにっ…。
思うことはたくさんあるけれど、その後無事に婚姻届を提出し、晴れてわたしたちは夫婦となったのだった。
だが、思い描いていた新婚生活は訪れることはなかった。
翔平は、社会人になってからずっと住んでいた賃貸の部屋を解約。
わたしも実家を出て、2人で新しくマンションの部屋を借りた。
今まで半同棲状態だったのが、これでいよいよ本格的な同棲。
そのドキドキに胸を踊らせていたのは、ほんの初めの間だけだった。
『家事は、2人で分担しよう』
そう決めていたのに、…まぁ翔平の家事のやらないことと言ったら。
やっておくリストまで作ったのに、『帰るのが遅かったから』とか『今日は疲れていたから』という言い訳ばかりで、全然自分の役割ができていない。
わたしだって帰るのが遅くなる日もあるし、仕事をしてるんだから毎日疲れて帰ってくる。
だけど、2人で決めたことだから、せめて自分の分の家事はどんなに疲れていてもこなしていたのにっ…。
挙句の果てに、『これなら自分でやったほうが早い』とさえ思うようになってしまっていた。
…もう翔平には頼らない。
少しでも、翔平も分担してくれると思ってしまった自分が…バカみたい。
だから、ゴミ出し等の最低限のこと以外は、すべてわたしが担うことにした。
…まだ結婚したばかりだというのに、さっそくなにもできない翔平に対してイライラしてしまう。
でも、『結婚は忍耐』って言うし…。
これくらいのことで、いちいち怒っていたらダメなのかな。
そうして改めて、婚姻届の提出をへて、夫婦になった重みを実感していたのだった。
けどわたしだって、時には手抜きしたくなるときもある。
今日は、料理を作るのが面倒くさい。
そう思う日も出てくる。
そういった日は、スーパーのお惣菜やピザを頼んで凌いでいる。
翔平も、たまにはそういうのも食べたくなると言って、むしろ喜んでくれた。
…しかし、どういうニュアンスで翔平が伝えたのかはわからないけど。
「…陽葵さん。あなた、普段の料理もまともに作ってないらしいじゃないの」
休日に翔平の実家へ遊びに行った、ある日。
キッチンで、お義母さんと2人になったときにそんなことを言われた。
「結婚するときに言ってたわよね?仕事と家事は、両立できるようにがんばりますって」
「…はい」
「それなのに、食事をスーパーのお惣菜なんかで済ませるなんてっ…。結局、両立なんかできてないんじゃないの?」
『両立できていないのは、あなたの息子がなにもできないからです』
そう言えたら、どんなに楽なことか…。
このときは、なんとか飲み込んだけれど――。
時には抜き打ちでマンションを訪ねてきて、部屋の片付けの具合をチェックされる。
それで、まるで呪文のように「こんなんだったら、仕事を辞めたほうがいいんじゃないの?」と唱え続けられるものだから…。
結婚して半年もたたない間に、わたしは寿退社という形で、新卒から働いていた会社を辞めたのだった。
翔平も結婚すときは、「陽葵が働きたかったら、働けばいいよ」なんて言ってくれていたのに…。
わたしが辞めたとたん、「やっぱり陽葵が家にいてくれたほうが、俺もいいわっ」と、実にお気楽だ。
少しでも家計のためにと思ってパートも考えてみたけど、「そんなことしなくていいよ」と言ってくる。
翔平の中では、ずっと専業主婦のお義母さんを見てきたから、子どもの頃の自分が家に帰ってきたら、お母さんがいて当たり前。
子どもに鍵は持たせたくない。
実は、そんなことを思っていたんだそう。
そんな暮らしは、ある意味理想ではあるけれど…。
やっぱりわたしには、外で働くほうが合っていた。
翔平もそこまで言うのなら、自分の給料だけでこれから2人で生活していかなければならない、という自覚をもっと持ってほしい。
翔平のお給料だけじゃ、決して贅沢な暮らしはできない。
だからこそ、こっちが節電節水していることにも協力してほしいものだ。
そして、それから1年の時が過ぎ、現在に至る。
2ヶ月ほど前に、うれしくもない30歳の誕生日を迎えた。
翔平は、人気のケーキ屋さんのバースデーケーキと、わたしが少し気になっていたブランドのピアスをプレゼントにくれた。
