第四話 二人だけの世界
すべてが逆だった。人がいないのが当たり前の世界で、いないことに気付いていなかった主人公が桜。いないものをいないと悟らせず、主人公に合わせていたヒロインがアイリス。そういう構図。
それを確かめるために、桜は校門の前まで走った。そこには誰もいない。今まさにホームルームの開始を示す、八時半のチャイムが鳴っているのに、遅刻者をチェックする教師はいない。ギリギリ駆け込んだり、間に合わず怒られていたりする生徒の姿も一つもない。
「今日の朝食、誰が作ったか覚えてる?」
立ち尽くす桜に対して、追い込みをかけるようにアイリスが問いかけてきた。
「あーちゃん」
フレンチトーストを作ってもらった。桜の家に来て、目の前で料理してくれた。メイプルシロップをたっぷりかけて、一丁前にナイフとフォークを使って頬張った。
「昨日の夕食は? 朝食は? お弁当は誰が作った? その前はどうだった?」
「あーちゃん……あーちゃん……全部あーちゃん!」
一人暮らしをしているわけではない。父も母もちゃんと一緒。どちらも朝早い仕事で、桜が起きる時間にはもういないというわけではない。夜遅い仕事で、桜が眠った後に帰ってくるわけでもない。なのにいつもアイリスが来て、毎食作ってくれていた。二人だけで食べていた。
「最後にお母さんと食事をしたのは、いつだか覚えてる? 最後に交わした言葉は?」
「覚えて……ない……」
両親の記憶自体が存在しないわけではない。中学の制服を着ているときに、母親と朝食を食べた思い出は残っている。
目玉焼きをトーストに挟んで噛んだら、黄身が飛び出て汚れてしまった。出かけるまでの僅かな時間で、綺麗に落としてくれたのを覚えている。自分も将来、こんな頼り甲斐のある母親になりたいものだと思ったことは、忘れていない。きちんと胸の中に残っている。
あれはいくつの時だっただろうか。少なくとも高校に入ってからは、両親のどちらとも会っていない。中学の時より可愛い制服に喜んだものの、褒めてもらった覚えはない。一緒に入学式に行った記憶も、合格を祝ってもらった記憶もない。
「部員が集まらなくて、スポチャン部作れないって言ってたわよね? 早く友達作らないとって。あなたアホの子だけど、楽しいから中学では人気があった。なのに出来ないのはどうして?」
誰もいない校門。誰もいない校庭。誰もいない校舎。ゆっくりと歩いて周り、一つ一つ確かめてから、桜は答えた。今までは一度も疑問に思わなかった、奇妙な事実を。
「学校には、他に誰もいないから……」
涙で歪む視界の中に、アイリスが入ってきた。いつものクールな澄まし顔で、それでいて優しさと愛情に満ち溢れた手が、桜の頭に伸びる。慰めるように撫でながら、アイリスがそっと語る。この世界の真実を。
「ここは私が密かに書いてた、クーデレ×アホの子の百合ラブコメの世界。あなたと私をモデルにしたお話。だからこんなにも、私たちが住んでた街にそっくりなの」
ここは、歩いて行ける距離にあるから、一緒に通おうと約束していた高校。桜の成績では少々合格は厳しい。アイリスの成績だと簡単すぎる。だからこそ二人一緒にするには丁度いいと。
「登場人物は二人だけの作品。名前なしのモブキャラすら出てこない。だから二人しかいなくても、あなたはおかしいと思わなかった」
ならばここは確かに幻想の世界。この学校も、あのマンションも、その道路も、すべてが虚構。アイリスの想像の産物。こうあって欲しいと彼女が願ったことで生まれたものに過ぎない。
だとしたら、ここに住んでいる人間は何なのだろう。生み出したのはアイリス。彼女が創造主。なら残りのもう一人は――
「あ、あれ? じゃあ、わた……わたし、空想の産物? 実在しない人間? ヒロインは、桜さんの方?」
堪えきれずにポロポロと涙を溢れさせて、桜は目の前にいる創造主に訊ねた。所詮自分は、アイリスが愛でるために作られた、虚構の存在に過ぎないのだろうかと。だからこそ、あんな人間離れした動きや技が出来たのだろうかと。
くすりとアイリスが笑う。温かくて愛らしいその表情は、初めて表に出したデレだったのかもしれない。その唇が紡ぐだろう答えは聞かずともわかって、桜は同じような顔をして返した。
「安心して。あなたはちゃんとした現実世界の人間。私の妄想――もとい、空想から生まれた存在じゃないわよ。さっきの転移門を使って、ここへ連れてきただけ」
〔これ、いわゆる未成年者略取じゃないかしら……? どうせ犯罪者になるなら、あんなことやこんなこともしておけばよかった!〕
