第四話 愛故に散る百合の花
「あ、ああ……う、うあああああ!」
桜の一番大切なものが散ってしまった。魔法がある世界ならまだ間に合うかもしれないと思って、細い身体を掻き抱く。力なく首が垂れ下がり、陽の光を反射してキラキラと輝く銀髪が、氷青色の瞳を覆い隠した。
その瞳は何も映すことなく、ただ冷たく沈んだ氷の青のまま、あらぬ方向に固定されていた。愛する桜が目の前で泣いているにもかかわらず、見向きもしてくれない。
ポタポタと頬に落ちる大粒の雫にも反応を示さず、寂しげな微笑みが張り付いたまま、本物の人形のように血の気を失った顔。
ブレザーの胸の部分には、溢れ出る鮮血で赤黒い染みが広がっていく。村正宗を引き抜いてもその鼓動は復活することなく、すべてが終わってしまったという事実を示していた。
そっとアイリスの身体を地面に横たえる。凍り付いた瞳を隠すように、瞼を下ろしてあげた。ただ眠っているだけのようなアイリスの姿は、童話に出てくる眠り姫のようで、無駄だと知りつつも唇を重ねた。王子様ではないけれど、呪いが解けないかと思って。
〔生きている間にやって欲しかったわ〕
「しゃべっ――」
いや、空耳だった。今確かにアイリスの声が聞こえた気がしたのに、目の前の彼女はもう指一本動かすことすら出来ない身体。その唇は先程と全く同じ形のまま固定されている。
「アイリス……お前、全て計画済みだったのか。人間になりたいというのもこのために……」
いつの間にか背後に来ていたレイアムが、鼻を啜って涙声でそう言った。
アイリスはずっと前からこれを狙っていたのだろう。自らの生命と引き換えにすることで、桜の生命を救うために。予言で破壊される夢幻の心臓である桜の心臓と、自らの心臓を入れ替えることで。
そしてそれを可能にするために、人間になった。竜のままでは大きさが合わなくて、入れ替えられないから。本当の竜の恩返しは、こちらの方だったのだ。
その深く熱い愛に、桜は涙を止めることが出来ない。永遠に失ってしまったことが哀し過ぎて、涙も永遠に流れ続けそうに思えた。
〔違うって言ってあげて〕
また空耳が聞こえた。妄想癖が進行したのだろうか。現実世界では見えないはずの、幻想世界の存在が見えていた桜。ついには、幻想世界にすら存在しない声まで、聞こえるようになってしまった。
〔私が人間になったのは、ただ桜とイチャラブしたかったから。二人だけの百合百合ワンダーランドを実現するために!〕
ぴくっと桜の眉が反応した。不審げにひそめられていく。幻聴にしては、リアル過ぎる。特にそのノリが。そしてこれは、心の中にだけ聞こえている気がした。
「あーちゃん、もしかして、生きてる……?」
〔志半ばで元の身体は失ってしまったけど、やっとあなたと一つになれた。これこそ本物の一心同体。文字通り身も心も一つになったのよ、私たちは〕
はっきりと聞こえるアイリスの心の声。どこから見ているのか、彼女の姿を探して周囲を見回した。
〔だから、身体は失ったんだって。今はあなたの中にいる。この心臓は私のものなのよ?〕
ぱあっと花が咲いたように桜の顔が明るくなる。左胸に両手を重ねて当て、耳を澄ました。確かに心臓の鼓動が聞こえる。確かにドクンドクンと脈打つ感触が伝わってくる。これはアイリスの生命の証。アイリスの心はここにある。心の象徴たる心臓と共に。
「あれ? でもなんか変じゃないですか? 死んだのはあーちゃんで、わたしは生きてるのに、どうして効果あったんですか? どうしてこれで予言が成就したんですか?」
邪竜神ヴァーヴェルも、ジーラントの竜や竜騎兵たちも、山の向こうに墜落してしまったようで、まだ戻ってこない。恐ろしい咆哮も聞こえず、消滅したかどうかはわからぬものの、少なくとも戦闘不能にはなったはず。
「おい、桜、お前、誰と話してるんだよ?」