それで、わたしを喜ばせることができたと自己満足している様子。
…しかし、わたしがほしいのはそんなものなんかじゃない。
結婚して1年もたてば、そろそろ真剣に考えてほしい。
――子どものこと。
わたしがまだ20代そこそこの、新婚気分を楽しみたい歳ならいいかもしれない。
だけど、もう30歳。
周りは、妊娠中はもちろん、2人目、3人目を生んでいる友だちだっている。
わたしの年齢的に、できれば早く1人目がほしいと思ってしまうのは自然なことだ。
それに、子どもはわたし1人だけががんばってどうにかなる問題じゃない。
だから、やんわりと翔平に相談してみたけれど――。
「大丈夫だよ、陽葵はまだ若いんだしっ!子どもなんて、その気になればすぐ作れるんだから、そんなに焦らなくてもいいって!」
と、根拠もない自論で流されてしまった。
そういえば、『そろそろ結婚について考えてほしい』と言ったときも、こんな感じだった。
あれは、今から2年ほど前になるだろうか――。
周りが、付き合って数年で次々と結婚していく中、5年以上付き合っているというのになにも言ってこない翔平。
毎年のわたしの誕生日や付き合った記念日には、今日か今日かと期待してしまったけど、そんなものは呆気なく打ち砕かれる。
23歳から付き合っているから、てっきり25歳か26歳辺りで結婚できるものだと思っていた。
それが気づけば、28歳…。
いや、あと少しで20代最後の29歳を迎えようとしていた。
せめて、30歳までには結婚したい。
若いうちに、ウェディングドレスだって着てみたいし。
そう翔平に伝えたのに――。
「大丈夫だよ、陽葵はまだ若いんだしっ!」
と言って、聞く耳を持たなかった。
ここまで付き合ってきたんだし、情も含まれるけど、翔平のことは好き。
しかし、この人と付き合っていても、いつ結婚できるかはわからない。
かと言って、ここで翔平と別れて、果たしてすぐに次の人が見つかるのだろうか…。
この人と一生いっしょにいたいと思えるような人が。
見つからないまま30歳を迎えて、そのまま結婚できない可能性だってある。
それと比べたら、このまま翔平と付き合い続けて、いつか結婚できる日を夢見るほうが…まだ確実なのではないだろうか。
でも、それって…いつ?
わたしは、考えても考えても答えが見つからないループの中にいた。
これが、20代前半であれば、まだ時間的に余裕があったのかもしれない。
だけど、もう29歳目前。
…時間がない。
そのことを友達に話したところ、思いがけない案が飛び出した。
「それじゃあ、1回占いしてみなよ!」
友達曰く、よく当たる占い師さんがいるんだとか。
その友達も、学生時代から付き合っていた彼氏がいた。
しかし、その彼氏とは2年ほど前にすっぱりと別れたのだ。
聞くと、20代後半になっても結婚話が出てくることはなかったからだそう。
そして、その彼氏と別れたほうがいいと助言したのが、よく当たるという占い師さんだった。
「残念ながら、その彼とはご縁がありません。…しかし、あなたを結婚へと導いてくれる人はすぐに現れることでしょう」
その占い師さんの言葉を信じ、思い切って長年付き合っていた彼氏と別れたところ、すぐに次の人と巡り合うことができたんだとか。
そして、1年もしないうちに結婚し、今では第一子を妊娠中のうらやましい友達なのだ。
「占いに人生かけるなんて、初めはバカげているとは思ったけどね。でも、今となっては信じて正解だった!だから、信じるか信じないかは別にして、一度陽葵も占ってもらったら?」
そりゃ、わたしだって占いを信じているわけではないけど…。
でも、自分じゃ答えを出せない。
それなら、半信半疑でもその友達がよく当たるという占いに行ってみるのもアリかも。
そう思い、わたしは教えてもらった占い師さんのところへ行くのだった。
そして、そこで言われたのは――。
「今の彼とは、結婚できないことはないでしょうが…」
結婚できないことは…ない⁉︎
それなら――。
「しかし、その彼の背後には黒い影が見え隠れしています。もし結婚できたとしても、あなたは苦労することでしょう」
