第二話 竜の恩返し
「ふぁっ!?」
これで何度目だろうか。また間抜けな顔で奇声を上げてしまった。担がれているのかと思って恐る恐る視線を上げると、アイリスは至って真面目な顔で桜を見つめていた。その氷青色の瞳はとても真剣で、嘘を言っているようには見えない。
「鶴の恩返しならず、竜の恩返しといったところかしら。あなたの側に居たくて、魔法で人間に変えてもらって、この現実世界にやってきたの。当時もう転移門を開く天賦魔術は使えるようになってて、移動は簡単だったから」
〔だから愛してるの、桜〕
同時に聞こえてきた心の声。桜は妙に納得してしまった。アイリスから見れば、命の恩人といったところなのだろう。だから、こんなにも自分に優しくしてくれるし、愛してくれる。
「ありがとう、あーちゃん……」
理由がわかるととても嬉しくて、桜はアイリスの身体に抱き付いて頬ずりをした。サービスではなく、ずっと黙って身を尽くしていた健気な彼女が愛おしくて。
「じゃあさ、さっきの人、ホントに知り合いなんじゃないですか? ドラゴンだったころの。そしたら、転移門を開けることとか、知っててもおかしくないですよね?」
「それはそうなんだろうけど……」
「昔の恋人だったりしません? あの人も元ドラゴンとか?」
「あれはただの人間で間違いない。同族ならそうと気付く。私、あんなおっさん知らないし、ましてや愛し合うなんて考えられない」
元々人間。でも知らない。しかし、知らないのはあくまでもおっさん。桜の頭の中で、電球がペカペカと点滅した。
「忘れちゃってるだけじゃないですか? 時間の流れ違うんですよね? 前はもっとあーちゃん好みの、ショタ美少年だったとか?」
「私ショタコンじゃないし! ロリコンだし! ついでに百合だし!」
何故か激しく反論してくるアイリス。心の声ではいつも駄々洩れだが、物理的に声に出して言ってしまっている。余程気に障ったらしい。
元々なのか、それとも桜を溺愛するうちに傾き過ぎたのか。発育が悪くて良かったのかもしれないと桜は思った。大人になったら捨てられるのかな、などと少々寂しく思っていると、正気に返ったのか、アイリスが咳払いをする。
「おほん。それはいいとして……もしかして、エミルかしら?」
小首を傾げ、顎のところに人差し指を当てて、どこか遠くを見るような目付きでそう言うアイリス。どうも思い当たることが出てきたらしい。
「たぶん、私の元飼い主だわ。さっき古代竜の盟約の効果で、命令しようとしてたもの」
古代竜の盟約。逸姫刀閃の世界で、竜騎兵たちが竜を従えるのに使う魔法。そういえば、桜が設定したのと似た呪文を唱えていた気がする。
「そんなに時間の流れが違うのね……。こっちにきて五年ちょっと。向こうはもう四十年くらいは経ってるんじゃないかしら。言われてみれば、瞳の色一緒だった。あの暑苦しい眉も。愛し合ってはいなかったけど、一方的に執着されてた気はする」
得心したのか、何度も頷くアイリス。八倍も時間の流れが異なれば、見てすぐわからなくても仕方がないと思える。しかも、現実世界で五年、ラブコメ世界で一年半と、アイリスの感覚では、七年近くも会っていないのだから。
「そうすると、ジーラントは私が知ってる頃とは大分変わってるわね。あなたと出逢ったとき、もう構想はあったみたいだからか、ジーラントは成立していた。でもその後生まれた設定の方が多いわよね?」
「そうですね……。ドラゴンがいっぱいいるとか、それに乗って戦うとかはもうありましたけど、詳しいお話はその後どんどん付け足して」
「とすると、桜の小説通りに領域が変化して、王位を簒奪した暴君が、他の領域への侵攻を始めたのね」
何か話がおかしな方向に進み始めた。まるで桜自身がその世界を制御しているかのよう。
「わたしの小説通りって、どういうこと?」
「幻想世界は、現実世界の人間が創造したもので構成されてるって言ったでしょ? あなたの考えたものが、ちょうどあの領域にあるってこと」
それは理解している。アホ過ぎて分離された世界。恐らくユーロスから。
「その後の歴史は、あなたが与えたもの。こちらの世界で考えたことに連動し、幻想世界はめまぐるしく変化する。新しく思いついたものが世界に登場し、忘れ去られたものは消えていく」
「ほうほう。つまり、この桜さんがあの世界の神!」
