第二話 幻想は現実に
「あーちゃん、あーつーいー」
白い縁取りの入った黒ブレザーのボタンを外し、パタパタと仰ぎながらぼやく桜。既に五月中旬。もう上着は要らないかと思ったのに、まだまだ朝晩は冷えるからとアイリスは言う。仕方なく着て家を出たら、案の定今日も真夏のような太陽が顔を出していた。
「ほら、だらしないから、ちゃんと着なさい」
心頭滅却すればなんとやらなのか、アイリスはいつも通りの涼しげな顔。前に立ち塞がって、せっかく外した桜のブレザーのボタンを留め始める。その首元には暗青色のチェック柄ネクタイがきっちりと締められており、桜は自分の暗赤色のリボンタイと見比べて考えた。
(ネクタイにしておけば良かったです……)
ゴムなので暑くても緩められない。ネクタイは結ぶのが面倒そうと考え、リボンを選んだ三月の自分を恨めしく思った。
(まあ、あれよりはマシですね。めっちゃ暑そう)
ふと前方に向けた視線に飛び込んできた姿を見て、桜はそう思い直した。何しろ顔まですっぽり覆った全身甲冑。一体どこのコスプレ会場からやってきたのか、何故か通学路にそんな格好の人物がいる。
桜の視線に気付いたのか、アイリスがはっとした様子で振り返った。
〔なんでこんなところに!?〕
かなり驚いた様子の心の声。無理もない、どう見ても不審人物。はっきり言って関わりたくない。遠回りして学校に行こうと思ったが、提案する前に甲冑姿の怪しい人物が先に動いた。ガチャガチャと金属音を立てて無造作に近寄りながら、籠もった声で語り掛けてくる。
「やはりアイリスだったか。人の姿をした同族がいると聞き、もしやと思ったのだ」
声を聴く限り、中身は男のようだった。知り合いであるかのように話しかけてきているが、当のアイリスは首を傾げて問い返した。
「誰?」
その状態では判別がつかないことに気付いたのか、甲冑姿の男は面甲を上げて顔を露にした。
「俺だ、アイリス。共に来い、お前の力が必要だ」
出てきたのは、武骨な感じの中年男。もう小皺が目立つ年頃。眉が太く少々暑苦しい雰囲気の顔は、瞳や毛の色からして、日本人ではない。アイリスはじっと見つめ、首を捻っている。
〔こんな知り合い、いたかしら?〕
本気でわからないようで、桜は小さな胸をほっと撫で下ろした。こんな変質者っぽいのとアイリスが知り合いではたまらない。
「あの、なんか勘違いじゃないですかね? あーちゃん、あっちから行こ?」
本物かどうかはわからないが、腰に帯剣しているようなのを見て、桜はアイリスの腕を引く。音からすると甲冑は金属製。刃が入っていなくても、剣も金属なら充分凶器になると思えた。
アイリスも同じように判断したのだろう。珍しく不安を表情に出しながら、桜に引かれるまま振り返った。その背に男の声が再度掛かる。
「貴様、俺を覚えていないとは言わせないぞ。あんなに愛し合っていたのに忘れるわけがない」
その言葉を聞いて、今度はあからさまに不愉快そうな顔に変わりながら、アイリスが振り返る。これまた珍しく、氷青色の瞳で睨み付けながら、少々攻撃的な口調で返した。
「どう考えても人違いじゃないかしら? まったく覚えがないんだけど? 大体、あなたみたいな不細工なおっさんと、愛し合うわけないじゃない」
男の眉がぴくっと反応する。不細工なおっさん呼ばわりされたからなのか、それとも本当に知り合いなのに覚えていないからなのだろうか。男の方も目が据わった。その右手がアイリスに向かって伸ばされる。
「致し方ない。古代竜との盟約に基づき命ずる。我が元に馳せ参じよ!」
しんとした時間が過ぎる。男は何か魔法の呪文でも唱えたつもりのようだが、当然何も起きない。格好からしても、やはり大人になっても痛いままの人間だったらしい。
