第三話 現実は幻想に
ひょいっと顔を出して、ガラスの向こうの空を見上げる。しばらく眺め続け、何も追ってきていないのを確認してから、再び壁の裏に隠れた。隣では、アイリスが膝に手をついて荒い呼吸を繰り返している。
「大丈夫、あーちゃん?」
「え、ええ……」
もっと遠くまで逃げたかったが、アイリスが辛そうなので、通学路途中のマンションの中へと隠れた。竜を使って空から探すのであれば、直接見られることはない安全な場所のはず。
先程は妙な自信に突き動かされて戦ってしまったが、今になって不安が襲ってきた。これが夢なのなら、目が覚めればそれで終わる。何が起こっても問題はない。夢の中で死んだら、現実でも死んでしまったなんて話は、聞いたことがないのだから。
レンガ風の壁タイルに手を伸ばす。ざらざらとしたその手触りは、とても夢とは思えないリアルで繊細な感覚。玄関横の植栽から漂ってくる躑躅の香りも、先程感じた強い痛みや血の味も、桜の五感すべてが、これが現実であることを示していた。
「さっきのあれ、なんなの? あーちゃんのこと、知ってるみたいでした。まるで連れ去りにきたみたい」
アイリスの呼吸が落ち着いたころを見計らって、桜は恐る恐る訊ねた。夢は夢のままでいい。幻想は幻想のままでいい。今までの願いを、そう否定しながら。
「もしかしたら、封印に綻びが生じてしまったのかもしれない。偶然に備えての仕掛けはあったはずなの」
桜の質問には直接答えず、焦点の合っていない目で周囲を見回すアイリス。マンションの玄関の中ではなく、どこか別のところを見ているかのようだった。
「大した強さじゃなかったわ。どこかと繋がってしまっても、あの程度の存在が侵入出来るわけがないの。昨日見かけたドラゴンだって……」
「やっぱり視えてたの? もしかして、ずっと前から?」
アイリスは魔法使い。先程の戦いも見えていたようだった。当然あの竜騎兵が跨っていた竜も。ならば、元々視えていたと考えるのが自然。
想像通りだったのだろう。申し訳なさそうに瞼を伏せると、アイリスは小さな声で謝った。
「ええ、ごめんなさい、隠してて。予言の刻が来たのかもしれないわ……」
「予言って?」
「夢幻の心臓の破壊」
聞いたことのない固有名詞だった。村正宗や桜花一刀流は、桜が書いた小説に出てくる。しかし夢幻の心臓というのは、先の構想にも入っていない。
それは、これが自分の夢の中ではないということを示している。眠りながら考えたことを、実体験と錯覚するのが夢。ならば、欠片も知らないものは、思いつきそうもないものは、当然出てこない。
「予言の解釈は合ってたのね。ジーラントがユーロスに侵攻するために、私の能力を使おうとしてるんだわ」
ジーラント。それは桜が書いた逸姫刀閃の舞台となる王国の名前。なら先程のは、小説通りジーラントの竜騎兵だったのだろう。ユーロスというのは知らない。それも構想にすらない。
そしてアイリスの能力。空中に門が出来ていた。その先は別世界。逸姫刀閃には登場しない魔法。しかし、甲冑男が言っていた天賦魔術という言葉は、桜も作中で使っていた。
「もしかして、あーちゃん、異世界からやってきたの? さっきの天賦魔術を使って?」
「ええ、あれは転移門って言って、領域間を繋ぐ――」
アイリスの言葉はそこで途切れ、カシャンという音が二つ、周囲に木霊した。氷青色の瞳を優し気に綻ばせながら、黒髪に頬を寄せ、愛撫するように指を絡ませてくる。
気が付いたらもう、アイリスの首筋に飛びついていた。ぎゅっと抱き締めながら、心の裡を言葉にする。白銀の髪から僅かに覗く耳に向かって、桜はそっと囁いた。
「あーちゃん、ありがとう。わたしを助けてくれたの、あーちゃんだったんですね。あの時のあれ、やっぱり魔法の副作用だったんだ……」
一度昏睡状態に陥ったものの、それまでが嘘のように元気になった。瞳が人に非ざる深紅になったこともあり、誰かが魔法で治してくれたのだと思っていた。恩人が目の前にいるとは、流石に想像もしなかったが。
〔この子、勘違いしてるのね……。これ、恩を売っておいた方がいいのかしら? そうしたら、あんなことやこんなことも……〕
せっかくの感動を台無しにする心の声が聞こえてきて、桜は柔らかい銀髪に顔を埋めながら固まった。どうしてくれよう、と思ったものの、恩人であることには違いないと考え直した。
身体を元気にしてくれたのは、アイリスではないのだろう。だが心を元気にしてくれたのは、間違いなくアイリス。
「あーちゃん、大好き」
サービスではなく本音。何を言っているのかわからないほど狼狽した心の声が、怒涛の勢いで聞こえてきた気がした。