相変わらず雰囲気ぶち壊しの心の声が聞こえてきて、桜は笑いを堪えるのに苦労した。本気で腹を捩って爆笑したかった。――と、その手が急に強く引かれる。
「隠れて」
バランスを崩して倒れ込むようにしながら、二人で昇降口の屋根の下に入った。アイリスのふくよかな胸に受け止められ、頬ずりして感触を楽しみたいという思いを断ち切りながら、後ろを振り返る。地面に竜の形の影が落ちており、こちらに向かってきて校舎の影に呑まれた。
「赤いのだった。昨日のとはまた違う個体。さっきのおっさんの指示で探しにきたみたいね」
死角から飛んできた竜を、アイリスは目にしたのだろう。ならば、こうしてはいられない。
桜はすっくと立ち上がると、袖でゴシゴシと涙を拭った。深紅の瞳に決意を漲らせて、氷青色の瞳を見つめ返す。
「わたし、まだやれます。ここ、二人だけの世界ってことは、派手にやっちゃっても、誰にも迷惑かからないってことですよね?」
「それはそう。ここに隠れた理由は、被害が出ないからってのもある。けど……」
視線を落とし、迷う素振りを見せるアイリス。再び見つめ返してくると、立ち上がりながら告げた。
「他の領域に逃げましょう。彼らがどうやってここへ来たのかがわからない。自然発生した小さな転移門を通ってたまたま迷い込んだのなら、今追い返せばそれでいい。そのうち転移門も消える。でも、もしそうでないとしたら――」
大軍が来る可能性がある。アイリスはそう言いたいのだろう。いつになく深刻な眼差しが、それを物語っていた。先程の竜騎兵が、どれくらいの強さの者だったのかは知らない。だが、最下級兵士だったのではないかと桜は思う。
騎乗していた竜のブレスの方が、ずっと強力に見えた。きちんとした騎士なら、自分が乗る竜よりも強い。少なくとも桜の書いた逸姫刀閃の世界ではそう。それと同じなのだとしたら、大軍はもちろん、正規の騎士一人にすら敵わない可能性がある。
「わかりました。ここは逃げましょう」
「ええ。とても二人じゃ対抗しきれない。大軍がきたら、この領域ごと崩壊しかねないし」
「それで、どこへ行くの? 現実世界に帰るの?」
恐らく違うだろうと思いながらも、他に選択肢が思いつかずに桜は訊ねた。両親に会いたいという気持ちもあったのかもしれない。自分が本当に現実世界の人間なのか、それで確かめたいと。
「幻想世界の者たちは、現実世界に危害を加えてはならないのが掟。でもそれはこちらも一緒。さっきの天帝の雷霆みたいのとか、あなたの桜花一刀流みたいのは使ってはならない」
「でも、あの人たちに見つからなきゃいいんですよね? 隠れるとこなんていっぱいあるし、現実世界じゃドラゴンで飛び回るなんてこと、目立つから出来ないでしょうし」
自分で言っていて、途中でもう間違っていると理解出来た。幼い頃は、逆の理由で苦労していたのだ。その予想の通り、アイリスは首を横に振る。
「あなたみたいな特異な人間以外には見えないから。それに、危害を加えたり、大きな影響を及ぼしたりさえしなければいいの。他のことは特に制限されてない。私たちを探す魔法とかは使えるってこと。見つかってしまった後、素の力だけで抵抗出来ると思う?」
出来るわけがない。あの甲冑男に勝てたのは、村正宗と桜花一刀流のお陰。互いに素手で勝負をしたら、簡単に首をねじ切られてしまうだろう。
誰かに護衛を頼むのも難しい。信じてもらうだけでも困難。そして魔法があるのなら、目を盗んで簡単に連れ去ることが出来るのかもしれない。
「今日のことも、予言に向かう運命の流れの一つなのかしら……。誰だか覚えてないけど、見つかった相手が悪かったみたい。私の天賦魔術のことを知っている。死んだことにでもなってると思ってたんだけど、きっとこの能力を求めてしつこく探しにくるわ」
甲冑男は、アイリスの力が必要だと言っていた。予言というのが良い内容なのか悪い内容なのかはわからない。しかし、覚えていない相手とはいえ、協力せず逃げようとしている。ならば少なくともアイリスにとっては、悪い予言と考えていい。
それを回避するために、アイリスは桜を連れてこの世界に隠れ潜んだ。予言を実現する過程で、アイリスの力が使われるのだろう。彼女にとっては避けたい運命のために。
「あーちゃん、ならやっぱりここで戦いましょ? わたし、あーちゃんを全力で守ります」
「ありがとう、桜。いざという時はお願い。でもそれはここじゃない方がいい。まずは村正宗を回収しましょう。その後、他へ移動するわよ」