現実を知って、急に冷めてしまった桜の背筋を、何か不快なものが駆け上がる感じがした。
「あーちゃん、行こ? 警察、警察呼ぼ?」
竹刀袋に入れ肩に担いでいたエアーソフト剣を下ろしながら、桜はアイリスの腕を強く引く。しかし彼女は逃げようとはせず、深刻な表情で男を見つめ、何か考えている様子だった。
「くっ、その女か? 既に新たなマスターを? こうなったら力尽くで……」
金属が擦れる嫌な音が響く。危惧した通り、剣も少なくとも金属製ではある。桜は竹刀袋に入ったままのエアーソフト剣を両手に握り、男が抜き放つ前に距離を詰めた。
「あーちゃん、逃げて!」
突撃した勢いで柄頭を右手で押し込むようにして、相手が抜剣する動きを阻害した。パーンっと小気味良い音が響く。同時に振るった左手のエアーソフト剣は、見事に顔面を捉えていた。
エアーソフト剣は、スポーツチャンバラ競技用に開発された専用のもの。ゴム製の袋を空気で膨らませた剣身であり、怪我をしないよう工夫を凝らした構造である。
しかし、チャンバラという遊びのような名称とは異なり、最速の剣技と呼ぶ人もいる程、速度がものをいう競技でもある。最軽量かつ安全な武器。故に最軽装での試合となる。
得物を使う他のどの競技よりも身軽な状態で戦う。速度の乗ったその一撃は、ダメージこそないものの、防具なしではかなり痛い。
競技ではきちんとした面をつけることになっている。半端な防具では、鼓膜が破れることすらあるという。安全第一を目的とした得物とはいえ、顔面を直撃した桜の一撃は、相当痛かったはず。だが男は、ぎょろりと桜に向けて視線を落としただけで、微動だにしなかった。
「このー!」
正式に競技をやっていたら、間違いなく破門される行為。しかし相手は、本物の凶器を持っている。仮に刃が入っていないとしても、一撃で撲殺可能と思える大きさの金属製の剣。その恐怖が、躊躇いもなく無防備な顔面に攻撃を集中させた。
「桜、下がって! その剣も甲冑も本物よ!」
後ろから掛かったアイリスの声に、桜は逆に退けなくなって叫び返す。
「本物だとしても、あーちゃんはわたしが守ります! 早く逃げて!」
確かに剣も甲冑も本物なのだろう。そして何より、中身が本物。ただのコスプレ男ではない。どこから湧いて出たのか、正真正銘の戦士に違いない。そう桜の直感が告げていた。
初めから避けようとすらしなかった。ダメージにならない武器と見切っていたのだろう。そのまま平然とした顔で、男はペチペチと殴り続けられていた。
アイリスと桜の間を何度か往復したのち、男の琥珀色の瞳が狩人のような鋭い光を放つ。同時に甲冑に包まれた腕が勢いよく払われ、桜は大きく弾き飛ばされた。胸を強打され、肺を圧し潰すような痛みと共に息が詰まる。そのまま地面を転がって、ブロック塀にぶつかって止まった。
「なるほど。この女を殺せば、再契約可能ということか」
恐ろしい単語と共に、本気だと示す金属音が耳に届く。咳き込みながらもかろうじて立ち上がった桜の眼に入ったのは、抜き放たれた剣の刃先が放つ鈍い輝きだった。
種類はわからないが、本物の両刃の西洋剣。人を殺すために鍛えられた武器と、そのために訓練された戦士。両手で握った剣を頭の右に構え、切っ先は真っすぐに桜を狙っている。
子供の頃からあこがれていた、本物の剣での戦い。それがこれから始まろうとしている。物語の中ではなく、現実世界で。弾き飛ばされた時に噛んでしまったのか、口の中に鉄のような血の味が広がる。想像とは全く異なる威圧感に、桜はその場を一歩も動けなくなった。
「そうはさせない。転移門開錠!」