冷たい視線が桜に向けられる。調子に乗りすぎたかと反省して俯いたものの、アイリスの口からは意外とも取れる言葉が漏れた。
「まあ、あながち間違ってはいないわ。けど、別にあの領域をどうこう出来るわけでもないわよ。侵攻を止めるよう命じることは無理」
一瞬期待したものの、しょぼーんと膝を抱える桜。しかしすぐに頭の中で電球がペカペカと点滅して、深紅の瞳を輝かせつつ宣う。
「お話書き変えればいいってことですね!」
「それで解決するなら、とっくにそう頼んでるんだけど?」
言われてみればそうだった。そもそも、予言は何百年も前。時間の流れの違いを考慮しても、桜が書き始める前に決まっていたということだろう。どう書いたとしても、過程や詳細が変わるだけで、結果は同じになる。タイムリープものでよくある展開ということ。
そうすると、予言の回避は無理なのだろうか。そもそも夢幻の心臓とは何なのか。そこに戻ってしまった。
「ねえあーちゃん、夢幻の心臓って何?」
「領域に最も強い影響を与え、その存在を支えているもの。端的に言えば、現実世界の人の心臓そのもの。殺してしまえば、幻想は消える。それは幻想世界そのものの危機となる。だから、現実世界に危害を加えることは禁止されてるの」
死んでしまえば、もう考えることは出来ない。忘れたのと同じになるから、その人が生み出した幻想世界の文物は消滅する。だから、アイリスたち幻想世界の人間は、夢幻の心臓を守らなくてはならない。自分たちの存在を維持するために。
そうすると、予言が示すことは、ユーロスにて現実世界人の誰かが殺されるということ。今はユーロス人であるアイリスが守ろうとしているのだから、ユーロスを維持する夢幻の心臓の持ち主なのだろう。それをやるのがジーラント。ユーロスを攻め滅ぼすために。
(あれ? これって、わたしのせいじゃ……?)
自分が考えたジーラントの仕業で誰かが死ぬ。それも幻想ではなく、現実の人間が。そういうことなのか確認しようとすると、アイリスの方から別の質問が飛んできた。
「ねえ桜、あなたの作品、先の構想でそういうの出てくる? 夢幻の心臓とか、他の異世界への侵攻とか」
「いえ、ないです。邪竜神ヴァーヴェルを倒して終わりのつもり。ずっと書き続けるようなら、そのあと他の国出して、そっちでお話考えようかと思ってましたけど、異世界はあれだけ」
「ということは、ジーラントの存在も、今回起きている事態も、少なくともあなたの発想じゃないということね。幻想世界は一人だけの力で生まれたものじゃない。色んな人の空想が絡み合って、独自の歴史を歩んでいるのよ」
アイリスはすごいと桜は思う。いつも先回りして、心のケアをしてくれる。ポンコツアホの子の考えることなど、お見通しとばかりに。
「あーちゃん、大好き」
強く抱き付いて、その胸に顔を埋めて涙を隠した。戸惑ったような心の声が聞こえる。それを搔き消すかのように、アイリスは強い口調で物理的な声を出した。
「なんだかわからないけど、お子様はもう寝なさい。朝になったら、山の中を移動するわよ。大分下りたところにある山荘に、協力してくれる人が住んでるの」
「直接行けなかったの?」
心地良い温かさに包まれながら、桜は純粋な疑問をぶつける。アイリスのことだから、理由がないわけないとは思いつつ。
「追手がいないことを確認した上で、その人のところに行きたいの。事情は説明してあるけど、自分の身を心配してたから。現実世界の人間に危害を加えるのは、最大の禁忌。だから大丈夫なはずとは言っておいたけど、念のため離れた場所に出るようにマーキングしたの」
「そっか……じゃあ、おやすみ」
その協力者にどこまで話したのかはわからない。しかし予言の話と、夢幻の心臓とは何なのかを説明してあったら、当然心配するだろう。現実世界人に手を掛けるという意味の予言なのだから。
巻き込んではならないが、一緒に行くというわけではないのなら、きっと平気なのだろう。自分とアイリスの身の方を心配した方がいい。守らなくてはならない、アイリスを。
ラブコメ世界で目覚めてから、まだ何時間も経っていない。なのに、精神的な疲れのせいだろうか、それともアイリスのくれる安心感のせいなのだろうか。桜はその後何秒意識を保っていたのか、まったく覚えていない。