さっさと走り出したアイリスを追いかけつつ、桜は空を見上げた。
「あーちゃん、待ってー。見つかっちゃったらどうするのー?」
「回収さえ間に合えばいい。どこに飛ぶのかなんて、すぐにはわかるはずないんだから」
先程隠れたマンションは、学校のすぐ近く。一気に走り抜けると、玄関に転がったままの村正宗を拾った。アイリスは何か精神集中でもしているのか、眼を閉じてじっとしている。
「見つけた。転移門開錠」
地面ギリギリの低い位置に、上を向いて門が現れた。閂が外され開いた先には、草の生えた地面が見える。
「入って。ジーラントの竜騎兵相手でも、充分対抗出来そうな領域があるの。そこの夢幻の心臓の持ち主に、事前にお願いしてある。その領域に逃げ込ませてもらいましょう」
「領域ってのはなんとなくわかりますけど、夢幻の心臓って何?」
「説明は後。先に移動して。ずっと開けたままだと、向こう側がどこなのか察知されてしまう」
そう言われると急がざるを得ず、桜は思い切って門の向こうに見える草地へと飛び下りた。
「ひええええ、寒いんですけどー!?」
出口は一メートルほどの高さにあり、屈み込んで下から抜けながら、全身をぶるぶると震わせた。寒風吹き荒ぶ真っ暗な山の中のようだった。吐く息は真っ白で、雪が積もっていないのが不思議なくらいの気温。遠くの方、かなり下に市街地の明かりが見える。
アイリスも飛び下りてきて、しゃがみ込んだまま転移門を閉じている。ガシャリと金属音がして錠が掛かると、初めから何もなかったかのように門は消えた。
「ここが現実世界。さっきまでいた幻想世界は、現実世界の人々の創造力が寄り集まって出来た世界。だから、あなたの考えたお話に出てくるそれがあるのよ」
村正宗を指してアイリスが言う。桜は目をぱちくりさせながら、その特異な形状の日本刀を見た。どうも先程の解釈は間違っていたようで、やはりこれは自分のオリジナルだったらしい。
しかしそうすると、何か矛盾がある気もする。ここはまた幻想世界の別の場所なのではないかと心配し、桜は訊ねた。
「これ、わたしが考えた幻想の存在ってことですよね? 現実世界に今こうしてあるのって、おかしいんじゃ……?」
「別に持ち出すことは出来るわよ。あなたの作品を読んだ人しか存在を知らないから、ほとんどの人には見えないだろうけど」
言われてみれば、竜がそうだった。他の人たちには見えていなかった。まともに信じてはくれなかったが、食べさせるものを両親にねだった記憶がある。あれは現実世界での出来事だったということだ。
「危険だから、それは一旦しまっておきましょう。いつでも出せるわ」
小さな転移門が上向きに生成されて、中を覗くと向こう側は細長い箱か何かに直接繋がっているようだった。村正宗に丁度いいと思える鞘が固定してある。先程はさかさまに転移門を開くことで、ここから落ちてきたのかもしれない。
ティッシュを取り出して、表面を軽く払って砂やらなにやらを落としてから、鞘に差し込む。やはり専用のもののようで、ぴたりと納まった。
転移門が閉じる音を聞きながら、桜は改めて周囲を見回した。街明かりが見えるのは、かなり遠くの方だけ。結構山深い場所に思える。少なくとも自宅の近くには、こんな場所はない。
「ねえ、あーちゃん。お母さんはどこ? お父さんは? きっと心配してます。最後にいつ会ったのかも覚えてないんだもん」
あの制服を汚した記憶。あれがいつなのか、はっきり覚えていない。仮に中学の卒業式の日だとしても、二か月は家を空けていた計算になる。忘れてしまうほど時間が経っている以上、三年前でもおかしくはない。
再び泣き出しそうな顔で訴える桜。アイリスはまた優し気な微笑みを浮かべて、頭を撫でる。
「大丈夫、そんなに心配してないわ。冬休みを利用して、私の親戚の家まで、スキー旅行に行ったことになってるから」
「心配しないわけないじゃん! 忘れちゃうほど長いスキー旅行ってなんですかー!?」
思わず声を荒げた。中学生の冬休みに出かけて、高校生になるまで帰らないスキー旅行。もはや旅行というより留学レベル。アイリスの親戚なら、海外へのホームステイということもあり得るが、その間一切連絡なしで済むわけがない。
「落ち着いて、本当に大丈夫だから。実際心配してないの。証拠ならあるわ。だってあなた、まだ中学二年生だもの」
「ふぁっ!?」
先程もやった気がするが、桜は目と口を大きく開いた間抜けな顔で奇声を上げた。
(発育が悪いのはそのせい……?)