アイリスの声とともに、桜の視線の先で信じがたいことが起こった。東京の街中での、突然の甲冑男の襲撃。それよりも更に異質な光景が、男の頭上で展開された。
何もない空中に、二メートル四方はあろうかという金属製の門が下向きに現れた。ガシャリと音が鳴り、掛けられた錠が自動的に外れる。閂が勝手に動いて、門が左右にスライドして開いた。頭上へと繋がる門の先は別世界。漆黒の空と、そこで弾ける紫電が見えている。
「彼の者に驟雨の如く撃ち付け、三界より駆逐せよ。――天帝の雷霆!」
呪文のような言葉がアイリスの喉から流れ出ると共に、門の向こうから無数の稲妻が降り注ぎ、地面を穿った。
「くっ……。その天賦魔術。貴様、やはりアイリスではないか!」
すんでのところで跳び退り攻撃を躱した甲冑の男は、閉じていく門を見ながらアイリスを指差しそう叫んだ。
「あ、あーちゃん……? い、今のは、一体……?」
呆然と地面を眺めながら、桜はやっとのことでそれだけ言った。高熱で融けたのだろうか。落雷があった位置のアスファルトは、ドロリとした液状になっており、白煙が上がっていた。もし避けずに当たっていたら、死んでいたと思える。
どう見ても魔法。ファンタジー世界から飛び出してきたような戦士の次は、今度は魔法使い。それも、自分の親友が行使したのだ。竜を始め、妖や霊のような幻想の存在をいくつも目撃してきた桜だったが、流石に目の前で起きている出来事が信じられなかった。
「桜、これを使って! 転移門開錠。来れ、村正宗!」
再びのアイリスの詠唱と共に、桜の目の前の空中に小さな門が現れる。それが開いて落ちてきたのは、二振りの日本刀。融けた場所ではなく、硬いままのアスファルトに突き刺さった。
見覚えのある形状。いや、正確には、考え覚えのある形状。小柄な体格を補うために設定した、大太刀に分類される長さ百二十三センチもある長大な刀身。非力な細腕で振るうために極限まで軽量化し、僅か一・二三ミリの薄さとなった特異な構造。
それはまさしく、桜が書いているネット小説、逸姫刀閃の主人公が振るう一対の武器そのものだった。落下の勢いだけで易々とアスファルトを貫く、常軌を逸した斬れ味がその証拠。
(これは夢……?)
一瞬そう思った。甲冑の戦士や魔法使いはともかく、自分が勝手に考え出した武器が目の前にある。夢と解釈するのが妥当。だが、先程叩かれた胸の痛みは、口の中に広がる血の味は、余りにもリアル過ぎる。これは現実としか思えなかった。
(なら、村正宗は実在するってことですね!)
自分の妄想の産物ではなかった。現実にある物を、知らずに作品に登場させていただけ。そう桜は考えた。何しろ竜が実在するのだ。魔法だって今、目の前で使われたのだ。村正宗の存在を否定する根拠は何もない。
片手用であるために、刀身の長さの割にアンバランスなまでに短い柄を握る。右手に臙脂色。左手には紺青色。それぞれ違う色の糸が巻かれて装飾されたその刀の柄は、何年も使い込んだかのように不思議と手に馴染んだ。
「桜、ぼーっとしてないで!」
アイリスの鋭い声に視線を上げると、両手に握った剣を大きく振りかぶりながら突進してくる甲冑男の姿が目に入った。
もう桜の中に恐怖は残っていない。あるのは根拠のない自信だけ。歳の割にもあどけなく、どこか間抜けなその顔が不敵に笑う。出来るという発想が、心の中のすべてを占めていた。
「桜花一刀流奥義――飄風!」
技名を叫び終わった時には、既に甲冑男のはるか後方へと一足跳びに抜けていた。遅れて届いた気がする剣戟の音。僅か一合の金属音が甲高く鳴り響くと共に、その名の通り飄風のような旋風が、塀の向こうの樹々の若葉を巻き上げて追いかけてきた。