独り言を繰り返しているように聞こえるからか、レイアムが不審げな表情で問いかけてくる。桜は手のひらを広げて突き付け言った。
「ちょっと黙っててください、チート魔法使いさん。今大事なお話してるとこなので、あーちゃんと」
「はあっ!? アイリスと!? ど、どう見ても死んでるんだが……?」
事態が呑み込めていないらしきレイアムは放っておいて、桜はアイリスの声に耳を傾けた。
〔予言にあったのは、あくまでも夢幻の心臓の破壊。禁忌とされているのも夢幻の心臓の破壊。夢幻の心臓の持ち主の殺害じゃないの〕
それはそう。予言にある夢幻の心臓が、あくまでも元々桜のものだった心臓を差すのなら、理屈としては合う。
〔かなりの賭けだったけど、成功したみたいね。心臓を失っても、人は死ぬとは限らない。例えば人工心臓で生き永らえることも出来る。だからこれも可能だと思ったの〕
「そっか……幻想世界を生み出すのは創造力。考えるのは頭。でもそれを維持するのは、信じる心でしたよね? その力を決めるのは、実在して欲しいと願う強い気持ち」
〔そう。心の象徴たる心臓が破壊されることで、それらの心も想いも断ち切られる。だから禁忌なのは殺害ではなく、夢幻の心臓の破壊〕
「なるほどなるほど、あーちゃん賢い!」
流石にアイリス。よく考えている。しかしアホだとも思う。ならアイリスも死ぬことはなかった。人工心臓なりなんなりに取り替えてから、桜の心臓だったものだけを破壊すればいい。
〔それも考えてみた。けど、失敗する可能性もあると思ったの。現実世界に行ったときには、もうこの計画はあった。でもすぐにはやらなかった。あなたの心臓がもう夢幻の心臓になっているのか確かめたかったから。あの頃はまだ構想だけで、書いてはいなかったわよね?〕
書き始めたのは中学生になってから。入学祝いにPCを買ってもらったのがきっかけ。それまでは、広告の裏やノートの余ったページに適当に書き散らしているだけで、作品としてはまとまっていなかった。
「えっと、でも、あの病気になったのって、まだ書き始める前だったと思いますけど?」
〔だからそのタイミングでやったの。ドラゴンの心臓と入れ替えるなんて無茶やっても、あなたは死なないと確信出来たから。死んだら予言が外れるもの。逸姫刀閃は書かれないから〕
「それじゃ、今壊した心臓、夢幻の心臓じゃないんじゃ……?」
〔いざとなったら、もう一度入れ替え直そうと思っていた。元の心臓に戻すのなら、安全だと思って。でも、必要ないって判断出来た。どうしてかわかる?〕
さっさと教えてくれればいいのに、相変わらず意地悪である。そして心の声は聞き取れるはずなのに、アイリスが考えていることは読めない。心臓だけになってもポーカーフェイス。相変わらずのクーデレ。
「えっと……あの……ぐむむむむ、あ、あとで愛してるって一億回言ってあげますので、教えてください」
〔あとでとは言ったけど、いつとは言ってない。とか言い出さないわよね?〕
言うつもりだった。一億回も言えるわけがないのだから。
〔まあいいわ。教えてあげる。私のハンドルネームは、水野アヤメ。逸姫刀閃の一番のファン〕
本文よりも長い感想を書いてくることすらある、熱狂的なファンの名前。正体はアイリスだったのだ。気付かなかった桜も桜だが。何故なら、名前そのままだから。アイリス・ウォーターズ。日本語にして、アヤメ・水。
身体があったら、今頃ドヤ顔をしているのだろう。そういう感情が心の声に乗って伝わってきた。
〔そもそも夢幻の心臓は、あなたが生み出すんじゃなかったのよ。一番のファンである私の中にある心臓が、いつだって夢幻の心臓。だから人工心臓に入れ替えたって、それが夢幻の心臓になってしまう。身体に入ったまま、破壊する必要があった〕