随分と背が小さく、色々と控えめなボディだと思っていた。まだ中学二年生。そしてこの寒さからすると冬。自分で思っていたのと、一年半近く歳が違う計算。ならまだ余地はある。
(――って、今考えるのはそこじゃなくてー!)
心の中で自分に突っ込みを入れながら、アイリスがこちらに向けているスマホの画面に目を遣る。そのまま視線が釘付けになった。
待ち受け画面に表示されている日付は、二〇二三年の一月四日。二〇〇八年五月五日生まれの桜は、確かに中学二年生の十四歳。
「今日は一月四日。私たちが出発してから、まだたったの九日目。あなたのアカウント使って、何度かメッセージも送っておいたから、何も心配してないことを確認済み」
桜は慌てて自分のスマホを取り出した。日付なんていくらでも変えられそうに思えたから。
自分のを見ても、確かに同じ日時が表示されていた。念のため、SNSのアプリを起動する。本体の時計は、過去に設定することも可能だろう。しかし、他人の投稿を過去の日時に変えることは出来ない。
三分前と表示されている一番上の投稿の詳細を見る。確かに二〇二三年の一月四日。自分の最後の投稿は、二〇二二年の十二月二十三日。この内容は覚えている。終業式で早く帰れたので一話書いて投稿し、自作品更新の告知をした。
(あれ……? じゃあ、さっきまでのが全部夢?)
つい先ほど、こちらの世界で村正宗を持っていた。あの甲冑男との戦いは、夢だったとは思えない。その前のアイリスとの高校生活も、二人だけだったのが異常なだけで、確かに色々と記憶は残っている。入学式も、その前の中学の卒業式も、アイリスとの想い出だけはある。
スマホの中に、あれが桜にとっての現実であった証拠がきっとあるはず。そう思って色々とアプリを起動してみた。毎回SNSでやっていた更新告知は、向こうの世界にしかないから、こちらでは見られない。それでも、持ち出せているものもあるのではないかと。
「あ……これ、ドラゴン撮れなかったやつ……」
昨日の下校途中、久々に見つけた竜を撮ろうとして、空しか映らなかった写真が残っていた。記録された日付は、確かに二〇二四年の五月十六日。その前にも、写真は多数あった。
笑顔でブイサインをしている桜。ジト目で迷惑そうにしているアイリス。湯気の立つ美味しそうな料理。鮮やかな色彩の美しい風景。二人の想い出の証拠は、きちんと残っていた。
こちらの世界ではたったの九日間。現実世界ではないところでの出来事。しかし桜は実際にそれを体験したのだ。架空の存在。幻想の世界。それでも、想い出は確かに本物だった。
頬を伝う雫を感じながら、桜はスマホを抱き締めた。震える声で口にした言葉は、あの世界の影響なのだろうか。確か、百合ラブコメだと言っていた。
「あーちゃん、大好き……」
桜より大分背の高いアイリスが、ぎゅっと抱き締めてくれる。その身体はとても温かくて、吹き荒ぶ冷たい風を忘れさせてくれた。