…なんとも。
翔平と結婚できるならいいような…。
でも、手放しで喜べないようなことを言われた。
「それよりも、いつかちゃんとあなたの気持ちを汲んでくれる人が現れます」
「わたしの気持ちを汲んでくれる人…?それって、いつ現れてくれるんですか…⁉︎」
「それは、今はまだわかりません。もやがかかっていて…。しかし、きっとどこかで必ず現れてくれます」
…なんだか、やんわりとした回答。
まぁ、これが占いってやつなんだろうけど。
「今の彼と結婚しても幸せにはなれないでしょう。ですから、その人を待つという選択をしたほうが懸命かもしれません」
そう言われたって…。
その人が現れるのが40代や50代になってからじゃ遅すぎる。
だけど、翔平と結婚したって幸せにはなれない…。
わたしは、ただ周りから遅れを取らないように、“結婚”というものがしたいのか。
それとも、だれかと幸せな結婚生活を送りたいのか。
せっかく占いにきたというのに、結局答えは見つからなかった。
だから、最後の手段で――。
「…翔平。わたしたち…別れない?」
翔平にカマをかけてみることにした。
どんなにケンカしたときだって、別れ話なんてしたことがなかった。
それが、突然わたしが別れ話を持ちかけたら――。
一体、翔平はどんな反応をするだろうか。
最悪の状況になったときには、『冗談に決まってんじゃん♪』と明るく切り返せばいいだけだし。
そのくらいにしか思っていなかったんだけど――。
「…別れるっ⁉︎な…なんで⁉︎急にどうしたんだよっ⁉︎」
翔平は、予想以上に動揺していた。
幸い、怒ってくるどころか、今にも泣きそうな顔をしている。
「実は…。よく当たる占い師さんに、今の彼とは別れたほうがいいって」
「…はっ⁉︎なんだよ、それ…!」
「それに、その彼は2人のこれからのことを考えていないから、結婚は無理だろうって言われちゃって…」
そこまでのことは言われていないけど、少し話を盛っておいた。
――そうしたら。
「…そんなことないよ!俺だって、ちゃんと陽葵との将来は考えてるっ!」
なんと、思いがけない言葉が飛び出してきた。
ちゃんと、わたしとのことを考えてくれていたの…⁉︎
「陽葵は、俺が幸せにするって決めてるんだから、そんな占い師の言うことなんて気にすんな!」
まさか、翔平がそんなことを思っていてくれていたとは知らなくて――。
不覚にも、惚れ直してしまった。
「その占い師がインチキだってことを、俺が証明してやるよ!」
「証明…?どうやって?」
「そんなの決まってるだろっ」
そう言うと、翔平は優しくわたしの手を握った。
「結婚しよう、陽葵。それで、2人で幸せになろう!」
これが、翔平からのプロポーズの言葉だった。
理想のプロポーズは、夜景を見下ろすレストランでゆっくり食事をしたあとに――。
なんてことを思い浮かべていた。
だけど実際は、少し散らかっている翔平の一人暮らしの部屋の中で。
それでも、わたしはとてつもなくうれしかった。
ようやく、長年待っていた言葉を聞くことができたんだから。
こんなことなら、もっと前からカマをかけておくべきだった。
そうしていれば、今頃幸せな結婚生活を送っていたのかもしれないのに。
そして、あれだけ悩んでいたのがなんだったのかと思うほど、それからはトントン拍子で物事が進んだ。
お互いの親への挨拶。
両家顔合わせ。
婚姻届の提出。
結婚式と新婚旅行。
わたしの左手の薬指には結婚指輪が輝き、ようやく夢見た結婚生活がスタートしたのだった。
ちゃんと翔平と結婚することができた。
やっぱり、あの占いは外れだったんだ。
そう思っていたんだけど――。
『しかし、その彼の背後には黒い影が見え隠れしています。もし結婚できたとしても、あなたは苦労することでしょう』
翔平の背後に見えたという…黒い影。
これが、お義母さんのことを指していたということに、あとになってから気づくのだった。
そして、その占い通り、その黒い影のせいで今わたしは苦労している。
さらには結婚はしたものの、次は夫が子作りに協力してくれないという夫婦の問題にも直面していた。