そうすると、最初からアイリスは死ぬ運命にあったのだ。少なくとも身体は。心臓を失っても死なない魔法でもあれば、どうにかなったのかもしれない。しかしタイミングよく用意することが叶わなかったのだろう。予言の時期がいつなのか、わからなかったから。
「あーちゃん、あの……」
〔私は後悔してない。むしろ夢を叶えられた。あなたと本当の意味で一つになれたのだから。そしてこれはあなたのお陰よ、桜。私のことを強く想い続けてくれたから、心臓だけになっても魂が消えなかった〕
無駄ではなかったのだ。あの滅びた領域の暗闇の世界で、アイリスのことだけを考え続けたのは。彼女を愛する心が、彼女を救った。彼女を求める心が、その存在を維持した。強く願えば必ず叶う、幻想世界の住人だから。
〔でもそれは同時に、桜の中にあるこの心臓も、やっぱり夢幻の心臓だったことを示してる。きっとジーラントの夢幻の心臓は、二つで一つ。あなた自身だって、逸姫刀閃の一番のファンだったんだから。邪竜神ヴァーヴェルはまだ生きてる。その波動を感じる〕
「なら、桜さんのやることは一つですね。なんせ、本物のドラゴンハートですから!」
すっくと立ち上がって、桜は袖でゴシゴシと涙を拭った。肝心のアイリスの方の声が聞こえておらず、しきりに首を捻ってなんとか理解しようとしている様子のレイアムに告げる。
「あーちゃんはここで生きてます。わたしの心臓の中で。これもまた夢幻の心臓。邪竜神ヴァーヴェルも、まだ消えてません。だから、倒さなきゃなりません」
「アイリスが……そこで生きて……?」
レイアムの顔に満面の喜色が浮かぶ。背伸びして桜の頭に手をやると、ぐしゃぐしゃに掻き乱しながら言った。
「お前のアホの子パワーはやっぱ規格外だ! だが、アイリスのラブラブパワーは、それをも凌ぎやがるってわけだな? 確かに、まだ終わってねーようだ」
だぶだぶのローブの手で、レイアムが山の方を指す。そこからは、徐々に高度を上げる邪竜神ヴァーヴェルの姿が現れた。どうやって出しているのか、またローブの中から銀色の鏡を取り出すと、レイアムが一瞥してから桜に向ける。
「エミルの野郎はもういねー。古代竜の盟約や乗り手に意味があったのかどうか知らねーが、もう奴は完全に自分の意思で動いているのは間違いねー。やらなきゃならねー、ここからは予言にはねー。オレたちの手で運命を切り拓くぜ!」
「ふっ、役に立つんですかねー? この心臓は元々あーちゃんのですけど、今は桜さんのものでもあるんですよ? アホの子パワーは無限大。ジーラントはまだまだチート魔法使いさんより強いですよ、きっと?」
ビリビリと全身を震わせる邪竜神ヴァーヴェルの咆哮を感じながら、桜はドヤ顔で宣う。レイアムはニヤリと笑うと、同じく強がりで返した。
「けっ、言ってろ。アホなのはお前だけじゃねー。このオレ様だって負けちゃいねー」
本能で最大の敵がわかるのだろうか。邪竜神ヴァーヴェルは、ぐんぐんとこちらへ向かって飛んでくる。どうやって倒したものかと思案しながら見ていると、アイリスの頼もしい声が聞こえた。
〔桜、あなたはもうこのドラゴンハートをものにしてるわ。私であり、あなたでもある〕
「――ってことは、出来るってことですね?」
〔ええ。思いっきりやってしまいなさい。今ならきっとすべてが使える。あの邪竜神を倒すためにあなたが用意していた妄想のすべてが!〕
「妄想とか言わないでくださいー!」
傍から見れば、どう考えてもただのおかしな独り言娘。しかし、だからこそこの幻想世界では強い。
妄想はすべて現実となる。この幻想世界においてはそれが理。妄想で作られた世界なのだから。
「心の強さが力となる。それが幻想世界」
桜の全身に力が漲っていった。やれると思えばやれる。桜は深紅の瞳で空を見上げる。近付いてくる邪竜神ヴァーヴェルの、同じ色の瞳を睨み返し、激しい火花が散った。