ややあってから、地面に落ちる鈍い金属音。振り返ると、甲冑男の剣は根元から両断され、剣身のほとんどは地面で跳ねて振動していた。
「な……な……」
ほぼ柄だけになった自分の剣を見て、甲冑男が絶句していた。左の刀を肩に担ぎ、右の切っ先を突き付けて、桜は得意げな顔で問う。
「その甲冑、剣よりも丈夫ですかね?」
男の顔に僅かな怯えが見えた気がした。それも束の間、重い甲冑を着ているとは思えぬ動きで跳び上がり、背後の塀の上へと着地する。甲高い口笛が響くと共に、上空から風が吹いた。
見上げると、背に鞍をつけた緑の竜が、鋭い牙の並ぶ大きな口を開いていた。中が赤熱するのを見た瞬間、何が起こるのか察して、桜は再び疾風のように動いた。
轟と背後で熱風が炸裂する。振り返るまでもなく、炎のドラゴンブレス。アイリスのいる方と逆に逃げて正解だったと桜は思った。数秒間連続で吹き付けられた高熱は、アスファルトを焼きながら桜を追ってきた。選択を間違えていたら、アイリスは丸焦げだっただろう。
熱を感じなくなって振り向くと、地面に降りてきた竜に甲冑男が跨っていた。彼はただの戦士ではない。竜を支配し、その背に跨り戦う竜騎兵。竜と村正宗が実在するのなら、存在しないわけがない。
アイリスを攻撃されては敵わない。桜は先手必勝で走り出した。既に空高く舞い上がりつつある竜騎兵に向かって。
「逃がしませんよー! 桜花一刀流秘奥義・水月!」
桜が大きく跳び上がった瞬間、空中に満月が現れた。水面に映ったかのように揺れながら浮くその月を右足で踏むと、同心円状に波紋が広がる。宙であるにもかかわらず足場として機能し、一つ月齢が進んで僅かに欠けた十六夜月が前方に現れた。
立待月、居待月と、徐々に欠けていく各月の明るい部分を踏んで、空へと駆け上がっていく。更待月を過ぎて痩せ細っていく下弦の月をこなすと、あとはほぼ線となった十四歩目の暁月を残すのみ。
アイリスを諦め一旦逃げる気なのか、更に天高く舞い上がっている竜騎兵に、刀は届かない。暁月の次は晦。明るい部分がなく踏めない暗月。続いてまた針のように細い上弦の月、朔月が現れるが、その先は下りていくために使わなくてはならない。
暁月の僅かな足場を強く蹴って跳び上がりながら、桜は右手の村正宗を思いきり振るう。
「桜花一刀流秘奥義・逸姫刀閃!」
光速の斬撃は紅に輝く刀閃の弧を飛ばし、避ける間もなく竜の鱗を斬り裂き鮮血を迸らせた。致命傷ではなさそうだが、竜騎兵は墜落していく。その様子を視線で追いながら、桜も身を翻して晦を踏み抜き、次に現れた朔月から一歩一歩下りていく。
どうやら竜騎兵は戦闘不能と見切ると、方向を変えてアイリスの側へと弧を描いていった。最後に満月を踏んで地面に到達すると、唖然とした顔で見ていた親友に向かって、刀を手にしたまま器用にブイサインを送った。
「どーですか! あーちゃんご希望の水月もやっちゃいましたよー」
昨日のドラゴンハートごっこでやってみせてと言われ、辛酸を嘗めたことを思い出して、得意げな笑顔を見せる桜。アイリスは参ったとばかりの苦笑で返す。
「流石天下無双のアホの子ね。それを手にしただけでやってみせるとは思わなかったわ」
〔ありがとう、桜。愛してる〕
珍しく本音も建前も褒め言葉。しかし心の声の方はダイレクト過ぎて、桜は頬を染めながら笑いで誤魔化した。
「ふ、ふふふふふ……ま、まあ、そこはあれ。桜さんですから! ではでは、ここは一旦退散しましょう。桜花一刀流奥義・花霞!」
舞うようにして両手の村正宗を振るうと、その軌跡に沿って淡い桜色の霧が発生する。それが二人を覆い尽くして隠したのを確認すると、桜はアイリスの手を取って駆け出した。