手を放して見上げると、案の定茹で上がったアイリスの顔があった。融けてしまった氷青色の瞳を慌てて逸らし、口がパクパクと動き出すも言葉は出てこない。
「そ、その――わ、私は、転移門を自由に作って、ひ、開くことが出来るの。だから、それを使って、その……よ、予言の、回避を狙ってたの。この領域に、あなたと二人で隠れることによって」
やっとのことで落ち着きを取り戻してきたのか、アイリスの口からまともな説明が流れ始めた。
領域。分割された世界の一部ということだろうか。この現実世界も、多数ある世界の中の一つ。そう解釈することで、色々と腑に落ちた。
自分が考え出したはずの村正宗が実在するのも、自分の作品世界であるはずのジーラントが存在するのも、それなら説明出来る。ただの勘違い。忘れてしまったが故に、自分が考え出したと思い込んでしまっているだけ。
幼い頃にどこかで耳にしたのだろう。恐らくは異世界人から。あの甲冑男は、ジーラント人と考えるのが妥当。ならば、知り合いと思われるアイリスも同じはず。
小説を書き始めたのは、中学生になってから。知らず知らずのうちに、幼い頃アイリスから聞いた話を使ってしまっていた。それが真相といったところ。
(パ、パクリじゃないですよね、これは? そう、異世界ファンタジーじゃなくて、現代ファンタジーにジャンルが変わるだけなのです)
内心の動揺を抑えつつ、自分の解釈を確かめ、この先の方針を練るために桜は口を開いた。
「なるほどなるほど、つまりあーちゃんは異世界から来た魔法使い。で、予言ではこのあと現実世界はどうなっちゃうんですか? 異世界と大戦争?」
ゆっくりと首を横に振るアイリス。戦争ではないと知ってほっと息を吐いた桜だったが、否定されたのはその部分ではなかった。
「ここは現実世界じゃないわよ」
「ふぁっ?」
何を言っているのかわからず、桜は目と口を大きく開いた間抜けな顔で奇声を上げた。それをさも可笑し気に見下ろしながら、アイリスは語る。世界の真実を。
「ここは私の創造力から生まれた世界。現実世界ではなく、幻想世界内の領域の一つ」
夢ではないようだが、現実でもない。既に異世界。そう言われても俄かには信じられない。五感のすべてがリアル過ぎるからではない。異世界転移しているのなら、それは異世界における現実なのだから、当たり前のこと。
問題は、この世界のどこをどう見ても、桜が住んでいた元の現実世界にしか見えないことだった。
思わず桜は走り出した。先程の竜騎兵の仲間が探しているかもしれないことも忘れてしまい、マンションの扉を押し開けて外に飛び出る。住宅地の道路の真ん中に出て、辺りを見回した。
アイリスと二人で、毎日高校へと歩いていくいつもの通学路。先程甲冑男が現れた以外、特に何の異常も見られない。
今朝のことを思い出した。住んでいる部屋もその家具も、すべてが見慣れたもの。幼い頃に床につけた傷も、壁に貼ったシールも、何もかもがそのままだったのを覚えている。どこを見ても、昔から住んでいた世界、桜にとっての現実世界としか思えない。
後に続いて出てきたアイリスに向かって、桜は疑問を投げかけた。
「あーちゃん、ここが異世界とか、わたしを騙してるでしょ? もー、いくらポンコツアホの子だからって、それくらいわかります」
くるりと振り返り、マンション名が記載されたパネルを指差して言う。
「ほら、鏡文字になってません。鏡の中の左右反対の異世界ってわけじゃあ、ありません。こんな現実世界そっくりの異世界が、どこにあるって言うんですか」
「そう見えるから、この領域にあなたを連れてくることを受け入れたの。ここなら違和感なく暮らせる。選ばれた理由は、他のどことも繋がってなくて、隠れるのに適してるからだけど」
違和感などあるわけがない。どう見ても現実世界。違うことなど一つもない。自分の記憶と再度照らし合わせつつ、周囲に視線を巡らした。もう学校が見える。いつもの見慣れた校舎。
一つだけ気付いたことがある。このままでは遅刻になってしまう。校舎に取り付けられた時計の針は、間もなく八時半を差す。学校に行っている場合ではなさそうなので、それを無視しておかしい場所を探すも、やはり何も見つからない。困り果てて助けを求める視線をアイリスに送った。
「やっぱり自力ではわからないのね。でも証拠ならあるわ。だってこの世界、私とあなたしか存在しないもの。さっき迷い込んできた竜騎兵を除いて」
その言葉を聞いた瞬間、桜にも見えてしまった。この世界の真実が。既にヒントは与えられていたことにも、今更ながらに気付いた。昨日アイリスが言っていた話、主人公とヒロインの認識は逆だったのだ。